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第八章 2 アールヌーボーの灯り

2 アールヌーボーの灯り  その夜は久しぶりに礼司が音丸を抱いた。  大体は礼司が抱かれる側なのだが、時に音丸も背後を明け渡すことがある。どうも気分が弱っている時にそうするらしい。つきあいの短い礼司も気づいていた。  もちろんどう攻めれば音丸が絶頂に達するかは龍平に学んでいた。枕に顔を押し当てて喘ぎながらも声を殺している音丸に、 「ねえねえねえ……感じる? いい? ちゃんと声出してよ、音丸さん」  滑らかな背中に手を当てて心を計るかのような龍平である。猛った物で静かに音丸の中を探って行く。殊更にゆっくり動いている。  焦れた音丸が「もっと、早く」と腰を突き出し、龍平が激しく突いた途端に、礼司の意識がまた飛んだ。  今夜ばかりは薄汚いアパートの天井ではなく、瀟洒なアールヌーボー調ライトが光るホテルの天井である。だからといって嬉しいわけもない。  音丸が最も感じる内部を己の物で責め苛むことも出来ず、礼司はまるで蠅のようにライトに留まっている。  眼下のベッドでは折り重なった二人が共に激しく腰を動かしている。 「あっ、龍平! いい、龍、もっ、もっと……もっと、ああっ、龍平……!」  嬌声を上げる音丸は、何の迷いもなく龍平の名を繰り返している。  龍平はと言えば激しく音丸を攻めながら、いつの間にか手に赤いネクタイを持っている。 「天国を……見せてあげるよ……音丸さん」  喘ぎながら言うと背中に胸をひたと合わせて赤く細い紐を持った両手を前に回す。音丸の首にネクタイを巻いている。 「めっちゃ感じるから……ホントだよ」 「やめっ! 首は……喉はダメだ! 声が……」  指先で自分の首に巻かれたネクタイに触れて音丸は首を横に振った。そして背後を振り向いた瞬間、龍平の上腕筋が引き締まる。両手にぐっと力を入れたのが見て取れる。  音丸の口から、きゅっと何かの鳴き声のような音が出た。首に巻いたネクタイが一気に締まって喉を圧迫しているのだ。じたばたと両手を背後に向けて動かしては龍平の手を捕まえようとしている。  アールヌーボー調ライトの上からは、先程までは共調して動いていた二人が不協和音の如くばらばらに動くのが見える。  いや、見ている場合ではない。いかに忘我の境地に到るためとはいえ、落語家の首を絞めてどうするのだ。声が商売道具なのに。喉を潰したらどうするのだ。  自分の身体に戻らなければ。龍平の動きを止めなければ。礼司は必死で宙を泳ぐのだが、龍平は途轍もない圧を発していて近づくことさえ出来ない。  今や音丸は本気でもがいている。身を起こして背後の龍平を振りほどこうと暴れているが、首に巻きついた赤いネクタイは緩まない。  ぎりぎりと歯を食い縛ってネクタイを引いている龍平は、快楽プレイではなく殺人を望んでいるかのようである。  ちりん。  突然、澄み切った音が響いた。  ちりん、ちり、ちり……とまた鳴った途端に礼司の意識が、ひゅっと吸い込まれるように身体に戻った。  両手に握っているネクタイは振り解こうにも離れない。拳を強く握り過ぎて指関節が動かないのだ。  と、胸板を思い切り蹴られてベッドに仰向けに転がった。  呆れたことにその瞬間コンドームの中で射精していた。  全てがスローモーションで見えるのだ。  スーツやワイシャツをつくねた上に倒れ込んで、それらがベッドから滑り落ちる流れに乗って頭から床に落下していた。  礼司は上半身だけ絨毯敷きの床に寝そべっていた。  脚は未だベッドの上にある。何やら腹筋を鍛えるエクササイズでもしているかのようである。  手には既に力を失った赤い蛇のようなネクタイがまとわりついている。  ベッドの上からは音丸が激しく咳き込む音が聞こえて来る。  窒息しかけていたのかも知れない。  えづきながら咳き込む声は、黄泉の国から帰って来たかのような恐ろしい音だった。  礼司はふと顔を横に向けた。テーブルの足元に鈴の根付が落ちていた。ハンカチにくるんでズボンのポケットに突っ込んでいたのが、何かのはずみで落ちて転がったらしい。  鈴の音以外にも何かが聞こえる。床に頭を付けたまま耳を澄ませば、ドアチャイムも鳴っているのだった。その音さえも聾さんばかりにドアの外から、 「あにさん! 起きてください、音丸あにさん! 大変です! 弦蔵師匠が入院です!」  怒鳴っているのは妹弟子のたっぱだった。しまいにはドアをどんどん叩いている。 「今、行く……起きてる」  しゃがれ声が聞こえた。音丸がベッドから下りる脚が見えた。そのままふらふらとドアに向かっている。  あわてて礼司は服と共に床に滑り落ちたバスローブを引き寄せた。立ち上がって音丸に渡したいのだが、身体が妙にちぐはぐでうまく動けない。  音丸もまた身体の自由が効かない様子で、ドアに縋るようにして鍵を開けた。