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第十一章 2 居残り日光荘
2 居残り日光荘
部屋の印象を大きく変えているのは新たなカーテンだった。ワンピースによる自殺未遂でぐんにゃり曲がっていたカーテンレールは新調されて、オレンジ色や黄色を基調とした明るいカーテンが下がっている。
礼司は遠慮なく台所で湯を沸かしたり冷蔵庫を覗いたりする。布団の中から可音の声が、
「冷蔵庫のパイナップルケーキ。親の台湾土産。松橋さんのだから持って帰って」
「親って……可音さんの?」
「ちょうど帰国してて。昨日の夕食会で松橋さんに会うつもりだったみたい」
「あっ」と礼司はにわかに現実に引き戻される。昨日たっぱの事故がなければ、常見家で夕食をご馳走になる予定だったのだ。
まさか海外に住む可音の両親が帰国しているとは思わなかった。
「ひーばーの葬式に間に合わなかったから、お参りに来たんだ。松橋さんに会うのはついでだよ」
「そ、そりゃそうだよね」と少し安堵する。
「おーばさんが言うから。松橋さんと交際中だとか。親、大喜びだよ」
「う、うん……」
パイナップルケーキは手提げ袋ごと冷蔵庫に入っているのだった。礼司はそれを出して眺めてからまた中にしまうのだった。
自分が可音と婚約者になっていることを忘れていた。二十 だというのにまるで老人性健忘症のように記憶力が衰えている今日この頃である。いやきっと龍平に身も心も乗っ取られているせいなのだ。
婚約者であれ友人であれ今が今、妖 のことを話せる人間がいるのはありがたいことだった。
礼司は一人でテーブルにコンビニおにぎりや大家のおばさん手作りの総菜を広げて朝食をとる。スマホを眺めながら食べていると、音丸からメッセージが届いていた。
〈迷惑をかけてすまなかった。たっぱはしばらく入院する。詳しくは後で話す〉
夕べ遅くに着信していた。礼司が散々悪夢を見ていた頃である。
「たっぱさん入院するって」
布団に向かって言うと、可音はもぞもぞと身を起こすのだった。
「どうなのかな? 具合悪いのかな?」
「さあ。後でまた訊いてみるよ」
「お見舞いに行こうよ」
「え、あ……そ、そうだね」
礼司は食べるのに気を取られているふりで適当に相槌を打った。
確かに事故現場に居合わせた者がお見舞いに行くのは当然だろう。だがどうにも気が進まないのだった。
可音はそんな礼司の気持ちを知るはずもない。昨日の落語について訊いて来るのだった。
「昨日の落語って解説でも言ってたけど〝怪談牡丹灯籠〟の〝お札はがし〟っていうんだね。カラーンコローンって幽霊が来る噺だと思ってたけど。全然違ってた」
「うん。三遊亭圓朝 が作った〝牡丹灯籠 〟は、めっちゃ長い噺なんだ。だから何段にも分けて話す。幽霊の女が牡丹灯籠を下げて駒下駄 を鳴らして来るのが有名だけど、ほんの冒頭なんだ。実はその後が長い噺なんだよ」
などと豆知識を披露するが、実は礼司は昨日の落語を殆ど聞いていなかった。久しぶりに音丸に会ってときめいていたせいもあるが、どうも龍平が礼司の耳をふさいでいた気もする。
改めて音丸が〝お札 はがし〟をやったと知って何やらぞっとする。
あの段は幽霊のお露 に憑りつかれた恋人の新三郎 がお札で身を守ろうとするも、あえなく取り殺される噺である。
それを音丸が語るとはどういう覚悟なのだろう?
ふとお札は妖 に効果があるのかと思いつく。
考え込んでいると可音に問われる。
「たっぱさんも、ああいう落語をやるのかな?」
「いや、まだ前座だから圓朝噺 なんて出来ないよ。高座にかけられるのは前座噺だけだよ」
「へえ、前座噺っていうの? 聞きに行きたいな。たっぱさんはどこに出演するのかな?」
床の上から妙にはにかんだような声が聞こえて来る。
思わず礼司は椅子の上の身体を倒して布団の方を覗き込んでしまう。だが可音は夏掛けにくるまっていて顔も見えない。
「でもまずはお見舞いに行かなきゃね」
などと、ほんのりと花でも咲かせそうな空気が漂って来るばかりである。
何なんだ。体調が悪いんじゃなかったのか?
礼司は妙に忌々しく、スマホチェックを続けるのだった。
以前届いたきりスルーしていた音丸のメッセージは、別に盛岡の老舗ホテルでの謝罪ではなかった。
〈三代目仁平師匠のカセットテープを知らないか? 家にないがそっちの部屋に持って行ったか?〉
枕元の小引き出しに黒いネクタイと共に入っていたケース入りのカセットテープを思い出す。やはり音丸が持って来た物だったのか。
いずれ渡すか送り返すそうと心に留める。これは忘れてはいけないことである。
有田津久志の妹からもメッセージが届いていた。
電話で話した訪問の日時を確認する内容だった。読んでいるうちに不穏な思いが胸に広がる。また心臓が少しばかり鳴り始めた。
地下鉄の悪夢。あれは本当にただの夢だったのか?
