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第十章 3 作用と反作用
「落語ってこういうもの?」
尋ねる可音に礼司は首を横に振った。
「わりと珍しいタイプの会だと思う」
前のドアの脇に小さな机があり、置いてあるスマホから一番太鼓の音が鳴り始める。
教壇に出て来たのは振袖の百合絵と、羽織袴の白人男性である。それぞれ落語愛好家のLilly とオーストリア出身の落語家、秋雨亭欧州 と自己紹介するのだった。
そして落語という芸能がどういうものか、英語と日本語で解説した後、
「では、落語家の柏家音丸さんのご登場です。ご案内のとおり落語家は屋号・亭号ではなく名前で呼ぶ習慣です。柏家さんではなく、音丸さんとお呼びください」
百合絵が言った途端に、
「Come on 音丸‼ Otto ‼」
と叫んだの誰あろう龍平だった。隣の可音がぎょっとした以上に礼司も愕然としていた。
何なんだこれは⁉
シーズン1で慣れているらしい客は、指笛を拭いたり手を打ち鳴らしたりして、
「Otto! 音丸! Otto! 音丸! Otto!」とコールしている。
音丸だから通称オットーなのか?
「落語ってこういうものなの?」
手を鳴らしながら尋ねる可音に、礼司はいよいよ首を横に振るしかない。
なのに龍平は立ち上がって頭の上で手を叩き「Otto」コールを率いている。
部屋の前の扉から入って来た音丸は思い切り仏頂面で、づかづかと龍平に近づくと乱暴に頭上の手を取って下に降ろさせた。
「What on earth!」
龍平が驚いたように背の高い音丸を見上げると、客達が一斉に歓声を上げた。
指笛を拭いている者さえいる。
どうもここまでが登場のお約束のようだった。
「よく帰って来たOtto!」「待っていたのよ!」
口々に声が上がるのに柔らかい笑顔で応えると、音丸は龍平の肩を軽く抱いてから黒板の前に行った。
百合絵や欧州にはさまれて、シーズン2の開会の挨拶している。
礼司は最早平静ではいられなかった。衆人環視の中で音丸にハグされたのだ。いや、軽く肩を抱かれただけだが、柔らかな袂が半袖の腕に触れ、香の香りに包まれて悩ましさにくらくらするのだった。
その後、英語で落語の解説があり、実際に音丸が高座で日本語の落語を披露したのだが、礼司はまるで上の空だった。隣で可音が肩を揺らして笑っているのを他人事のように眺めるばかりだった。
帰りはまんまと巨大団地の迷路に囚われた。まるで何かの呪いのようにあっちに行ったりこっちに着たりするのだった。礼司の仕打ちにへそを曲げた龍平が道案内を拒んだからである。
落語会がお開きになり礼司と可音は追い出し太鼓(スマホの音源だが)の鳴る会場を後にした。後方ドアの外には音丸や欧州が客の見送りに出ており、既に多くの観客に取り囲まれていた。
百合絵やたっぱの姿がないのは、会場のパイプ椅子を畳んだり後片付けの追われているかららしい。
人混みの向こうから音丸が礼司達を見やって、
「この後、居酒屋で打ち上げがありますが、松橋さんもいかがですか?」
と妙にまっすぐ見つめて来る。
龍平は全身全霊でそちらに行きたがり、何なら外人ファンが音丸に話しかけるのを通訳せんばかりの勢いである。
だが礼司は無理にも龍平の意識を押し込めて、
「これから約束があるので、すみません。楽しい落語会でした」
きっぱりと首を横に振って、ここぞとばかりに可音の肩を抱いて音丸に背を向けたのだ。
龍平が礼司の道案内をしなかったのはその意趣返しに違いない。「多分こっち」「その角だよ」と礼司の手を引く可音の方がまだしも方向感覚があるようだった。
ようやく見覚えのある道に出たと思えば、また集会所の入り口に戻ってしまったのだった。がっくりと肩を落とす礼司をよそに「トイレ行って来る」と可音は建物の中に入って行った。
入れ違いのように中から出て来たのは、後片付けを終えた百合絵とたっぱだった。
「あら、松橋さん。まだいらしたんですの?」
振り袖姿のままで大きなキャリーケースを引いている百合絵である。中には緋毛氈や座布団など会場の設営に必要な道具が入っているという。横にいるたっぱは既にTシャツやデニムの普段着姿で、手にしたザックに着物が畳んで入っているのだろう。
二人ともこれから打ち上げ会場の居酒屋に行くから、ついでに団地の出口まで送ると言うのだった。
「いえ、大丈夫です。友達がまだトイレに行ってるから……」
と礼司が断わったのは、たっぱと顔を合わせるのが気まずかったからである。なのにたっぱが、
「私がお送りします。この団地は殆ど迷路ですから。百合絵さんは幹事だから先に行ってください」
などと言い出して、
「そうですわね。申し訳ないけれど、たっぱさんにお願いできるかしら。じゃあ、松橋さん、お先にごめんあそばせ」
百合絵はいそいそと立ち去ったのだった。
可音はまだ戻って来ない。
集会所の玄関先で礼司とたっぱが二人きり。
盛岡の老舗ホテルで夜中に顔を合わせて以来、最も望まない状況に陥っているのだった。
ツツジの植え込みに縁取られた小道を遠ざかる百合絵の後ろ姿。二人して申し合わせたかのようにそれを見つめて、やがて振り袖姿も見えなくなると、たっぱは静かに礼司を見つめて言うのだった。
