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第十一章 1 終わりの一歩
第十一章
1 終わりの一歩
電車の轟音が近づいて来る。明りとてない地下道の奥から凄まじい鳴動がやって来る。
それと共に圧倒的な風圧が押し寄せる。身が宙に浮きそうな程である。
やがて二つ並んだ電車の光が目を射るまでに迫って来る。
まばゆい光の中に有田津久志の姿が黒い影法師のように浮かび上がる。
気がつくと礼司は湿った石の階段を駆け上っていた。
ぺたぺたと音がするのは裸足だからである。
背後から迫って来るのは、けたたましい警笛と急ブレーキの音である。
そしてそれをも上回る絶叫は、
「ぎゃーーーっ‼」
有田津久志の断末魔の悲鳴だった。
にわかに礼司は飛び起きた。
「あっ‼ ……あ、えっ⁉ ええっ⁉」
意味のない声をあげながら辺りを見回す。
心臓が激しく鳴り響き、はあはあと喘ぐ口元から今にも飛び出しそうである。服の下で肌はじっとり汗まみれになっている。
夢だ。
やはり夢だったのだと自分に言い聞かせながらも恐慌は去らない。
どこかで奇妙な音がする。一定の速さでピルピルピルと軽やかに鳴っている。
慌てて音の主を探せば、枕の下でスマートフォンが明滅しながら鳴っていた。電話の呼び出し音である。見れば発信者は〝有田津久志〟だった。
今さっき地下鉄の線路に落ちて絶命したツクツクが電話をかけている⁉
まるで未開の原始人であるかのように礼司は震える手でその文明の利器をつまみ上げた。
「マッツン……?」
との呼び声を聞くなり必死で言い訳をしていた。
「ツクツク⁉ 今、さっき俺……ごめん。そういうつもりじゃなくて……」
「マッツンさん? いいえ、松橋さんですか?」
礼司は荒い息が治まるにつれ、ようやく自分が居眠りをして悪夢を見ていたのだと改めて理解した。
ここは地下鉄駅ではなく自分の部屋のベッドである。寝汗で湿った服を着て白いシーツにへたり込んでいるのだった。
「有田津久志の妹です。夜遅くにすみません」
冷静に耳を傾ければ、スマホから聞こえるのは女性の声だった。
「兄のスマホを私が預かってるんです。解約するまでだけど。もう寝てました?」
声質なのか抑揚なのか、どことなくツクツクに似ている話し方だった。
「いえ……いえ、うたた寝していただけです。すみません」
「実は松橋さんにお渡ししたい物があるんです」
妹は有田津久志の形見分けをしていると言うのだった。地元の友人達には分けたので、礼司ら大学の友人にも取りに来て欲しいとのことだった。
レースのカーテン越しに煌々と明りが差し込んでいる。カーテンの裾を捲って見上げれば、満月には満たない楕円形の黄色い月が眩いばかりの明りを放っているのだった。
有田の妹が話す事務的な要件は、悪夢に思考停止した礼司の頭を徐々に現実に戻すのだった。
窓の向こうの大家宅ではまだ明りが点いて人の動く気配がある。遠くの大通りからは街のざわめきも聞こえて来る。思った程に深夜ではないようだった。寝落ちしてから小一時間もたっていないらしい。
呼吸が平常に戻った礼司はゆるりと頭を巡らせて月明かりに照らされる室内を見やった。
部屋の隅にぼんやりとした老婆の姿があった。可音の曾祖母の幽霊である。あれは粗塩で退治したのではなかったか。
その横にはもう少し透明度が低い男がいた。艶やかな天然パーマと色白の肌に映える薄紅色の唇、洗練されたスーツ姿は久しぶりに見る中園龍平の実体だった。殆ど生きている人間のように見える。
「ここは僕の場所だからね。あなたはあのトランスジェンダーの所に行けばいいでしょう」
「まあ、失礼な。宅の曾孫は立派な女の子ですわよ」
「はいはいはい。どうでもいいから行ってよ。このゲイは僕のものだからね」
老女と若者の幽霊が言い合っている。
これはコントか何かなのか?
