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第十二章 3 常見邸にて

3 常見邸にて  礼司は二泊三日入院して病院を後にした。退院前に医師との面談で、しつこいまでにアルコールアレルギーの講義をされた。 「救急外来にいると時々何故助かったのかわからない患者が現れる。正に君がそれだ」 「何故助かったかわからない?」 「君のアレルギークラスならアナフィラキシーショックで即死もあり得たんだ。殆ど無駄と知りながら治療をしていたら……助かってしまった」 「それって助かって困ったみたいな?」  口を突いて出た賢しらな言葉は、どうもまた龍平に乗っ取られているような気がしないでもない。  医師はあわてて両手をばたばた横に振って、 「いや、そういう意味じゃない。せっかく二十まで生き永らえたんだ。この先二度とアルコールで命を縮めないように。そのパンフレットをよく読んで気をつけて生活しなさい」  先に渡されたアルコールアレルギーに関するパンフレットを礼司はぱらぱら捲りながら医師に頷いて見せた。  音丸はあれ以来病院に現れなかった。礼司は心待ちにしながらも理性ではもう来ないと知っていた。別れ話は盛岡でとっくにしている。忘れ物も全て返したのだ。救急病院に付き添ってくれたのは最後のご奉公といったところだろう。  礼司ももう二度と会う気はないし、落語を聞きに行くつもりもないのだった。  今になってツクツクの秘密のファイル〝0917〟を見た直後に荷物をまとめ始めた自身の真意を知る。  有田津久志に死に到る程の懊悩を与えたのは龍平に憑りつかれたせいなのだ。ならば安穏と音丸に到る恋の道など歩けるわけもないだろう。  などと考えながら音丸の本名が神谷到だと思い出したりする。  音丸の姿を見ないまま退院を迎え院内の会計に行くと、 「神谷到様がお支払いくださいました。多かったら救急医への謝礼とおっしゃいましたが公立病院ですので受け取れないと申し上げたんです。そうしたら、患者の松橋様のお見舞いにと……」  事務員は釣銭トレイに何枚かの紙幣や硬貨をのせて言うのだった。 「これもお預かりしております」  それらの金を〝お見舞い〟の熨斗袋に入れて手渡された。名前は〝神谷〟と書かれていた。  スキャンダルを怖れて芸名を避けたのか。あるいは最後の別れは本名でしたかったのか。礼司には知る由もない。ただ自分が一度として音丸をこの本名で考えたことはないと気づくばかりだった。  あのゆるやかな博多訛りで話す男こそ〝神谷到〟なのだと今更実感する。  そして噺家として楽屋で躾けられた礼儀を見せつけられる。使用済みのブランドショップの手提げ袋に私物を突っ込んで渡した礼司とは大違いなのだった。  病院まで迎えに来てくれたのは可音と大家さんだった。  礼司はこの醜聞をとうに仙台の両親に報告されたと諦めていたが、 「おーばさんには口止めしといた。二人で呑んだって言ったし。仙台には婚約もまだ内緒だから何も言うなって」 「ありがとう、助かるよ。そう言えば婚約してたんだっけな」 「こっちだって忘れてたよ。おーばさんはすぐ親に伝えちゃうから。子供だって黙ってて欲しいプライバシーはあるのに」  ぼやくのに礼司は頷いていた。可音はどうも台湾に住む両親について思うところがあるらしい。  月光荘に向かう車はメルセデス・ベンツで、ハンドルを握るのは可音だった。  後部座席に大家さんと並んで座った礼司は、バックミラーに映る自分の顔が我ながら青白いと思う。まだ頭痛は続いていたし眩暈も治まってはいなかった。 世話好きな大家のおばさんがそれを見逃すはずもない。月光荘に向おうとハンドルを回す可音に命じて、屋敷のカーポートにベンツを駐車させるのだった。 