「音丸あにさんは、盛岡以降しばらく声の調子が悪かったようです」
礼司は既に影も形もない百合絵を追っているかのように小道の先を見つめたまま頷いた。全身に冷水を浴びせられたような気分だった。
「着物の襟から出る喉のところに、赤い輪のような痕が出来ていて……消えるまでは私がファンデーションを塗って隠していました。お客様が気にされるので」
たっぱが言う〝お客様〟とはジジババ四人組のことではないかと勘繰る礼司である。今日は四人とも来ていなかったが、さすがに英語の落語は興味がなかったのか。
「そう……ですか」
と無駄にきょろきょろするばかりである。背後の玄関のガラス扉に貼ってあったポスターは今はきれいに剝がされている。
「松橋さん」
改まってたっぱに見つめられる。
思わず一歩退くと礼司の背中はドア横のガラスの壁に張り付いてしまうのだった。何となく誰かにすがりたい気分ではある。
「妹弟子の分際で失礼は重々承知なんですが……音丸あにさんと個人的に親しくするのは、少し控えていただけませんか」
礼司は言う言葉も知らないが、
「ふうん?」
と皮肉な笑みを浮かべているのは龍平だった。
いや誰かにすがりたいとは思ったが妖 にではない。
たっぱは慌てて言葉を続ける。
「いえ、しばらくの間でいいんです。個人的なおつきあいではなく、お客様として柏家音丸を応援していただければと」
「個人的なおつきあいって、どういう意味かな?」
礼司は全身の毛がちりちり総毛立っている。龍平の心が頭を侵略し始めるのを感じている。
なのに傍目には落ち着き払ってガラスの壁に寄りかかっているだけに見えただろう。うっすら浮かべた微笑みは魅力的にさえ見えたかも知れない。
たっぱは言葉を選んで慎重に話している。
「いえ、その……ホテルの部屋で二人きりになるのはご遠慮いただきたいと。皆さんと一緒に打ち上げに参加されるとか、あまり個人的にならないように……」
「僕は皆さんと一緒にセックスするのは嫌だけど?」
「何を言ってるんだおまえは⁉」と叫びたいのに礼司はとうに喉も口も龍平に乗っ取られている。
せめて幽体離脱させられないように必死で自分の頭の片隅にへばりついている。
たっぱはと言えば目を白黒させながらも体勢を立て直している。
「松橋さんもご存知かと思いますが、あにさんは今が一番大切な時期なんです。休業から復帰したばかりでまだ身も心も安定していません。今はなるべく動揺して欲しくないんです」
「咲也 のくせによく言うね」
「え?」と、たっぱはにわかに表情を失った。
「柾目家咲也 さん。あなたこそ前座だったくせに色恋にハマって騒ぎを起こして。しまいには落語家を廃業したくせに」
「松橋さんは……ご存知なんですね」
「いやいやいや。落語ファンならみんな知ってることでしょう?」
龍平はにやりと笑って一歩踏み出した。さっき礼司が引いた一歩の距離がまた縮まる。つられてたっぱは一歩後ずさる。
「確かに私ごときが申し上げるのは僭越だと思います。でも、恋愛でしくじった私だからこそ、あえてお願いしたいんです。どうかあにさんを惑わせないでください」
「惑わせるって……失礼だなあ。僕だけが悪いみたいに」
龍平はにやりと笑って更に一歩踏み出した。たっぱはもう一歩も退かない。背後に階段(三段だけだが)があるせいかも知れない。
二人は殆ど胸が触れんばかりである。まるで恋人同士の距離である。けれどにやにや不敵な笑みを浮かべる龍平と、ひきつった表情のたっぱはむしろ敵同士のようだった。
「そもそも音丸さんの心を傷つけたのは柾目家咲也さん、あなたでしょう。セクハラ騒ぎに巻き込んで音丸さんに濡れ衣を着せて……」
「セクハラは……あれは違います。師匠方が勝手に……」
「はいはいはい。あなたのせいじゃないよね。お偉い師匠方が勝手に音丸さんに罪をなすり付けただけ」
「そんな……」
「あなたは音丸さんを庇いもしないで、騒ぎに便乗して男と別れて田舎に帰った。そうして廃業したくせに」
龍平はたっぱに口を挟ませず流れるように言うのだった。
「わざわざ仁平一門で復帰して、何を今更偉そうに?」
とうとう龍平は両手を回してたっぱの身体を抱き締めた。力は入れていない。たっぱの背中でふわりと両手を組んでいるだけである。
「待っ、待ってください。私がしているのはあの時の話じゃありません。今の、復帰したあにさんの話です」
たっぱは両手を男の胸に突っ張って腕から逃れようとしている。
と、龍平は今度こそ強い力でたっぱを抱き締めた。筋肉など大してない腕なのに半袖の下に見える上腕二頭筋が盛り上がっている様は、まるでプロレスラーが締め技を繰り出したかのようである。
「あの時の話だよ。みんなして音丸さんの才能に嫉妬していじめて、心が壊れるまで追い詰めたくせに。今になって僕のせいにしないで欲しいな」
「放し……放してください」
両腕でぎゅうぎゅう締め付けられて苦しいのだろう。たっぱは顔を歪めてもがいている。
「僕はそういう音丸さんを救うためにやって来たんだよ」
「え、そうだったの?」
思わず龍平に問い返す礼司である。例によって一人で上下を切りながら話している。
拘束された腕から逃れるのに必死なたっぱはそのことにも気がつかない。
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