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第十二章 2 ブラックアウト
2 ブラックアウト
龍平がこの世に戻って来たのは音丸を連れてあの世に戻るためだったのか。
ひどく冷静に天井の隅っこから龍平がネクタイで音丸の首を絞めているのを眺めている。
やはり盛岡のホテルでの真の目的はこれだったのか。
だが龍平の身体は音丸を支点に、見事にくるりと弧を描いて床に叩きつけられた。ちょうど柔道の背負い投げをかけられたような具合である。月光荘全体がずしんと揺れ動く程の響きである。
隣の部屋の窓がからからと開いて「地震?」と呟いているのが礼司には聞き取れた。
対する二人はそれどころではなかった。
自由になった音丸はすかさず首に巻きついた黒いネクタイをむしり取って、それを持ったままの手で龍平の首元を押さえ付けた。
「だから水杯か⁉」
あいにく礼司にはその意味はわからなかった。
身体はと言えば背中から床に叩きつけられたきり身動きできないようである。
音丸はまるで掌で龍平の首を圧迫して窒息させるかのようだ。
龍平はただ目を見開いて震えるばかりである。
たっぱが三段の階段に倒れた時のように背中を強打されて声も出ないのだろう。よもやたっぱのように脊髄損傷でもしているのではあるまいな?
少なくとも明日は背中が打ち身でさぞ痛むだろうとの予測は出来た。
その時点では礼司はまだ自分に明日が来ると信じていた。
一瞬、音丸は屈んだ身体の全体重を龍平の首元においた両手にかけた。龍平の(礼司の)喉から「グェッ」と蛙が潰れたような音が漏れる。
途端に音丸は弾かれたように立ち上がると、
「もう会わん」
言い捨てて靴を突っ掛けると玄関のドアを開けた。
そこで出て行けばいいものを思いついたようにポケットに片手を突っ込んだ。合鍵を探しているのだ。
「待っ、待ってよ‼ 行かないでよ。一緒に……」
龍平に叫ぶ隙を与えてしまった。咳をしながら龍平は必死で言い募る。
「一緒に来てくれないなら、僕死ぬよ‼ 死んじゃうからね‼」
音丸は黒いコットンパンツのポケットから合鍵を出すと、
「知ったこっちゃなか! 勝手にしぃ!」
と靴箱の上に叩きつけた。
鍵にはちびドラゴンのアクリルキーホルダーが付いている。いつ誰がそんな物を付けたのか礼司は知らない。
そして靴箱の上にはまだ〝森伊蔵〟を始めとする芋焼酎や吟醸酒の瓶が何本も並んでいた。
「ウソじゃないよ‼ 本当に死ぬからね。知らないよ。死んでやる‼」
床に這いつくばって絶叫する龍平に向かって、
「……おまえはもう死んでいる」
妙に皮肉な口調で言うと音丸はドアを開けて出て行った。ゆっくりと締まるドアの隙間からひたひたと小走りに去る音丸の足音が聞こえて来た。
「音丸さんのバカ‼ 後悔したって知らないよ⁉」
龍平はと言えばその隙間に向かって怒鳴りつけている。
天井の隅で呆れるばかりの礼司が、龍平の真意を悟ったのはがちゃりと音をたてて扉が閉まった直後である。
床からゆらりと立ち上がった龍平は靴箱の上から〝森伊蔵〟の箱を取った。
そして一升瓶を引っ張り出して蓋を開けるなり口を付けたのである。ごくごくと溢れ出るアルコールを口中に流し込んでいる。
「待て‼ 何考えてんだ⁉ やめろ‼ 焼酎なんて強いのを……よせ‼ やめてくれ‼」
礼司は声など出ない。喉にはアルコールが溢れかえっている。
龍平にはその声が届いているはずなのに構わずぐいぐいと芋焼酎を飲み干している。まるでそこが角打ちであるかのように靴箱に寄りかかって呑んでいるのだ。
喉から入った毒物を数口嚥下しただけで肉体は吐き出そうと激しく噎せ返る。構わず龍平は芋焼酎を口に注ぎ込むから吞んでいるのか吐いているのかわからない。
靴箱にもたれたまま一升瓶を抱いてずるずると玄関に座り込む。顔のみならず胸元までアルコールでびしょびしょに濡れている。
液体は気管にも入ったらしくいよいよ息も出来なくなり身悶えする。
玄関先にうずくまったまま窒息死するのではないかと恐慌に駆られながらも、まだ一升瓶に口を付けようとしているのだ。
遠くに250㏄バイクの軽い排気音を聞いた気がする。
もう可音がゴミ捨て場の掃除に来る時間だったか……などと暢気なことを考えたのは覚えている。
礼司が意識を保ち得たのはそこまでだった。
ブラックアウト……。
鼻先にアルコールの匂いが漂う。酒ではない。消毒用の尖ったアルコール臭である。
かすかに聞こえるのはクラシック音楽である。バイオリンかヴィオラか知らないが楽曲は知っている。中学校の音楽の授業で習ったあれ……あの明るい、爽やかな音楽である。
頭は割れるように痛み胸もむかむかと嘔吐感が込み上げているのに、この爽やかさは何なのだ。まるでホテルで朝を迎えているかのようである。
ひょっとしたらここはあのホテルではないか。音丸と共にいたあの東北の……老舗ホテルではないか。