「まだ顔色も悪いから、しばらく家で静養してから部屋に帰るといいわ」  決定事項のように礼司に伝えるのだった。  そうして退院後一週間、礼司は常見家の座敷に泊って養生したのだった。上げ膳据え膳で手や額の包帯も毎日清潔な物に交換してもらえる。大家のおばさんに母親のように面倒を見てもらって過ごしたのだった。  与えられたのは以前可音に案内された十二畳の座敷である。長い廊下の向こうにある日本庭園を雪見障子越しに鑑賞できる部屋は風情があったが妖気もあった。  何しろ曾祖母の葬儀で祭壇が設えられていた場所でもあるのだ。夜明りを消して布団に入っていると、床の間や部屋の角々に妖しい気配が滞っているようで心安らがないのだった。  退院するなり布団を敷かれたその部屋で休んだのだ。毎日のように布団でだらだら過ごし、起き上がれるようになってからようやく事件の経緯を知るのだった。 「何であの時、可音さんが来たの? わりと深夜だったと思うけど」  二人は秋のうららかな日差しの当たる廊下に座布団を敷いて茶盆を挟んで向かい合っている。まるで爺さん婆さんである。 「丑三つ時……夜中の二時頃だったよ」  まだ絵を描いていた可音は冷蔵庫から飲み物を出そうとしたのだ。 「したら手提げ袋が入ってるんだよ。前から何かあるとは思ってたけど。よく見たらお寺の袋で。中に木のお札が入ってるんだ」 「……あっ!」  思い出した。  礼司は前にあの冷蔵庫から台湾土産のパイナップルケーキを持ち帰った。その際、何故だか手に持っていた寺の手提げ袋を交換するように中に入れてしまったのだ。  可音は言う。 「中身を見てる時、背中が冷たくなって。またひーばーの霊が出たと思って。振り向いてお札をぶん回したら……」 「消えた?」  身を乗り出して問う礼司に対して、可音は首をかしげた。 「いなかった。消えたのか、はなからいなかったのかはわからない。でも寒気は消えたし」 「それでうちに来てくれた?」 「うん。ちょうど丑三つ時だし。これは松橋さんが持ってるべきだと思って。留守でも玄関ポストに入れるだけでも効果あると思って」  結果、鍵もかかっていないドアの中で一升瓶を抱いた礼司が芋虫になっているのを見つけてくれたわけである。 「ありがとう。可音さんは命の恩人だよ。本当に来てくれて助かった」  座布団に胡坐をかいたまま頭を下げる。可音は正座をしているが女の嗜みというより、そう躾けられたからだろう。端整な正座姿だが音丸には敵わないとつい思ってしまう。 「別に〝さん〟はいらない。こっちも松……いやマッツンて呼ぶよ?」  言われて礼司は可音を見た。黒縁メガネをかけた顔が妙にはにかんでいる。ひょっとして友人をあだ名で呼ぶのは初めてなのかも知れない。 「いいよ、可音。婚約者だもんな」  礼司もつい嬉しくてにやにやしてしまう。  つい遺品の〝0917〟についても打ち明けてしまう。  有田津久志は隠れ同性愛者で龍平がそれを「キモイ」と言い放ったために自殺したに違いないと。 「結局ツクツクを殺したのは俺なんだ……」  厳かに語る礼司に可音は緑茶を啜りながら首をかしげた。 「そうとは限らないだろ」 「だって、あんな風にキモイとか言われたら誰だって死にたくなる」 「有田さんてもっと強い人だと思う。画廊でちょっと話しただけだけど」  それには礼司も頷かざるを得なかった。おそらく有田はしなやかで強靭な精神をもつ男だったのだ。 「日記にも書いてあったんだろ。ゲイだけど独身の僧侶で生き抜くって」 「そうだけど、でも片思いの人にあんな風に言われたら……。それ以外にホームから飛び降りる理由は思いつかない」 「飛び降りたんじゃなく、うっかり落ちたとか」 「ええ?」  と礼司は菓子鉢の和風スイートポテトの包みを丁寧に開いた。 「だから。足がもつれて線路に落ちたんだよ。