全裸なのである。ドアの外にいるのは女性前座である。  礼司はバスローブを持ったまま這うようにして音丸に近づく。  ドアチェーンを付けたまま扉を開いた音丸は、そこに張り付くようにして細い隙間から顔だけ見せて妹弟子と対応した。  礼司は一瞬ドアの隙間から覗いたたっぱの目が床の自分を見たような気がして、意味もなく身を伏せてしまう。けれどたっぱは音丸に向かって事態の説明を始めるのだった。 「部屋で打ち上げをしてたら、文蔵師匠が急にお腹が痛いと苦しみ出したんです。救急車で病院に行ったんですが尿路結石で入院だそうです。命に別条ないようですけど、この後のツアーは休まれるそうです」  そのため主催社が明日以降の公演に代演できる者を探しているとのことだった。もし見つからなければ、残りの出演者で凌ぐしかない。 「ですので、出演者全員に長めにやっていただく場合もあるそうです。明日以降はそのおつもりでご準備の程よろしくお願い致します」 「わかった」  短く言ってドアを閉めようとする音丸に、 「あにさん、声が変ですが……大丈夫ですか?」 「明日には治る。お疲れさん」  ようやく閉ざしたドアに身を寄せて音丸は立ち尽くしている。肩が上下しているのは息を整えているようにも見えるし泣いているようにも見えた。  礼司は二人が話している間に床に落ちている服を拾っては身に着けていた。今度こそバスローブを手にして音丸に近づこうとすると、ちりんと小さく音がした。手が床の鈴に当たったらしい。拾ってまたズボンのポケットに入れる。  そしてようやくバスローブを音丸の裸の背中にかけてやる。やはりドアに張り付いたまま音丸はバスローブの袖に腕を通している。こんな場合なのに礼司は、まるで自分が前座で兄弟子の着付けを手伝っているようで、かすかに嬉しい気分になる。 「声……大丈夫ですか?」  つい丁寧語で話しかけているのも前座のようである。  そんな甘い心持を打ち砕くように、いきなり音丸は床に崩れ落ちた。肩が揺れていたのは、やはり泣いていたのだ。  うずくまった身体から堪え切れない嗚咽が漏れ聞こえて来る。しまいには頭を抱え込んで咽び泣く背中に思わず手を伸ばしたが、途端に振り払われた。 「……んなんだ?」  絞り出すような声だった。泣いているからか喉を絞められたせいかはわからない。 「あんたは一体何なんだ⁉」  いきなり怒鳴られた。赤子のように床に這いつくばって拳を握りしめ、こちらを見上げて吠えている。 「あんたは……あんたは松橋さんで、龍平じゃない! 龍平でもないのに、何であんたは……何であんなことを……」 「何でって……だって、あいつが勝手に……」  困惑している礼司に音丸はしゃがれた声を浴びせ続けた。 「おかしいだろう⁉ あり得ないだろう‼ どうして龍平みたいに出来るんだ⁉」  礼司には答えようがない。性の師匠が龍平だったから。口づけも愛撫も何もかも習ったとおりにやっているから。まして礼司の意識が飛んだ時はもう一挙手一投足が龍平本人のものだから。  けれど音丸が求めている答えはそんなことではない。憑りつかれている礼司本人でさえ信じ難い(あやかし)の存在を果たしてかつての恋人が信じようか?  礼司がうろうろと視線をさまよわせているのは龍平の登場を待っているからである。パニックの音丸を宥められるのは龍平だけである。英単語のひとつも出て来ないかと口をもぐもぐさせてみるが、こういう時に限ってまるで存在が感じられない。  逆にアールヌーボー調ライトにへばりついているのかと天井を見上げてさえいる。  そんな礼司に音丸は言葉を叩きつける。 「あんたは平気なのか⁉ あいつに身体を乗っ取られて、何ともないのか⁉」  音丸は涙も涎も撒き散らさんばかりに泣き喚いている。 「何とも……って……?」  礼司はにわかに激情に駆られた。全身の毛が総毛立ち、怒髪天を衝かんばかりである。足元で一重の瞳は溢れる涙でぎらぎら光っている。それを睨み付けて口を開くが、怒りに震えてうまく声が出ない。ようやく絞り出した言葉は、 「……何ともないわけないでしょう⁉」  ゆらりと揺れてようやく音丸は立ち上がった。涙で濡れた顔を拭うこともなく、間近で礼司を睨み下ろしている。つい先ほどまで身体で繫がっていた二人が、憎々し気な光を湛えた同じような目で睨み合っているのだ。 「俺がど、どんだけ酷い目に……あんたなんかに、わか、わかるわけっ……‼」   礼司は、これまでの驚きや戸惑い全ての感情が身体の毛穴から噴き出すかのようにぶるぶる震えていた。これ以上まともな言葉は出て来なかった。  わなわなと震える手をドアノブにかけると何とか扉を開けた。 「……すみませんでした」  音丸に背を向けたまま言うと、礼司は廊下に足を踏み出した。

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