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第十二章 1 脅迫 

 ツクツクを殺したのは自分だ。いや両手で背中を押した記憶はない。  けれど言葉で背中を押した。それは間違いない。  ツクツクは「愛している」と自ら認めたマッツンに「キモイ」と侮蔑の言葉を吐かれたのだ。  それでこの先生きていけようか?  否。  言葉に押されて線路に身を投げた。  ディスプレイの青白い光に照らされて礼司は両手で頭を抱えると、喉から悲鳴とも言い難い音を発していた。震える指で頭皮に爪を立てながら。  ファイル名の〝0917〟という数字はおそらく9月17日だろう。礼司の誕生日である。  長いのか短いのかわからない時間が過ぎた。  宵の口なのか夜中なのかもわからない。  にわかに礼司は立ちあがってクローゼットを開けた。ブランドショップで買い物をした際に渡された丈夫な手提げ袋が何枚かある。クリーニングに行く時に洋服を詰め込んで行くのだが、その一枚を広げると机の上に掛かっている音丸のサイン入り色紙を額ごと袋に放り込んだ。  木製シェルフには初音製薬で木村主任に渡された中園龍平のネタ帳や落語のチラシが詰まったクリアホルダーなどが積んである。それも袋に放り込む。ついでに音丸が忘れたのだろうノートや雑誌なども。  クローゼットを開け放てば音丸の私物はもっとある。黒いパーカー、黒いTシャツ、白い靴下、足袋の片方、下着に手拭いなど。思いつく限りの物を袋に入れる。  何なら冷蔵庫に入っていた音丸の土産である未開封のわさび漬け、ウニの瓶漬け(いずれもアルコールを含んでいるから礼司には食べられない)まで放り込んでいる。  音丸の私物のみならずそれを思い出させる物も一切合切紙袋に詰め込んだ。時々ツクツクのファイル〝0917〟に書かれていた言葉が頭に浮かんでは嗚咽を洩らしそうになるが、歯を食いしばって袋詰め作業を続けた。  礼司は自分が何故こんな行動をしているのかわからないまま身体だけを動かしていた。  そうして夜も更けた頃とうとう電話をかけていた。  逡巡は微塵もなかった。  相手が電話に出ることも何故だか確信していた。  そして、その通りだった。 「どうした?」  怒涛のような酒席の喧騒に次いで低い声が聞こえて来た。 「会いたい。来て。今すぐ来て。忘れ物を返すから。それでもう会わないから。すぐ来て」  奔流のように言葉が迸った。龍平の言葉ではない。礼司の心の底から出た言葉である。音丸はしばし沈黙の後、 「今日は無理だ。明日の昼過ぎに……」  低い声で言った。背後の大騒ぎは〝英語de落語会〟の打ち上げとは比べようもなかった。客がいない芸人だけの打ち上げは漏れ聞くだけでも阿鼻叫喚の地獄絵図と知れる。 「おーい、音‼ 何を電話してんだー⁉ こっち来ーい‼」  遠くで叫んでいるのは弦蔵師匠らしい。 「師匠ダメですよ邪魔しちゃ」「食うな俺のギョニソーだ!」「ホッピーがなーい!」「あにさんモテモテ~」  有象無象の声も聞こえる。 「仕事です!」  音丸は怒鳴り返して部屋の外に出たらしい。 「今だよ‼ 今すぐ来てよ! 来なかったら……」  礼司の勢いも弦蔵師匠に優るとも劣らなかった。辺りを見回して手提げ袋からはみ出していたカセットテープを手に取った。ベッドサイドの小引き出しに黒いネクタイと共に入っていた落語のテープである。 「カセットテープ壊すよ! 先代仁平師匠のテープ。踏んづけて壊してやる‼」 「おい! テープそこにあったのか⁉」 「あったよ。俺は知らない。きっと龍平が持って来たんだ。余一会の前に音丸さんの部屋に寄った時にきっと」  言ってるうちに掌に感触が蘇る。  明け方から交わったあの日、音丸が出かけた後で龍平は桐箪笥の横に積んである本やカセットテープの中から先代師匠のこれを選んでポケットに入れたのだ。ツルツルしたケースの手触りを覚えている。 「だから来てくれなかったら、踏み潰して粉々にしてやる!」 「やめてくれ。松橋さん! 松橋さんだろう?」  一瞬胸が高鳴る。音丸は龍平と礼司の声を聞き分けている。ここぞとばかりに言い募った。 「そうだよ、龍平じゃない。俺だってやる時はやるんだ‼ 俺が会いたいって言ってるんだから。来なかったら……」  一体自分は何を喚き散らしているのか。まるで赤ん坊が駄々をこねるように涙を流しながら怒鳴り散らしているのだ。  いきなり耳元に嬉しそうな大声が、 「音! 誰と話してんだよ? お姉ちゃんを泣かせちゃダメだぞ」  などと聞こえて来る。 「違います師匠。仕事の話です。やめてください」 「つれない男ですんませんねえ。じきお開きになりますから。お股お開きして待っててくださいねえ。すーぐ行かせますから。イクイク~?」  げらげら笑いながら弦蔵師匠はスマホを奪ったらしい。耳を弄さんばかりの声による下ネタを最後まで聞かずに礼司は電話を切った。  目が覚めると雲をつくような大男に見下ろされていた。床に丸まって眠っていた礼司は白い靴下から黒いコットンパンツにトレーナーと続くその姿を順繰りに見上げて行った。  柏家音丸だった。  途端に室内にアルコール臭が充満していることに気がついた。音丸の全身から発している臭気である。  