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第九章 1 相見互い
第九章
1 相見互い
室内に残っている姿は礼司一人だった。
「だって、おまえは塩なんかじゃ消えなかった……」
呟いたのは礼司である。
「僕はそんなの信じてないもん。てか、おまえとか呼ぶのやめてくれない?」
答えているのは龍平である。
礼司は完全に落語家よろしく上下 を切って話しているのだった。
つまり〝鰯の頭も信心から〟とは誰がそれを信じているかによるのかも知れない。〝般若心経〟によって一時は消えた龍平は多少はそれを信じていたのだろうか。
そして、あの老婆は塩の浄化を信じていたのだろう。
トランスジェンダーの曾孫 の行く末を案じて化けて出て来た老婆……?
スマホを見れば時刻は既に零時を過ぎていた。幽霊が出るにふさわしい時間帯ではあるが、他人の家を訪ねるには無礼な時間帯である。
けれど礼司はにわかに粗塩の瓶をポケットに入れ、冷蔵庫の上の洋酒らしき瓶を取ると、部屋を飛び出した。Tシャツ短パンという無礼極まりない格好であるが、謎の焦燥感に駆られていた。
月光荘を出てちうりっぷ商店街を抜けてひやしんす商店街に到り日光荘に駆け込む。
迷うことなく礼司は常見可音の部屋にやって来た。何故ここに来たのか全くわらかないが、必死でドアチャイムを鳴らしていた。
応答がないのは既に寝ているのかも知れない。そう思いつつチャイムを鳴らし続けて、ついでにドアも叩いていた。
何とはなしに盛岡のホテルで柏家たっぱがした行動を思い出していた。
「可音さん! 起きてる⁉ ひいおばあさんが……出たんだよ‼ 可音さん!」
どん! と室内から凄まじい音がした。一瞬アパート全体が揺らぐような響きだった。
「大丈夫? 可音さん! 起きてる⁉ 可音さんてば‼」
いっそう激しくドアを叩く。
ドアの内側で激しく咳き込む声がする。
礼司はますますあのホテルでの事を思い出す。必死でドアを叩きながら気がつくと足元を蹴っていた。案外簡単にべこんとドアは凹んだ。
「……起き、てる。騒がないで……」
咳き込みながら声がする。
物音がドアに近づくにつれ、礼司は裸の可音が首にネクタイを巻きつけて現れるのを覚悟した。
けれどドアチェーンを外して鍵を開けたのは、首に小花模様の布をストールか何かのように巻きつけた可音だった。真っ白な顔でドアにもたれかかるも、ずるずると床に崩れ落ちた。
寝室になっているクローゼットから布団や枕を引きずり出して床に敷いた。そこに横になった可音は胎児のように丸まっている。蒼白だった顔にも血の気が差している。
襟元の布は既に礼司が取り去っていた。あの小花模様のワンピースだった。肌には殆ど痕が付いていない。
おそらく礼司が訪ねて来たと同時に床に落下したらしい。見上げた窓にはカーテンレールがぐにゃりと曲がっている。ここにワンピースを縛り付けて首を吊ったのだろう。外れたカーテンが死体のように床にぶら下がっている。
礼司は布団の傍らに腰を下ろそうとして、パネルの角に尻を突かれ飛び上がった。布団を敷くのに床に散らばっていた画材や雑誌などを強引に奥に押しやって空間を作ったのだが、まだパネルが残っていたのだ。それもワイルドに奥にやる。
「ワンピじゃなく、ちゃんと紐で首吊るべきだった」
枕に頭をのせて胎児の恰好をした可音は独り言のように呟いている。
「そんなにこの服が憎かった?」
傍らに投げ出してある小花模様のワンピースを見やって尋ねた。
「これであっちに逝けばひーばーも満足かと」
「…………」
身動きすると何やら短パンのポケットでちりんと鳴った。根付の鈴だった。あの時、老婆に向かって鳴らしても効き目がなかった物をポケットに突っ込んでいたのだ。
