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第十章 4 月の障り
4 月の障り
「音丸さんを苦しめているのは君達なんだよ。僭越にも程がある。差し出口はやめて欲しいね」
憎々しい口調で一層腕に力を込める龍平である。自分の胸板にたっぱの身体を腕ごと押し付けて圧迫している。女前座が口をぱくぱくさせているのは肺に空気が入って行かないからだろう。
そこに背後のガラス扉の奥からぱたぱたと足音が近づいて来る。
合わせてちりちり鈴が鳴っている。
途端に龍平は力をゆるめて両腕を開いた。
拘束されたまま男の胸を両手で押しやろうとしていたたっぱは、逆に力が自分に向いて身体を思い切り宙に投げ出す形になった。
わずか三段の階段に背中から激しい勢いで倒れ込んだ。
ガラス扉を空けた可音が見たのは、こちらを向いたまま階段に全身を打ち付けるたっぱの姿だった。そこに「大丈夫⁉」と礼司が飛びついている。
実は龍平は、たっぱを締め付ける両腕を開いた瞬間どこかに消えていた。入れ違いに身体に戻った礼司がたっぱに駆け寄ったのである。
たっぱは声も出せずに痙攣のような動きを見せている。階段の角に背中を強く打ち付けたらしい。
「どうしたんですか?」
可音はたっぱと礼司を見比べている。
そう問いたいのは礼司の方である。妖 のやらかした蛮行の後始末をするのはいつも自分なのだ。
今や礼司の身体に龍平の気配は微塵もない。残ったのは上腕二頭筋の震えだけである。どれほどの力を込めてたっぱを締め付けていたのか呆れるばかりである。
119番に電話をしたのは可音だった。
たっぱは意識はあるものの小刻みに震えて声も出せないようである。真っ白な顔でぱくぱくと口を動かしては、しゃがれ声で「すみません」とか「大丈夫」らしき呻き声を発している。
礼司は「いいから」とつらそうな発声を遮るばかりである。
救急車が来るまでに階段上に斜めに倒れた身体を礼司と可音とで平らな地面に寝かせた。顔を横にしたのは電話で救急隊員に指示されたからである。
可音は斜め掛けの頭陀袋からUVパーカーを取り出すと、たっぱの顔が地面に直接触れないように下に敷いた。
その際ちりんと音がしたのは中に入っていた鈴の根付が鳴ったらしい。
よく見れば可音の顔もたっぱと変わりない程に青ざめている。
にわかに身を震わせたたっぱが嘔吐した。顔を横にしたのは吐瀉物で窒息しないためだと知る。
というか、倒れて吐くなど尋常ではない事態だろう。
礼司があわてて電話をかけた相手は音丸だった。どうせ出ないだろうと思っていたのに、
「どうした?」
すぐに低い声が応答した。
ふわふわと現実感を失っていた心がにわかに地に着いたように落ち着く。電話の背後には居酒屋のざわめきが広がっている。
「たっぱさんが倒れた。救急車を呼んで今、来るのを待ってる」
「倒れた? どこで」
「階段。集会所の玄関の階段で転んで吐いて……意識はあるけど」
と寝ているたっぱを見やると、目は開いてきょときょとしているが意識は混乱しているようである。
気が付くと寄り添っている可音も何やら苦し気にうずくまっている。
「病院についたらまた連絡する」
音丸との会話を終えると礼司は可音に使づいて肩に手をかけた。
と、地面に寝ていたたっぱが変にもがきながら礼司から遠ざかろうとしている。
礼司の姿に怯えている?
「大丈夫だよ。すぐ救急車が来るから」
そうとも知らずに可音がたっぱの身体を撫でて宥めている。
礼司はたっぱの視界に入らない位置に身体をずらして、
「可音さんも具合が悪いの?」
耳元で囁いた。
可音は頷いて、
「急に始まって。薬を持って来なかったから……」
理解が出来ずにきょとんとしている礼司に可音は早口で言うのだった。
「生理が始まった。いつも頭痛や腹痛がひどくて薬を飲むんだ」
「あ……」としか言えなかった。だから集会所に着くなりあわててトイレに駆け込んだのか。可音の身体はやはり女性だったのだ。
礼司は母や姉が生理でこんなに苦しむ様を見たことがない。何となく機嫌が悪そうな時があると感じるぐらいだった。
そんなことに驚いているうちに救急車のサイレンが近づいて来るのだった。
受け入れ先の病院が決まった救急車に乗ったのは礼司だけだった。生理痛に苦しむ可音はその前にタクシーを呼んで日光荘に帰した。
土曜日も夕刻の病院は人影がまばらだった。冷房が効いており身震いする程である。
ストレッチャーで処置室に運ばれるたっぱを見送ると礼司はまた音丸に電話をして病院名を伝えた。
「わかった。また電話をくれ」
いよいよ宴もたけなわらしく、喧騒の中に聞こえる低い声である。
こんな時だが音丸の声に胸が熱くなりつい両手でスマホを抱きしめている。と、身体に妙な感覚が蘇る。
両腕をたっぱの背後に回して手を組んだ。そして女の柔らかい身体を思い切り締め付けた。あのまま続けていれば細い骨など折れていたかも知れない。腕の中でもがく軟体動物のような身体の感触。
改めて全身が総毛立つ。自分……いや龍平はたっぱに一体何をするつもりだったのか?
今たっぱがこんな状況なのは自分のせいではないか?
「違うよ。あの女が勝手に倒れたせいだよ。彼女の不注意。僕らのせいじゃない」
しれっと言うのは龍平である。
というか〝僕ら〟とは何なんだ?
