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第八章 3 アンビバレント

3 アンビバレント  途端に礼司は背後から抱きすくめられた。よろけてまた室内に引き戻される勢いである。 「……めん、ごめん……違う。行くな。悪かった」  音丸はまた泣いている。パーマの頭に顔を埋めて涙を流している。その嗚咽の中に「りゅうへい」という囁きを聞いた途端に礼司はその両腕を乱暴に振り払っていた。音丸を突き飛ばさんばかりの勢いで、 「俺は礼司だ‼ 何でいつも龍平なんだよ⁉ ヤッてる時まで龍平って……俺は松橋礼司なのに‼」  今度こそ廊下に出た。  室内で踏鞴を踏んだ音丸は蒼白の顔で目を見開いている。まるで敷居を挟んで室内だけが時が止まり真空地帯になったかのようである。  自分は一体何を言ったのか?  にわかに我に返った礼司は震える手をわが胸に当てた。  とてつもなくアンビバレントなことを叫んだ気がする。  けれど思い返す余裕もなかった。ただ荒い息のまま言うだけだった。 「もう、やめましょう……やめます。こちらこそ申し訳ありませんでした」  改めて丁寧に頭を下げた。目の前でドアが意思を持つかのように自ら静かに閉じた。そして自動ロックが掛かる音がした。  廊下の壁には等間隔で並んだアールヌーボー調のライトが橙色の明りを放っている。長い廊下に同じようなドアが連なっている。  ふらふらと歩き出した礼司は、ほんの二つばかり先のドアが細く開いているのに気がついた。近づく程にドアを半身で押さえたたっぱの姿が見えて来た。特に隠れる様子もなく、 「あにさんは大丈夫ですか?」  と静かに尋ねるのだった。  まるで落語会の受付をしているような平静な声である。礼司も落語を聞きに来た客であるかのように頷いて、 「よろしくお願いします」  と言っていた。一体誰に何をよろしくお願いしたのかわからない。  長い廊下の果てにあるエスカレーターホールに辿り着くと呼び出しボタンを押して、やって来た箱に乗った。  礼司自身は涙の一つもこぼさずに格調高い老舗ホテルの玄関を出ると、駅前のビジネスホテルに戻るのだった。  翌朝、礼司は起きるなりビジネスホテルをチェックアウトした。盛岡駅で殆ど始発に近い時間の新幹線に乗った。芸人でも音丸ファンでも見知った顔に会いたくなかったからである。  そして仙台の実家に帰るなり、幼少時からの行きつけの床屋に駆け込んだ。パーマをかけた髪を切り落して、丸刈りの頭にしたのだ。 「何だよ、それ⁉ 夏だからって高校球児になることないだろう!」  頭の中で龍平が喚き散らしていたが、知ったことではない。  東北遠征は初日の盛岡だけで終わりにした。  地団駄を踏まんばかりに悔しがるのは龍平である。夜毎現れては礼司を責めるのだった。 「今日は二戸公演だったのに」「明日の大曲は行くでしょう?」「じゃあ秋田公演は?」と毎日飽きずに言って来る。 「チケットはもう破って捨てた!」 「そんなのなくても行けばいいんだ。音丸さんに謝って見せてもらうんだ!」 「謝るって……あんなことしたのおまえだろう⁉ よりにもよって喉を絞めるとか何なんだ⁉」 「めっちゃイイんだよ。音丸さんだって気に入るはずだったのに。途中で止めるからあんなことになったんだ」 「人のせいにするな‼」  自室で言い争っているうちに、部屋の壁をどんどん叩かれた。一瞬、月光荘で隣室の住人に注意されたかと思ったが、 「礼司! 夜中に一人で何わめいてんのよ⁉ 眠れないでしょう」  姉だった。  思わず知らず両手で口を押える。頭の中でやり合っているつもりが、声を出していたのだ。  すると自分は一人で礼司役と龍平役とを演じ分けていたのか?   落語家のように上下(かみしも)を切りながら?  何やら絶望的な気分になりベッドに蹲り頭を抱える。見えないけれど我と我が姿はまるで音丸がドアに縋って泣き崩れた時のような気がする。 「あああああ!」と心の中で絶叫すれば、同じように頭の中では龍平が懲りずに、 「ねえねえねえ! 明日は朝一で出るんだよ。酒田公演に行くんだから」  と命じているのだった。  礼司は龍平の言葉を完全に無視した。  あの時一人真空地帯にいるかのような音丸の蒼白な顔を思い出しては、自分が投げつけた言葉を激しく後悔するのだった。 「俺は礼司だ‼ 何でいつも龍平なんだよ⁉ ヤッてる時まで龍平って……俺は松橋礼司なのに‼」  確かにそれは常に思っていることだった。ベッドの中だけではない。日常的にも嫉妬の炎に焼かれて丸焦げだった。  けれど音丸にしてみればどうなんだ?  当初は何度も「松橋礼司さんですよね?」と確認していたのだ。  