驚くと言うより呆れて薄笑いまで漏れてしまう。
電話の向こうでは有田の妹も誘われて、うふふと笑い声を洩らしている。
「また兄のお友だちに会えるのは楽しみです」
礼司は二人(二基?)の幽霊に構わず、現実に生きている人間との会話に専念するのだった。
有田の実家に行く約束をして電話を切った。
汗に濡れた服を脱ぎ捨てパンツ一丁の裸でタオルケットにくるまって今度こそ本気で眠りについた。
するりと熱い掌が背中を撫でる。耳の裏側に柔らかい唇が寄せられて、耳朶をそっと噛んでいる。
「ふぅん……」
久しぶりに淫乱な気分である。礼司は思わず身体を返して、その手の主に向き合うと両腕を身体に回す。くるくるカールの黒髪の中に手指を差し込んでくしゃくしゃにする。そして滑らかな背中を撫で下ろす。
和風の香りが鼻先をくすぐる。龍平や音丸が身にまとった香の香りである。
「両手で抱いてよ……」
せがまれて両腕を背中に回して胸を合せれば、下では互いに昂った物が頬ずりせんばかりである。
「もっと強く……ああ、いい。もっと……」
言われるままに両手に力を込めて抱き寄せて、唇を合わせて舌を舐め合う。
「うふ……ん」
吐息の合間に声が出る。指先で味わうように肌を愛撫しながら腰を卑猥に動かして間近に相手の顔を見る。
だがそれは中園龍平ではなかった。
柏家たっぱである。
礼司が抱いているのは女の身体だった。胸にぶよんと当たるのは二つの乳房である。
唾液に濡れた紅い唇がにやりと笑った途端に耳まで裂けた。シャーッと蛇のように威嚇して細く尖った牙が礼司の喉首に齧りつこうとする。
思わず上腕二頭筋に力を込めて渾身の力で身体を締め付けると、
「ぎゃあぁーーーっ‼」
凄まじい悲鳴と共に腕の手応えが消える。礼司は両腕にどよんと垂れた重い肉体を抱き締めている。それが柏家たっぱなのか中園龍平なのかわからない。スライムのようなどす黒い重量物である。
「わあぁぁーーーっ‼」
喉も張り裂けんばかりに絶叫して飛び起きる。
またしても礼司は激しい動悸と荒い呼吸で身をわなわなと震わせている。肌もまたじっとりと寝汗をかいている。
タオルケットを捲ってみれば、あろうことか下着も濡れている。艶夢どころか悪夢だったのに下半身は精を放っているのだった。情けなさにまたベッドに倒れ伏す。
室内は朝の光に満ちていた。レースのカーテンだけ引いた窓からは陽気な日差しが差し込んでいる。ついさっき静謐な月の明りを見たはずなのに。
今度はずいぶんと長いこと眠っていたらしい。時間が不規則に伸び縮みしている気がする。
部屋の隅を見ても幽霊はいない。部屋中を見回しても透明に透けた姿はない。中園龍平も常見可音の曾祖母も消えているのだった。
もう無理だ。
限界だ。
もうここにはいられない。
泣くに泣けない思いで布団の中に丸まって頭を抱える。だからといってもうどこにも行く場所がない。仮死状態の小動物のように丸まって頭を抱える松橋礼司だった。
玄関先の靴箱の上から洋酒の箱を一本取って部屋を出る。音丸が揃えた靴箱の上のバーも次第に本数が減っている。本人が呑んだせいもあるが、こうして礼司が外に持ち出しているせいもある。
もういいのだ。音丸の好きな酒を保管する必要もない。というか他にも音丸の細々とした私物が部屋に残っている。上着やTシャツ手拭いだの足袋だの、あれやこれやをいずれまとめて送り返さねばならない。
ちうりっぷ商店街のコンビニで朝食用のおにぎりや飲み物を買うと、ひやしんす商店に向かう。早朝出勤の人々が地下鉄駅に向かうのとは逆方向に礼司は早足で歩いた。
日光荘のドアチャイムを鳴らすと、
「空いてるよ」
中から短く声がした。そっとドアを開けて、
「具合はどう? 朝飯持って来たよ。それと洋酒ね」
月光荘と同じ靴箱の上に酒の箱を置く。以前礼司が持って来た〝山崎〟という日本酒のような名前の洋酒も置いてある。封を開けたがまだ呑み切っていないらしい。今回は〝ヘネシー〟という酒である。
室内のインテリアは前に来た時と少しく変わっていた。
大テーブルの横というか半分下に布団が敷いてあるのは、以前礼司が押し入れから引っ張り出して敷いたままである。そこに横たわっている可音は青白い顔色だった。生理痛はまだひどいらしい。
「冷蔵庫におーばさんの料理がある。適当に食べてて」
可音は布団から身を起こして顎で冷蔵庫を示した。
「夕べ俺んちにひいおばあさんの幽霊が出たんだけど、こっちは大丈夫だった?」
「どうかな? 薬飲んで寝てたからよくわからない」
「そっか。……ならよかった」
玄関を上がってふと見ると部屋の角々には、以前作った盛り塩が埃を被ったまま置いてあるのだった。
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