記憶では栄養ドリンクの赤ラベルの瓶は自分で飲み干して、残りの金ラベルの瓶はツクツクに渡したはずである。
なのに礼司の斜め掛けバッグには栄養ドリンクの空き瓶が二本入っていたのだ。何故あの時疑問に思わずにアパートのゴミ捨て場に捨ててしまったのか?
それはあの夢のように自分が地下鉄ホームに戻って金ラベルの瓶を一口味見した後に、ツクツクを線路に突き落としたからではないか?
現場に殺しの証拠を残さないために金ラベルの瓶を持ち帰ったのではないか?
最早どこまでが現実でどこからが夢かもわからない。
けれど思い返せば返すほど自分が有田津久志を殺したと思えてならない。
柏家たっぱの身体を締め付けて階段に倒したように、あの冷酷な中園龍平がやってのけたのではないか?
いよいよ動悸が激しくなり胸苦しい。指先は小刻みに震えている。その指先で有田の妹に返信した。
〈今度伺う時にまたお父さんにお経を唱えて欲しいです。お札があればもらいたいです。よろしくお願いします〉
思わず掌にスマホを挟んで両手を合わせてしまう。
「鰯の頭も信心から」「信じるか信じないかはあなた次第です」有田の言った言葉を思い出すのだった。
そして礼司は日光荘101号室に居残りになった。
かつて音丸が月光荘203号室に居残ったように、礼司は毎晩日光荘で寝て月光荘に戻っては着替えて講義に必要な物を持って大学に出かけるようになった。
可音のベッドだった押し入れの下は布団をテーブル横に移動したことによって、ちょっとした読書室のようになっていた。ラグを敷いてクッションを何個も置いて読書灯や充電器まで引き込んでいたのだが、そこが礼司の寝室になった。
生理が終わり元気になった可音は布団の大半をテーブル下に敷き直してそこで寝ている。上から見れば上半身の殆どがテーブル下に隠れており、足だけがはみ出している状況である。どうも可音は顔の上に何かある方が安眠できるらしい。
礼司は女性と同居している気分ではなく、むしろ学生寮で有田と暮らしていた時のようだった。
いずれにせよ、もう中園龍平に付け入る隙は与えたくなかった。
朝は可音と共に日光荘と月光荘の掃除をしてから大学に出かける。殊更真面目に勉強をして空き時間は予備校でのアルバイトに費やした。それでも空き時間があれば単発で家庭教師のバイトも入れた。
もう落語など聞きに行かないのだ。
忙中閑ありとはよく言ったもので、礼司はふと時間が空くと中園龍平と出会った頃のことを思い出したりする。
あれから既に半年以上がたっている。よくも自分はあんな妖 と共生して来たものである。共寝までしたのだ。どれだけセックスに飢えていたことか。
いや、それだけではない。わかっている。中園龍平に憑依されていれば音丸と抱き合えるのだ。
あの男に抱かれたい。人間国宝の彫刻師が彫ったような鋭い一重の瞳に見つめられたい。お香と音丸の体臭とが入り混じった静謐な香気に身を包まれたい。細い指が肌に触れる感触に総毛立って頂点に昇りたい。
龍平に憑りつかれている限り、礼司はあの男と親しく接することが出来るのだ。単なる客ではなく恋人としてつきあえるのだ。
けれどそれは柏家たっぱに反対されたことである。たっぱと言えば礼司は見舞いに行かねばなるまい。どう考えても知らんふりは出来ないだろう。
また可音がしきりに言って来るのだ。
「たっぱさんの具合はどうかな?」「そろそろ落ち着いた頃だろう?」「お見舞いに行こうよ」
口許をほころばせて「たっぱさん」と宝物のように発音する。
なるほどこいつは女が好きなノンケのトランスジェンダーなのだなと再認識はするものの、妙に忌々しいばかりである。
そもそも人間は他人の恋路など知ったこっちゃないのだ。大事なのは自分の恋路だけである。
有田の妹と約束したのは土曜日だった。四十九日も過ぎたのだから普通の恰好でいいだろうとブレザーにネクタイのアイビールックで出かけることにする。ネクタイは赤色が映えるだろう。
クローゼットに赤いネクタイを探すが見つからない。ベッドの小引き出しを開ければ黒いネクタイがカセットテープと並んでいるが探しているのは黒ではない。
カセットも何とかしなければと思いながら、他の引き出しも探すうちに思い出した。
あれは盛岡のホテルに置いて来てしまった。
思い出しただけで頭からすうっと血の気が引いた。
別にネクタイは他にもある。龍平はいちいち違うネクタイを占めたがるので無駄に何本も買ってあるのだ。適当にチェック柄の物を締めて月光荘の部屋を出る。
出がけに眺めたドアは何故か外側の下部が凹んでいた。あの傷はドアごと取り換えて無くなったはずなのに?
首をかしげながら地下鉄駅に急ぐ。
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