礼司はそれを取り出すと可音の手元に置いた。
「浅草寺の鈴のお守りだよ。厄除け効果あるかも……多少はね」
可音は鈴を手に取って、傍らに座る礼司を見上げた。
「ひいおばあさんが……出たんだ、俺んちに。もしかして可音さんちにも出てるんじゃないかと思って来てみたんだ」
可音は握った鈴を口元に押し当てて「出たよ」と薄ら笑いを浮かべている。
「あの日……松橋さんと会った日。喪服に着替えに戻って来たら。やたらにゾクゾクして。見え始めたのは次の日から。あっちの家では見えないのに、こっちでは透けて見えるんだ。最近では完全に姿が見えて声まで聞こえる」
「デザイン学校は不良の行く場所とか、嫁き遅れてるとか?」
こくこく頷く可音である。
「いくら曾孫が心配だからって、化けて出られても迷惑だよね」
可音はうっすら笑ったままである。礼司は膝の上で両手の拳を握りしめた。
「結婚しようか?」
唐突に口から飛び出した言葉だった。
可音の手の中でちりんと鈴がなった。当人はただぽかんと口を開けて礼司を見上げている。
礼司とて自分の言葉に唖然としている。あまりに突然なプロポーズである。頭の中では中園龍平が爆笑している。構わず礼司は言葉を継いだ。
「前にも言ったけど俺、ゲイなんだ。女の人とは出来ない。だから可音さんと戸籍だけ結婚するのはどうかな? ひいおばあさんや家族も安心するだろう?」
「松橋さんの家族は?」
「別に家族にはカミングアウトしてないから。俺としても偽装結婚できれば便利……と言うと失礼だけど。でも、いいと思わない?」
「こっちはいずれ適合手術して男になる。好きな女の子が出来るかも知れないし」
「むしろ手術するなら保証人になれる夫がいた方がいいよ。もし可音さんに好きな人が出来たら離婚すればいいし」
「バツイチはひーばー嫌がるだろうな。おーばさんが出戻りだし」
話しながら可音の顔色は元に戻り、皮肉めいていた笑いは少しばかり希望の滲んだ笑みになっていた。
一方で礼司の頭の中では、
「ほんとバカじゃないの? トランスジェンダーと結婚してどうするわけ?」
龍平が思い切り悪態をついていたのだが聞かないふりをした。
それにつけても若い可音が〝出戻り〟発言をするなど常見家ではコンプライアンス無視の言葉が横行しているらしい。そのひとつとっても可音のような人間が暮らしやすい家ではなかったのだろう。
その夜、礼司は可音の部屋に留まった。持って来た粗塩は絵の具皿に少しずつ入れて、雑然とした部屋の四隅に置いて回った。少なくともあの老婆の霊は塩で消えるはずである。
可音は部屋に敷いた布団に寝ていたが、礼司は明りを消すと寝室代わりのクロゼットに頭を突っ込んで横になった。
「可音さんて、あのお屋敷で生まれ育ったの?」
暗い中で離れた場所の可音に訊いてみる。
「生まれたのは台湾。小学校に上がる頃、日本に戻った」
可音もぼそぼそと話している。
商社マンの父親について家族で台湾や香港などアジアの国を転々として暮らしたという。可音は小学校に上がるのを機に父方の実家である常見家に預けられた。日本人らしい躾は、曾祖母や大叔母に受けたという。両親は今も海外に暮らしているそうだ。
「それって、あいつと似てるかも」
「あいつって?」
「あいつも帰国子女なんだ。父親が研究職でアリゾナ大学に勤めてたから、アメリカで育って日本の大学に入学するために一人で帰って来たらしい。今は両親も日本で暮らしてるけど」
「あいつって……中園龍平?」
言葉尻で可音はまたちりんと鈴を鳴らすのだった。
「松橋さん、幽霊のことに詳しいんだ?」
クローゼットと部屋とで離れて寝ているから、可音がどんな顔をしているかわからない。
けれど礼司は構わずに、春先に中園龍平に憑りつかれて今に到るまでを改めて話していた。生前の恋人とセックスするために憑依されたことも隠さなかった。
