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第八章 4 鰯の頭と般若心経
4 鰯の頭と般若心経
法要後に精進料理を振舞われる。有田の家族が席を回って酒を勧めている。礼司は例によって、
「すみません。アルコールはダメな体質なんで……」
と言うと、今時珍しい瓶入りの烏龍茶が出て来た。
グラスに注いでくれたのは、法衣を着た有田の父親である。脳溢血の後遺症で左半身が不自由とのことで葬儀の時は車椅子に乗っていた。
今は足を引きずっているが大分歩けるようになったようである。左手も指先こそ動かないようだが右手で持った瓶を支えるに不自由はないようだった。
「マッツン、松橋さん……ですね。津久志に聞きました。お酒が吞めなくて、唐揚げも苦手だそうですね。今日は肉も魚もありませんから安心して食べてください」
僧侶の父親は見事な禿頭だった。毎朝電気シェーバーで手入れをしているとツクツクが言っていた。
鼻の下から始めた髭剃りを顎からこめかみ頭部と電気シェーバーを動かして行き、後頭部も漏れなく剃って、また鼻の下に戻って来るのだと言う。仕上げのアフターシェーブローションも顎から頭まで塗りたくるのことである。
その仕草の再現もツクツクの得意ネタで呑み会で披露していた。思わず口元が緩んで、ついそのことを話してしまう。
父親もにやにや笑って聞いている。老いた表情のどこかに有田津久志が見えるような気がして、地下鉄の駅で別れる際に般若心経を唱えてもらう約束をしたことまで話してしまう。
「津久志が約束したなら私が代わりにやりましょう。松橋さんがお嫌でなければ、ですが」
こくんと頷く。
何だかもう遥か昔のことのような気がする。
「信じるも信じないもあなた次第です」とか「鰯の頭も信心から」とか言っていた。今なら少しそれがわかる。礼司は縋るような目で父親を見つめて、
「お願いできますか? お父さんに……お経を唱えてもらえますか?」
「何考えてんの? 馬鹿じゃない?」
頭の中で誰かが言ってる。
どうでもいいのだそんな揶揄は。
宴席を離れて、寺の本堂に誘われる。
外はまだ蝉しぐれもかしましい真夏なのに、木造建築の本堂に入ると蒸し暑さの中にひんやりとした静寂があった。
ただ一人、僧侶の後ろに正座して般若心経を聞く。
ツクツクは、リハビリ後も発声や言語が明瞭ではないと言っていたが、礼司には朗々と唱えられるお経に不足はなく、ただ有り難いばかりだった。
木造建築の格天井に音が広がり柱や畳に静かに染み入るようだった。何となく礼司も前で両掌を軽く合わせているのだった。
続いて唱えてくれたのは「ねんぴーかんのんりき」という言葉が何度も繰り返される力強いお経だった。まったく意味不明ではあるが妙に力強さを感じる礼司ではあった。
後になって調べるとこれは「念彼観音力」というお経らしかった。
正座してお経を聞いているうちに、頭の中の暗雲のようなもやもやが次第に晴れて行く心持ちだった。
有田家を辞して部員達と共に都内に帰る。仲間達と話しているうちにも気づいていた。頭の中が清浄になっている。
皆と別れて地下鉄に乗り、ちうりっぷ商店街から月光荘に到る頃には判然としていた。礼司の中に中園龍平はいなかった。常に後頭部の内側あたりにあった違和感がきれいに消え去っている。
それを確信したのは仙台土産の萩の月を持って大家の屋敷に出向いた時である。広々とした玄関で大家のおばさんに手提げ袋を差し出して、
「あの、これよかったら……実家に帰省したんで……」
もごもご言った。龍平がいればもう少し気の利いた口上を述べたはずである。
「まあまあ、ご丁寧にありがとうございます」
受け取る大家のおばさんの後ろには、どこかで見たような上品な老婦人も控えていたが、
「わざわざありがとう存じます」
と頭を下げるのにも、
「いえ別に……それ、冷蔵庫で冷やして食べると美味しいです」
などと手提げ袋を指差す礼司である。
おばさんが妙な顔でちらりと背後を見たのは、礼司のつたない言葉を笑わないためだったのか。
屋敷の奥からは線香の香りが玄関まで漂って来る。考えてもみればこの家の葬儀は済んだばかりである。四十九日も過ぎていないだろう。
おそらく後ろにいる老婦人は手伝いに来た親戚なのだろう。白髪に紫色のメッシュを入れた、なかなかお洒落なマダムではあった。
礼司はぺこぺこ頭を下げて外に出た。何とも見苦しいお辞儀である。
だがそれも大家との世慣れぬ会話も中園龍平が消えた証拠のように思えた。
やっと本来の自分、松橋礼司が戻って来たのだ。
お盆以降もう仙台には戻らず月光荘に留まった。