ゲイばれしてパニクって」 「安いメロドラマか?」  礼司のツッコミに可音が吹き出した。 「出来損ないのBLドラマとか?」  言いながら可音はスイートポテトの包みをむしり取って芋型の菓子を口に放り込んでいる。 「ちょっと待って‼ 食べちゃダメ」  そこにばたばたと台所から廊下を駆けて来たのは大家さんだった。  スイートポテトを口に入れそうになって礼司はそのまま口の外に出した。菓子の中央に歯形が付いている。 「そのお菓子、ラム酒が入っていたわ!」  と菓子の箱に貼ってあるアレルギー表記を示している。  首からネックレスのように下げているのは顔の赤縁メガネとは別の老眼鏡だった。菓子箱と同時に礼司が病院からもらってきたパンフレットを広げて持っている。精読していたらしい。  可音は既にもぐもぐ咀嚼しながら、 「一、二滴だろう? いくらアルコールアレルギーでもそれぐらい」 「それぐらいでもアレルギーの人は倒れるのよ! ここに書いてある」  おばさんはパンフレットをばんばん叩いて言い募るのだった。 「ふつうアルコール分は火を通せば飛ぶけど、アレルギーの人はごくわずかに残った成分でもショック症状が出る場合もあるって。お肉やお魚の下味につけた料理酒も同じで……」  礼司は歯形の付いた芋型の菓子をそっと包み紙に戻した。そして緑茶を飲んでから、 「もしかして以前ご馳走になった、ひやしんす商店街の鶏の丸焼きって……?」 「それよ‼」  おばさんは座敷に入って正座をすると、敷居をはさんで廊下にいる礼司に真剣なまなざしを向けた。 「あそこの鶏は下味のタレにも日本酒を入れてるし、焼きながら日本酒を霧吹きでかけてるって言ってたわ。私は香ばしいと思うんだけど、松橋さんはもしかして……?」 「…………」  問われて思わず黙り込んでしまう。 「確かにあの次の日は吐い……体調が悪かったけど、食べ過ぎかとばかり。実は二日酔いだった?」  答えるともなく呟く。  起きるなりトイレで嘔吐して、一日中気分が優れずベッドでごろごろしていたのだ。まさか料理のアルコール分のせいとは思わなかった。あの宴会で可音はわざわざペットボトルのお茶を出してくれたのに。  音丸のボロアパートで住人の陳さんに中華料理をご馳走になった翌日も同じだった。あの料理には紹興酒がふんだんに使われていたのかも知れない。 「アルコール分は火で飛ばないのか……」  呆れている礼司に、大家のおばさんは訂正する。 「飛ぶわよ。ただ、松橋さんみたいにデリケートな人は残ったビミョーな成分を感知して具合が悪くなるんだわ」 「……あれはアルコールアレルギーで不調になったのか。別に胃腸のせいじゃなかったんだ」  ぼんやり繰り返す礼司に、ここぞとばかりに可音は言うのだった。 「だろう? 食べ過ぎじゃなく二日酔い。マッツンは何でも勝手に思い込む」  思わず可音を見返して、 「何だそれ? 可音には関係ないだろう」 「有田さんのことだって、勝手に思い込んでるだけだよ」 「勝手にって……別に勝手じゃない」 「何でも自分のせいにしたがる」  少しばかり眉を吊り上げる礼司の味方をするように大家のおばさんは、 「そうよ。可音たら松橋さんに失礼じゃない。言葉に気をつけなさい」  と、礼司が包み直した和菓子や菓子鉢を回収して出て行った。  そして持ち戻った菓子鉢には掌サイズの落雁が入っていた。菊の花型である。確実にアルコールは入っていないだろうが、わざわざ食べたい菓子でもない。 「ひーばーのお供えだろうが」  ぼそりと言う可音に礼司はげらげら笑ってしまった。仏壇からお供え菓子を下げて来たらしい。  その翌日に礼司は常見家を辞して自分の部屋に戻ったのだった。

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