たっぱに見られた……あのホテルにまだ自分は留まっていたのか。そう思った矢先に、
「……先生、至急……にいらしてください」
遠く館内放送らしきものが聞こえて来た。
目が明かない。暗闇の中で礼司は鼻と耳だけを研ぎ澄ませている。
遠くに着物の匂い袋のような雅な香りがする。その香りだけに神経を集中するうちに、がさがさと衣擦れの音と共に、
「どうですか具合は?」
やたらに煙草臭い身体が近づいて来る。礼司の首や腕に触れている。仕方なく瞼に力を入れると強烈に眩しい光が飛び込んで来た。
「どうですか具合は?」
また同じことを問うのは、白衣の男である。
目を開いて身動きするといよいよ頭痛や眩暈は激しさを増す。まるでいきなり荒れ狂う大海に小舟に乗って投げ出されたかのようである。
また瞼を閉じたが暗闇の中で頭はぐらんぐらん振り回されているようである。自分がきちんと横たわって天井を見ているのかも判然としない。
それからまた礼司はしばらく眠りに落ちたらしい。
また目覚めるとやはり伽羅のようなお香の香りがする。眩暈を怖れてそっと薄く目を開ければ、傍らに黒服の姿が見える。何度か目を瞬く。
ベッドの傍らで椅子に座っているのは音丸だった。
「どうだ具合は?」
唐突に悟る。言葉の抑揚が違っている。
柏家音丸という落語家が高座で話す時は完璧な江戸弁である(「必死」が「しっし」になり「まっすぐ」が「まっつぐ」になる)。
なのにこうして聞くとイントネーションが明らかに違う。おそらく故郷博多の訛なのだろうが、礼司はこれまで殆ど耳にしなかった。
房事の最中でさえ聞かなかった口調である。
礼司はそれを指摘することなくただ聞いた。大河の流れのような穏やかな言葉の流れを聞いていたかった。
「すまなかった。早く気づいていればこんな目に遭わせなくて済んだのに。本当に申し訳ない」
腰かけた音丸は膝に手をついて深く頭を下げている。
天井を向いてベッドに寝ている礼司の左腕からは点滴のチューブが出ている。その先の掌には包帯が巻かれている。掛布団に隠れている右手も少しく動かしてみればやはり掌に包帯があるらしい。
そして目のすぐ上には大きな絆創膏らしき物が貼られている。道理で瞼が開きにくかったはずである。
「私が投げた時に、トイレのドアノブに接触して額を打ったらしい。瘤が出来ていたそうだ。すまなかった。掌はネクタイが……」
言い淀んで唇を噛む音丸である。その喉元に赤い輪のような跡がはっきりと見て取れる。
黒いネクタイで音丸の首を力一杯絞めつけた。そのぎりぎりと握り締めた細い布が喉に赤い痕を残した。
そして礼司の掌にも擦過傷を作った。龍平は本気で音丸を殺したかったのだ。
礼司はただ音丸の説明を聞いている。
酒豪の音丸にしてみればアルコールで自殺を図るなど想定外だったのだろう。龍平に「死ぬ」と脅された時もよもや芋焼酎が凶器になるとは思いもせずに部屋を出たという。
「それに……龍平はとうに死んどぉ。それが〝死ぬ〟て言う意味もピンと来んやった。申し訳なかった。酔うとったけん深う考えられんやった」
龍平が言う〝死ぬ〟とは〝松橋礼司の肉体を殺す〟という意味である。
そう悟ってにわかに立ち止まった音丸の横をオートバイが走り抜けていったと言う。
それが常見可音のものだったと知るのは、音丸が月光荘203号室に引き返した時である。
可音は玄関先で一升瓶に抱き着いて瀕死の芋虫のように丸まってはのた打ち回る礼司を発見して110番通報をしていた。
救急車の到着までに音丸は礼司を介抱していたという。その詳細は後になって可音から聞いたのだが、出来れば言葉が故郷に戻ってしまった音丸の声で聞きたかったものである。
音丸は救急車に同乗してこの救急病院までやって来た。可音は部屋を掃除してから、入院に必要な物を持ってやって来たという。
「今は……じゃあ?」
礼司の質問に音丸はすぐに、
「朝の八時過ぎだ。明け方、救急の先生が交代前に様子ば見に来てくれた」
と答えてくれた。
可音は既に帰宅していたが、後でまた大叔母つまり大家さんと共に見舞いに来るとのことだった。それを聞いて礼司は肝が縮む思いだった。仙台の両親にこの醜態が知られてしまう。あの大家のおばさんが知らせないわけがない。
「すまんが、これから仕事がある。早朝寄席の手伝いに行かなならん」
「……もしかして夕べの呑み会って、深夜寄席の打ち上げ?」
にわかに音丸の目が糸のように細くなって頷いている。
こんなに柔らかな微笑みは久しぶりに見る。礼司が音丸のスケジュールを把握しているのが嬉しかったのだろうか。
「あれって二つ目の会でしょう。何で真打の弦蔵師匠までいたの?」
「あの人は酒がありゃあどこでん来る」
笑ってベッドサイドのカーテンを開けると「また来る」と音丸は帰って行った。
カーテンの隙間から人口の灯りではなく、病室の窓から差し込む朝日が少し見えた。
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