礼司が鍵を開けて招き入れたのか?   そんなはずはない。とすれば音丸はとうとう自分の合鍵で扉を開けたのか?  初めてのことである。  ブランドショップの手提げ袋を抱くようにして寝ていた礼司はのろのろと身を起こした。どうにも目が見えづらいのは、散々流した涙が乾いて目ヤニになって瞼を半分閉ざしているのである。頬も乾いて塩を吹いたかのようにバリバリになっている。 「ちょ……顔、洗って来る」  普通に音丸が帰宅したかのように礼司は身を起こすと洗面所で顔を洗った。  鏡に映る泣き腫らした不細工な顔を眺めながら思い返す。音丸に電話をした後で礼司はその場に転がって寝てしまったのだ。荷物を詰め込んだブランドショップの手提げ袋を抱き枕のようにして。  おそらく音丸は玄関チャイムを鳴らしたのだろう。それでも誰も出て来ないから仕方なく合鍵を使ったのだ。  かつて夜中に空き部屋を見てしまったトラウマは払拭されたのだろうか?   いやむしろ礼司には音丸のこの行為こそ最終通告に思えた。もしこの部屋がもぬけの殻になっていても構わない、どうせ別れるのだからと覚悟して開けたのだろう。  タオルで顔を拭いて部屋に戻ると音丸も以前のように台所でグラスに水を汲んで飲み干していた。酔って帰った時の習慣である。 「たっぱのことは言ったっけ?」  礼司はその場に立ったまま首を横に振った。音丸は二杯目の水を汲みながら説明している。 「こないだリハビリ施設のある病院に転院した。歩けるようになるそうだ。かなり厳しいリハビリが必要らしいが。ただ落語は座って話す仕事だから、袖から座布団まで歩ければ問題ない」 「……落語家を続けるの?」  二人はワンルームに立ったまま話している。間にブランドショップの手提げ袋があるのがまるで結界のようである。音丸はまた水を飲みながら、 「本人はそのつもりらしい。一度は廃業して戻って来た身だから、多少身体が不自由になったぐらいでもう辞めるわけにはいかないと」 「そうなんだ」 「たっぱが謝っていた。松橋さんに余計な差し出口をしたと。私からも謝る。本当は私が気を付けるべきことだった。たっぱを悪く思わないでやってくれ。すまなかった」  たっぱはあの時のことをどこまで兄弟子に話したのか。礼司はもはやそれを勘繰る気にもなれない。 「ふうん……」  手を伸ばしたのは礼司なのか龍平なのかわからない。音丸もまたその仕草の意味がわからない様子で目の前の手を見つめている。 「それ、ちょうだい。喉乾いた」  音丸が持っている水のグラスを求めているのだった。何気なくそれを差し出した音丸は、礼司が残っている水を飲み干すのを眺めて「おい」と声を潜めて言った。 「何?」  飲み干したグラスを台所の流しに持って行く礼司である。 「……いや」  首を横に振ると音丸はひざまずいて足元の手提げ袋を持った。 「これで全部か?」 「そう。持って帰ってよ。あと、これと……」  礼司がジャージのポケットから出したのはケース入りのカセットテープだった。いつ入れたのかはわからない。  音丸は躊躇なく手を伸ばした。 「すまない。先代の〝青菜〟の音源はこれしか残ってないんだ。次の一門会でやるように師匠に言われた。さらっているところだ」 「弟子全員がネタ下ろしの地獄の一門会か。ふうん。音丸さんは〝青菜〟をやるんだ?」 「仁平師匠の得意ネタだ。師匠も先代から習ったそうだ」 「来年の一門会……盛岡のホテルだよね。聞きに行こうかな?」 「どうぞ、いらしてください。あの彼女も誘ってどうぞ」 「可音は彼女じゃない。ただの友達」  と礼司はまだ手にカセットテープを握ったままである。 「失礼しました。他のお友だちもお誘い合わせの上ぜひいらしてください」  営業トークの見本のような笑顔で言う音丸である。  礼司は屈んで手提げ袋の中にカセットテープを滑り込ませた。そして音丸が玄関に向かって踵を返した途端に、 「あれ?」  手提げ袋の中から黒いネクタイを引き出した。 「これは音丸さんのじゃないよね?」  両手に持って広げて見せると音丸は頭を巡らしてちらりと見た。 「違うと思う」  言いかけた途端に首に黒いネクタイを巻きつけられて目を見開いた。  一方礼司はしゅっと音がせんばかりの勢いでまた意識を天井に飛ばされていた。  龍平は音丸の首に掛けた黒いネクタイを背後で交差するよう握り直して、そこに全体重を掛けている。  天井から俯瞰で見ている礼司には、龍平が音丸の背中に抱き着いているようにも見える。だがよく観察すれば龍平の両足は床に着いていないのだ。体重の全てが音丸の首に巻き付けたネクタイにかかっている。 「ねえねえねえ……一緒に逝ってくれるよね?」 「何だそりゃ?」と音丸も礼司も同時に同じことを思ったはずである。  細いネクタイを握りしめた龍平の腕は小刻みに震えている。音丸は両手で喉元を掻きむしりながら、少しでも首に空気を送ろうとしているのだろう背をそらしている。龍平の足裏が床に着いて膝を曲げるまでに反り返っている音丸である。 「僕もうやなんだ。一人でいるのはもう飽きた。ずっと音丸さんと一緒にいたいんだよ。こっちに来てくれるよね?」  ああ……そうか。  ……そうだったのか。

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