それを中園龍平だと思い込ませて肉体関係を持った揚句に「龍平」と呼ぶのを糾弾するなど、あり得ないことだろう。  もう二度と自分は音丸と会うことは出来ない。再び同衾するなどあってはならない。  そうして落語家、柏家音丸の情報は一切遮断することにした。  おそらく菅谷百合絵やジジババ達はそれぞれに東北ツアーのどこかの公演に参加したはずである。ファンサイト〝音丸通信〟には各レポートが逐一並んでいるに違いない。けれど礼司がそれを見ることはなかった。  気になることは多々あった。  あの後、音丸の喉や声は問題なかったのか?  入院した弦蔵師匠の具合はどうなのか?  そして、たっぱは?  けれど礼司は意地でも情報を仕入れなかった。スマホに殆ど触れなかった。  それで何をしていたかといえば、今更ながら司法試験の勉強をしていた。参考書を買い込み、件の駅前塾にも熱心に通っていた。  それでも時々、頭の中で龍平とやりとりしているのが声に出てしまうらしく、机を並べている塾生に薄気味悪そうな目で見られた。 「礼司……あなた睡眠障害か何かの病気じゃないの? 夜中に一人で大声で喋ってて。夏休み中に病院に行ったら?」  と言うのは姉である。夜中に壁を叩くのに飽き足らず、部屋に踏み込まれたことさえある。その時に提案されたのだ。 「うん……そうだね」  礼司が大人しく頷いたのは、自分でも何等かの助けが欲しかったからである。けれど実際に病院に赴くことはなかった。  夏休みは連日猛暑とゲリラ豪雨に見舞われていた。礼司の精神状態にふさわしい天気ではあった。  八月十五日に実家を後にした。駅の売店で仙台土産に萩の月を何箱か購入して新幹線に乗った。月光荘に戻る途中で有田津久志の新盆に出ることにしたのだ。  新幹線で東京まで戻ったら中央線に乗り換えて山梨に向ってとある駅で途中下車をした。  サマースーツとはいえこの暑さではとても着ていられない。上着は脱いで長袖ワイシャツも袖を捲り上げる。黒いネクタイなど結ぶ気になれずポケットに入れた。  コインロッカーにザックなどの荷物を預けて萩の月一箱だけを手に下げて駅からタクシーに乗った。  有田の自宅に向かう車中でようやく黒いネクタイを結んだ。  指先にすべすべした生地が触れるだけで、ベッドで音丸の首にネクタイを巻きつけた感触を思い出して全身に悪寒が走った。  おかしな話である。あの時身体を司っていたのは龍平のはずなのに、礼司の手にもあの感触が残っているのだから。  今回訪れたのはあの立派なセレモニーホールではなく有田の実家でもある小さな寺だった。寺の駐車場を回って自宅に出る。  今日は裕奈は来ていないようだった。すみれ色のコンパクトカーは見えなかった。  玄関には白い提灯が下がっている。法要は寺ではなく自宅で営まれるようだった。 「そりゃツクツクの家はこっちだからさ。お盆の時に帰って来るのもこの家だろう」  既に到着していたヒストリア・グルニエの部長がもっともらしく言うのだった。  玄関で迎えてくれた家族らしい若い女性に萩の月を渡す。座敷に案内されると既に部員達が集まっていた。皆一様に礼司の坊主頭に驚いている。 「マッツン! 心境の変化でも?」  と尋ねられて、 「もっとまじめに勉強することにした。三年生だからな」  などと言っている。言い訳のような本音のような答えではあった。  座敷に設えられた新盆飾りには中央に真新しい位牌があった。難しい漢字が並んだ戒名が彫られている。つまり大学で〝ツクツク〟と呼ばれていた有田津久志は、あの世ではこの難しい漢字の名前になるらしい。  ふと思う。  中園龍平の戒名は何だったのだろう?  京都に住むという両親は一人息子を亡くしてから戒名を刻んだ位牌に手を合わせているのだろうか。 「うるさいよ」途端にツッコミが入る。頭の中の龍平である。 「何か言ったか、マッツン?」隣に座った部長に言われて、また手で口をふさいで首を横に振る礼司である。  いよいよ龍平は礼司の声帯まで乗っ取り始めている。何とかしないと……。  ズボンのポケットに手を突っ込む。鈴の根付を入れているのだ。厄除けのつもりだが、音が鳴らないようにティッシュを噛ませてハンカチでぐるぐる巻きにしているから意味がない気もする。  中園龍平は厄除けはさして気にならないようである。ただ礼司がズボンのポケットに手を入れて鈴の存在を確かめる度に、 「君ね、その仕草は下品だからやめてくれない?」  と注意するだけだった。  法要を執り行ったのは、葬儀の時に見た紫色の袈裟を着た太った僧侶だった。家族席にも黒い法衣の男がいるのは、有田の父親のようだった。

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