あれ以来、落語は一切聞かなかった。予約済みのチケットは全て譲渡サイトで売り払った。
〝音丸通信〟も百合絵やジジババが参加するファンサイトのグルーブLINEも見れば行きたくなるに決まっている。だから全てをスルーした。
予備校でのアルバイトを再開し、仕事のない日は大学図書館や部屋で勉強に励んだ。
そして夏休みも終わった。蒸し暑さは一向に去らず秋の気配など微塵も見えないのに九月だった。
大学が始まればすぐに前期の期末試験である。礼司はもう何も考えずにただ勉強やバイトばかりしていた。
だがどうにも気にかかるのは、窓から見える大家宅の様子である。夜、勉強の合間にカーテンの隙間から覗けば、まだ喪中のせいか時々屋敷内に何人もの人がいるのが見える。
その中で一際目立っているのがあの時、玄関にいた上品な老婦人である。白髪に紫色のメッシュをいれた姿がホログラムのような不思議な透明感で見えるのだ。
何度かそんな姿を見るうちに気づいてしまった。あの老婦人は、葬儀の時に祭壇に飾られていた写真と同じ顔である。
あの家で鶏の丸焼きをご馳走になった時に会った、皺だらけで腰の曲がった老婆である。可音の曾祖母。写真が若かったのは遺影用に撮影したのがかなり前だったからだろう。
いやいや、可音の曾祖母は亡くなったのだ。今あの家にいるのは顔の似た親戚に過ぎない。
そう思ってカーテンをきっちり閉ざして振り向いた途端に、その老女が目の前にいるのだった。
「わッ!」
思わず声を上げる礼司を、奥ゆかしい笑顔で見つめている。
身体が透けて冷蔵庫やその上に乗っている炊飯器まで見える。柏家音丸が持って来た炊飯器である。冷蔵庫の中にはまだ彼が作ってくれた三角おにぎりが何個か冷凍してある。
最近の礼司は自炊も始めて、炊飯器でご飯を炊いてインスタント味噌汁や冷凍食品のおかずで食事をとったりしている。
いや、今が今それはどうでもいいことだ。
この目の前にいる透明な老婆は一体何者なのか?
あわてて机の上に置いてある鈴の根付を手に取った。焦る気持ちのままに振り散らかせば、ちりちりとけたたましく鳴る。老女は楽し気にそれを見ているだけである。
くすくすと笑い声が聞こえて来た。頭の裏側あたりで誰かが嘲笑している。礼司は大仰に振り向いたが背後には誰もいなかった。
「だから、鰯の頭は鰯の頭なんだよ」
愉快そうに言っているのは龍平の声である。
消えたのではなかったのか?
「あなたはおひとりなんでしょう? 可音とつきあってくださらない?」
「はいっ?」
今度は前を向く。
透明だった老女はすっかり実体化して部屋の中央にすっくと立っている。
「あの娘はもう二十七才なのよ。すっかり嫁き遅れてしまって……」
「はあ?」
とっさに何を言われているのか理解できない。構わず老女はため息などついて話し続ける。
「引きこもりでも頑張って勉強したのよ。きちんと高校卒業の資格をとって……なのに進学したのが美術だかデザインだかの学校なんて。不良の行く場所じゃないの」
「いや、そんな……デザイン学校は立派な学校ですよ。可音さんの個展も素晴らしかったです」
「あなたは、そうお思い?」
老齢の幽霊にひたと見つめられて、礼司は力強く頷いていた。
「はい。良い個展でした。銀座で個展が開けるなんて立派だと思います」
「じゃあ、あなた可音をもらってやってくださらない? おひとりなんでしょう?」
「はいぃ⁉」
素っ頓狂な声を上げてしまう。
幽霊にひ孫と結婚してくれと頼まれている?
そもそも何で自分は幽霊と平気で会話をしているのか?
それは平気で幽霊とセックスなどするからだ。
その性交渉をしたもう一人の幽霊は相変わらず礼司の頭の中でげらげら笑っている。
というか幽霊の数え方は、一人二人でいいのか?
それとも墓のように一基二基と数えるのか?
冷蔵庫の炊飯器の奥には調味料棚がある。音丸が設えたもので仕事先で土産にもらって来た各地の珍しい調味料を並べている。
塩などは粗塩から岩塩までいろいろ並んでいる。
その中から粗塩の瓶を手にしたのは礼司なのか龍平なのかわからない。
穴空きの中蓋を外して中身をごっそり手の平に空けると、部屋の中を見て回っている老女に力一杯投げつけた。その瞬間、
「誰が掃除をすると思ってるんだ⁉」
と思ったのは礼司である。
すると渾身の力で投げつけたのは龍平なのだろう。
頭から粗塩を浴びた老女は、絹を裂くような悲鳴を上げてかき消えた。
と同時に遮光カーテンにぶち当たった粗塩がばさばさと激しい音をたてて部屋中に散らばった。
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