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第九章 2 英語de落語会
2 英語de落語会
勉強ばかりしていた甲斐もあり、前期期末テストの成績はなかなか良好だった。
同級生やヒストリア・グルニエの部員達は卒業後の就職先が内定している者も多い。まだリクルートスーツを着て会社回りをしている者は必死の形相である。
礼司はといえば遂に大学院に進んで司法試験を受ける決意をしていた。というと聞こえはいいが、当初から思っていたように、司法試験に落ちたらまた考えるという先延ばしに過ぎなかったが。
「マッツン。少しはスマホチェックしろよ。またツクツクんちに行く人数確認してんだからさ」
キャンパスで出くわしたヒストリア・グルニエの部長に注意される。
学生課では職員に試験日程の変更を確認しろと注意される。
礼司はあれ以来スマートフォンを殆ど見ていないのだ。世間から落ちこぼれるばかりである。
音丸はしょっちゅうスマホの電源を切っていた。よくも現代生活が成り立っていると呆れたものだが、落語家の世界はまだガラケーの昭和で止まっているのだろう。
その音丸に関することを知りたくないからスマホをポケットに入れっぱなしにしているのだ。音丸ファンのグループLINEも、日々更新される〝音丸通信〟も、あの八月上旬以降まるで見ていない。
そうしてテスト休みは姉につきあって宝塚歌劇のハシゴをした。姉は遅い夏休みをとって仙台からはるばる兵庫県の宝塚大劇場から東京日比谷の宝塚劇場まで見て歩いたのだ。
ちなみに移動は全て高速バスという厳しい行程である。自分の給料だけで押し活を賄っているから節約に必死なのだ。
あの時大見得を切った通り、今回礼司は自分のチケット代はもちろん姉の高速バス代も奢ってやった。音丸の東北巡業もその後の公演もキャンセルしたから小遣いはさして減らなかったのだ。
女の園に出かけるのにボディガードなどいらないだろうと思いきや、どでかいスーツケースを引かされる。体のいい下僕である。落語家ならば師匠のカバン持ちをする前座だろう。
そんなこんなでやさぐれていた日比谷劇場の開場待ちに、スマホに音丸のメッセージが届いた。けれど礼司は即座にスマホを電源から切る。ポケットに入れようとするのを阻止してまた電源を入れるのは龍平である。
「礼司、さっきからスマホをポケットに入れたり出したり何してんの?」
と、姉に咎められる。
普段の通勤着とは比べようもないヒラヒラフリフリのワンピースを着た25才独身女である。これをエスコートする身にもなって欲しい。
「だから。劇場に入るから電源ちゃんと切ったか確かめてんだろう」
今度こそ電源を切ってスマホはトートバッグ(姉が贈って寄越した誕プレである。これに合うファッションで来いとの指定付きだった)に放り込む。
いや、音丸からのLINEである。
内容など見なくてもわかる。盛岡のホテルでの出来事を謝っているのだ。もうわざわざ見て心を乱されたくない。心を鬼にして完全スルーした。
「あら、松橋さん! お久しぶりですこと。ご機嫌いかが?」
そこに、宝塚の舞台でしか聞かないような挨拶をするのは〝音丸通信〟の主催者、菅谷百合絵だった。
「まあ、またイメージチェンジなさいましたのね。すっきりしたヘアスタイルですこと」
礼司の丸刈り頭に驚く百合絵とは、もう一ヶ月近く会っていないのだった。礼司の横にいる姉はきらきらした瞳で百合絵を見上げている。
仕立てのいいビジネススーツを着て、A5サイズの書類もパソコンも楽々入るビジネスバッグを肩に掛けた百合絵である。大柄で恰幅もいいから宝塚で父親役などを演じる名バイプレーヤーのようではある。
「あ、どうも……百合絵さんも宝塚に?」
礼司はしらばっくれて尋ねた。
実は日比谷には落語会が開かれる大ホールがいくつもあるのだ。百合絵はそのどこかに行くのだろうが、落語の話は避けたかったのだ。
「日経ホールに音丸さんが出演なさるのよ。早目に行ってチラシを入れてもらおうと思って」
言いながら百合絵はビジネスバッグからクリアケースを取り出している。
「ちょうど刷り上がった最新版ですの。これを置かせてもらうつもりなの。松橋さんも是非いらしてくださいな」
B5サイズの素人じみた手作りチラシだった。〝英語de落語会〟というタイトルには日本語と英語の解説がついている。
「何のチラシ?」
とチラシを覗き込んだ姉は、
「よろしかったらご一緒にいらしてくださいな。楽しいですわよ」
男役のような百合絵に話しかけられて嬉しそうだが、地味極まりないチラシには一瞥を与えただけだった。
礼司はといえば脳髄が吸い込まれるような勢いでチラシを凝視していた。龍平がにわかに激しい衝動を覚えたようである。チラシを鷲掴みにするなり、
「僕、絶対に行きます!」
と宣言していた。
「いや、忙しくて……」ともごもご言う礼司の声など誰にも聞こえやしない。
百合絵は礼司と姉に向かって丁寧に説明している。