「だから、ゲイの人間を探していたのか。あの幽霊……」
深く納得した口調の可音である。
礼司は胸が詰まって泣きそうになっていた。真実を話しているうちに、どれほど自分が誰かに全てを打ち明けたかったのか改めて知るのだった。
盛岡のホテルで震えながら音丸を怒鳴りつけたのは、この誰にも言えないストレスを爆発させただけかも知れない……などと思い始めるともう感極まって涙声になっているのだった。
「でも……今はもう彼には会っていない。二度と会っちゃいけないと思ってる」
「……うん」
それっきり可音の声はなかった。すやすやと健やかな寝息が聞こえるばかりだった。
礼司はそれを聞きながら今度はくすくす笑わずにはいられなかった。曾祖母に憑依されて自殺未遂をして礼司の憑依譚を聞いたその後でよくも平気で寝られるものである。
笑っているうちに礼司も眠りに落ちたらしい。
翌朝はずいぶんと早くに目が覚めた。猛暑が去らない九月ではあるが、さすがに朝は少しばかり涼しかった。
可音に誘われて朝食に出かける時だった。ひやしんす商店街で早くからモーニングを出す喫茶店があるという。まさかまた鶏の唐揚げではあるまいな? などと思いながら玄関を出ると、ちょうど外廊下の向こうから大家のおばさんがやって来るところだった。
「あ、おはようございます」
と長閑に挨拶をしてから、この場合何か違うような気がした。
礼司の後ろでは可音が部屋の鍵を掛けている。目の前にやって来たおばさんは赤縁メガネの奥の瞳をキラキラ光らせて礼司を見つめている。
「まあ、松橋さん。おはようございます。昨日から可音の部屋に……?」
「あっ」と今更あわててももう遅い。内実はともあれ二人は男と女なのだ。
「申し訳ございません!」
いきなり頭を下げたのは龍平である。実にメリハリのあるお辞儀である。
「いつかご報告に行くつもりでした。可音さんとおつきあいさせていただいております」
一体何故ここで龍平がしゃしゃり出て来るのかわからない。礼司は内心おろおろしていたのだが、龍平は例によって節度ある距離で可音に寄り添って、銀座の個展に行った時から彼女に魅かれていたなどと語っている。
「でも、まさか、こんな時に大家さんにお会いするなんて参ったな……いえ、夕べ彼女とも話したんですよ。近いうちに結婚しようと……」
って、これではまるで二人が昨晩枕を交したかのようではないか。
礼司同様に呆れているのは可音である。ただ一人この事態を歓迎しているのは大家のおばさんだけだった。
曾祖母の幽霊が〝嫁き遅れ〟などと思い切りコンプライアンスに抵触する発言をしていたことを思い出す。誰であれ可音に彼氏が出来るのは大歓迎なのだろう。
冷静に考えれば男が二十で女が二十七のカップルは問題ないのか? と思う礼司だが。
ところで大家のおばさんがやって来たのは、このところ可音が月光荘や日光荘の掃除をサボっているからだった。おそらく曾祖母の幽霊に怯えてまた引きこもりになっていたのだろう。
言われてみればアパートの共用廊下やゴミ捨て場が多少荒れていたような気もするが、
「僕も心配していたんですよ。今日は二人で掃除をしようねって出て来たんです」
にこやかに可音を振り返って見る龍平である。
よくもまあ、まことしやかな嘘がすらすら出て来るものである。
「あらあら、じゃあお二人で仲良くやってちょうだいな」
と大家のおばさんは帰って行ったのだった。
結句、礼司と可音は二人して二軒のアパートの掃除やゴミ出しをする羽目になったのだが。
一体何なんだこの顛末は⁉
何ともむしゃくしゃするばかりである。
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