〝僕〟と言って欲しい。あの行動の大半は龍平だけのものである。礼司は一切関知していない。身体を乗っ取られていたのだ。
自分の中で見苦しく責任転嫁をしていると、玄関から人が入って来る音がした。静まり返った院内にぱたぱたと草履の音が響いている。
やっと音丸が来てくれた!
ソファから腰を浮かせて見やれば、小走りにやって来るのは音丸ではない。グレイヘアをきちんと結い上げた和装の老婦人だった。地味な色合いだが上品な着物を着ている。
「柏家たっぱはこちらですか?」
問いかけるのは柏家仁平の妻、師匠のおかみさんだった。
打ち上げの後は夜の落語会がある音丸は、師匠に連絡をしてたっぱを任せたのだった。
このところ礼司は音丸の情報を仕入れていなかったから、後の仕事のことなど頭になかったのだ。音丸の顔を見られないと知りひどくがっかりする。
「申し訳ないですが、僕この後予定があるんです。お任せしてもよろしいですか?」
すかさず言い出したのは龍平だった。音丸に会えないならいつまでもここにいても仕方がないと判断したらしい。
おかみさんは江戸っ子らしい歯切れの良い言葉遣いで、
「こちらこそ、ご迷惑をおかけしてすみませんでしたね」
と、きれいなお辞儀をするのだった。
礼司は逃げるように病院を後にした。気分はもはや被害者を置き去りにして現場を逃走する犯人さながらである。
月光荘に着く頃にはあたりは暮れなずんでいた。ついこの間までこの時間帯はまだ昼間のように明るかったのに。暑さこそ残っているものの既に秋が近づいているのだった。
玄関の明りを点けると靴箱の上に何本も並んだ酒の箱が目に入る。音丸の好きな〝森伊蔵〟の一升瓶もある。ふとそれを手に取って箱を開けて瓶を取り出す。
吞んでみようか?
千々乱れる今の心を静めるのにアルコールは案外効くかも知れない。魅入られたように瓶を凝視するが、うっかり呑んで七転八倒の苦しみを味わった過去の失態を思い出す。
だが奈良漬けとクリームチーズの入ったおにぎりを食べて泥酔した時は、音丸に行き届いた介抱をされた。あんな風にまた優しくされたいと怪 しからんことを考える。
「君はイッキ呑みで自殺できるよ。君にとって酒は猛毒だと覚えておきなさい」
大学入学時に校医が言った言葉が蘇り、そっと酒瓶を箱に戻す。
別に今が今死にたいわけではない。心に平安をもたらしたいのと死ぬのとでは大違いである。
玄関の明りを消すと室内は薄暗かったが、室内灯は点けないままベッドに倒れ込む。窓はレースのカーテンが引いてあるだけで遮光カーテンは開けっ放しである。レース越しに街灯や月明かりが差し込んで室内はぼんやりモノクロームである。
何気なく胸の前で両腕を組むと、たっぱの身体を締め上げた嫌な感触が蘇る。慌てて両腕を広げて大の字になる。
龍平は一体何をどこまでやるつもりだったのか。まるでたっぱを締め付けるだけでは飽き足らず腕も肋骨も折り窒息させんばかりの勢いだった。
「僕とたっぱさんは会場の外で話していたんです。彼女の後ろには階段があって、うっかり踏み外して倒れてしまったんです。僕も注意すればよかったんですけど……」
おかみさんに向かってまことしやかに言ったのは龍平である。まるで龍平はたっぱに指一本触れていないかのような言い草である。
やがてたっぱが口を利けるようになった時あの暴力についてどう説明するのか。対する龍平はどう弁解するのか。礼司にはもう想像の手がかりもない。
龍平が礼司の肉体を暴走させたのは、盛岡の老舗ホテルで音丸の首にネクタイを巻きつけた時もそうだった。あれは真実、淫欲のためだったのか?
……わからない。けれど龍平の行動は次第にエスカレートしている気がしてならない。
気がつくと礼司は苔臭くじめじめとした薄暗闇にいた。
そこは地下鉄の階段だった。じっとり湿った階段を駆け下りている。
身に着けた斜め掛けバッグの揺れに合せてちりちり音がするのは鈴の根付が鳴っているのだろう。
自分の足音よりも鈴の音の方が大きく頭の中に響いている。
有田津久志はまだ地下鉄ホームの隅にいた。ホームドアがないから足元に直接レールが見て取れる。
それを見つめている有田の顔は漂白されたかのように無表情だったが、にわかに輝いたのは、
「ごめん、ツクツク。さっきのちょっと味見したい」
礼司が駆け寄ったからである。
「さっきあげたドリンク剤。やっぱり僕も少し飲んでみたいよ」
「ああ」と笑って有田はザックから金色のラベルのドリンク剤を取り出した。飲酒前の服用が勧められている。
「マッツンには必要ないだろう」
「ちょっとだけ味見だよ」
ペキッと音をたてて蓋を開けると、礼司はドリンク剤を口に含む。妙にケミカルな味が口いっぱいに広がる。
「あんまり美味しくないね」
と渡すとツクツクも「そうか?」と一気に飲み干す。
「瓶は僕が捨てとくよ」
手を出して空き瓶を受け取ると斜め掛けバッグの中に入れた。
だからこのバッグに空き瓶が二本入っていたのか。
今更そう納得しているのは一体どこの誰なのか?
「それ飲んだからには今夜は一杯やらなきゃな」
などと嬉しそうに言うツクツクである。
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