「以前、私と友人が英語で司会をしていた落語会ですのよ。外国人のお客様に音丸さんの落語を聞いていただく趣旨の会でしたけど、日本人の落語初心者にも好評でしたのよ。残念なことに一時、途絶えていたんですけど……」
「聞いています。帰国子女の中園龍平が亡くなって途絶えたんでしょう?」
「まあ、松橋さんもご存知でしたの? ええ、龍平さんが亡くなってしまって……でも新たに英語の話せる司会者が見つかったので第二シーズンを始めることにしましたのよ」
「場所は前と同じ団地の集会所ですね。僕もう万障繰り合わせて参加します!」
「ぜひお願いしますわ。何しろ休業からこちら音丸さんもナーバスになってらして。再開したのにお客様がいらっしゃらなかったらショックですものね」
百合絵と別れて宝塚劇場に入った後も、礼司は心臓が激しく鳴り頬が紅潮するばかりだった。絢爛たるタカラジェンヌのレビューは上滑りするように目の前を通り過ぎて行った。
今度こそまた音丸に会うのだ‼
力強く思っているのは龍平だけで、礼司は決して音丸と接してはならないと我と我が身に言い聞かせていた。
礼司の自制心など龍平の知ったこっちゃなかったようである。
その日を目指してまた新たな洋服を買ったりしている。幸か不幸か姉にもらった誕生日プレゼントのトートは新たなファッションにもぴったり合っている。
「バーニーズニューヨークだよ。最近の礼司のファッションに合うと思って」
と姉に言われて喜んだのは龍平であって、礼司には「何だそりゃ?」でしかなかったが。
礼司の誕生日は九月だが上京してから家族から祝われることもなくなっていた。ただ九月の仕送りが通常より多いのが誕生日のお祝いだと思っていた。
六本木の美容室ではバースデー割引もあった。もっとも坊主頭が少し伸びただけの髪である。指名のカリスマ美容師は、
「こりゃまた見事に刈りましたね……」
と呆れていたが、同じ丸刈りでも格好よく見えるように仕立ててくれた。
美容室にいる時メッセージの着信音が鳴った。
「どうぞ」と美容師に言われてLINEを開いたのは半ばお愛想である。
〈次の土曜日に大叔母が二人で夕食に来いと言ってる〉
可音からの連絡だった。
次の土曜日とは〝英語de落語会〟の日である。
礼司は音丸と直接会いたくないので姉を誘ってみたのだが「落語なんて爺むさいの聞かないよ」とけんもほろろだった。ならば可音と行けばいいのだ。
〈土曜の午後は落語を聞きに行くけど一緒にどう? 帰ってから夕飯をご馳走になるのは?〉
と返事をする。
即座にOKが来た。礼司は少しばかりほっとする。
龍平のこの勢いではまた過激なプレイに持ち込まれそうだが、女性の連れはストッパーになるだろう。いっそ音丸にも可音を恋人として紹介してしまえば、これまでの関係も断ち切れるかも知れない。
そして土曜日。訪れた会場は大規模団地の集会所だった。同じ箱のような団地が何棟も並ぶ中を礼司と可音は歩いて曲がって曲がって歩いて、迷うことなく集会所に辿り着いていた。まるで頭の中に羅針盤があるかのように礼司はためらいなく足を進めていたのだ。その羅針盤が龍平であることは間違いない。
集会所棟に辿り着いた時、礼司は巨大な団地群を呆然と振り返ったものである。そのまま進んで入り口の階段(ほんの三段ばかり)につまずいているのだった。
「大丈夫?」
と手を貸す可音はキャップを被ってロングTにルーズパンツという姿である。斜め掛けしたバッグは頭陀袋と言ってもいい色合いである。二人は男同士に見えたことだろう。
集会所入り口のガラスドアには例の手作りポスターが貼られていた。いくつか会議室がある中の一番手前の小さな部屋が会場だった。
入り口前には会議テーブルが並べられて、たっぱと百合絵が椅子に座って受付をしているのだった。二人とも着物だが前座のたっぱは男着物の着流しで、百合絵は何と振袖を着て髪を結い上げていた。
たっぱは礼司や可音がガラス戸を開けて来るなり、
「松橋さん、お久しぶりです」
と立ち上がって頭を下げるのだった。
何がなし冷や汗をかく礼司である。
「そういえば、松橋さんと落語会でお会いするのはお久しぶりですわね」
にこやかに頷く百合絵は盛岡の老舗ホテルでの一件は何も知らないらしい。
意味深に礼司と可音を見比べて、
「いろいろとお忙しくてらっしゃるのね」
などと、にこにこしている。
どうやら百合絵やたっぱは可音が女だと見抜いているらしい。大家のおばさんといい女は男女カップルが大好きなのだ(姉に見せられた宝塚も全て男女の恋愛の話だったし)。
学校の教室のような会場は黒板の前に教壇があり、教卓には赤い緋毛氈が敷かれ座布団が置かれている。マイクはないが何せ教室である。肉声で充分だろう。
四十脚程並んだパイプ椅子は既に八割方客で埋まっている。客は白人、黒人、黄色人種など様々で実にダイバーシティな落語会ではあった。
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