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第十二章 4 転宅
4 転宅
一週間ぶりに月光荘の階段を上り外廊下を203号室に向かう。
昼下がりの光で見る玄関ドアには傷ひとつない。鍵を開けながら礼司は何度も足元を見てしまう。確かここには、べこんと蹴ったような凹みがあったのだ。
入居当初からあった凹みを新たなドアに交換したのだ。なのにいつの間にか、また凹みが出来ていた。ところが今や真っ平である。
思わず屈んで表面を掌で撫でてみる。どこにも傷はない。むしろ礼司の手に巻いてある包帯が薄汚れただけだった。
ドアを開けるとそこもきれいになっていた。あの夜より前はもっと薄汚れていたはずの上り口の床だが清潔に拭き清められている。だばだばとあちこちに芋焼酎を撒き散らしては吐いたような記憶があるが、そんな痕跡はまるでなかった。
管理人、常見可音の手際はなかなか大したものだった。あのワイルドな部屋に暮らしているのが不思議なぐらいである。
常見家の広い玄関を出る時、可音は言ったものだった。
「いっそマッツンにここに住んでもらえば? ひーばーがいなくなって、おーばさん一人じゃ不用心だし。用心棒としてさ」
「その方が親御さんに心配かけないし私も安心なんだけど……。それにしても、松橋さんのお友だちは怪しい感じだったわよねえ」
「お友だちって……?」
ぎょっとしたのは、大家のおばさんも龍平の姿を見たのかと思ったのだが、確かめてみるとドア工事の日に見た音丸のことらしい。
「あの人、昔の住人……亡くなった中園さんのお友だちだったはずよ。中園さんが睡眠薬を飲み過ぎて起きて来ないって、家に合鍵を借りに来た人。何でその人が松橋さんのお友だちなのか不思議だったけど……」
「あ……いや」と礼司は言い淀んだが、大家さんは特に説明を求めているわけではないようだつた。
単に中園龍平と松浦礼司に共通の知り合いがいる偶然を不吉な事と捕えているようだった。その感覚はあながち間違ってはいないのだが。
その音丸が持参したアルコール類が狭い玄関の靴箱の上に並んでいる。未開封の焼酎や吟醸酒である。
それらの前には有田の父親にもらって来たお札が立っており、足元には部屋の合鍵が置かれていた。
ミニドラゴンのアクリルキーホルダーが付いている合鍵を見た途端に、礼司はぎゅっと胸を鷲掴みにされたようで視線をそらした。
半分泣きそうな気分で自分のベッドに大の字になる。見上げた机の上の壁に音丸の色紙はなかったし、木製シェルフはまるで引っ越した当初のように中身がなくスカスカになっている。
潤んだ目元を包帯を巻いた拳でぐいぐいこすると、
「引っ越すか」
礼司は自分に言い聞かせるように呟いて半身を起こした。この部屋を出て行く。どこでもいい。もうここではない場所で安らぎたい。
〈また引っ越す。手伝って欲しい〉
メッセージを送ったのはヒストリア・グルニエのグループLINEだった。
〈どこに行くんだマッツン?〉
〈いつ引っ越しだ?〉
〈後期の中間テストが終わってから?〉
すぐに届いた質問に、
〈これから部屋を探す。見つかったらテスト中でも引っ越す〉
と返した。
驚きや不満のスタンプがどっと届いた。
音丸ファンのグループLINEにメッセージがたまっているのも知るが開かずにスマホを閉じる。音丸の通知など見もしない。というか、音丸のアドレスは消去すべきだと思い、いやその前に引っ越しだと不動産広告を検索するのだった。
翌日には例によって学生課推薦の不動産屋に出かけて新たな物件を見つけると、一週間後には引っ越しと決めた。
「フツー賃貸契約では退去一か月前には不動産屋に解約予告をすべきだよ」
そう嗜めたのは姉である。親に賃貸契約書の保証人になってもらうために日帰りで仙台に戻った時だった。
「まあ、解約予告が数日前だからって訴える家主も少ないけどね」
などと弁護士にあるまじきことを言いながらラフテーを頬張る。この家ではまだ沖縄料理の流行は続いているようだった。
礼司が日帰りすると聞いて珍しく父や姉も早めに帰宅して夕食を家族全員でとったのだった。
礼司はラフテーに添えられた煮卵を恐々食べながら母に尋ねたものだった。
「家では料理酒とか使ってるの?」
「使うわけないでしょう。礼司もお父さんもアルコールがダメなんだもの」
母親は即答だった。
「ラフテーだって泡盛や料理酒も使わないで作ってるのよ。味付けがもう大変よ」
礼司は黙って大鉢のラフテーに箸を伸ばして口に運んだ。
「うん。生姜味が美味しいね」
言いながら確かに実家で肉料理を食べてもあまり腹を壊さなかったと思い出している。やはり敵は胃弱ではなくアルコールだったのか。
最終の新幹線で東京の月光荘に戻る。翌日には不動産屋で契約書を交わして賃貸契約を済ませる。
月光荘の大家さんは突然の引っ越しを訴えるどころか、
「嫌な思いをさせてごめんなさいねえ」
と謝って餞別のお菓子までくれるのだった。
新たに選んだ部屋は地下鉄に乗らなくて済む、大学の近所にある〝サンシャイン・アベニュー〟という名の全八戸のワンルームアパートだった。
何故アパートがアベニュー(大通り)なのか深く考えてはいけない。少なくともサンシャインの名のとおり陽の光がよく入る二階の角部屋だった。光に照らされたここならば妖 が潜む余地もないだろうというのが決め手だった(それが西日で夏場の暑さが地獄だと気づくのはもっと後のことである)。
築十年の中古物件ではあるが、そう古くも感じなかった。
例によってヒストリア・グルニエの部員三人ばかりにレンタルの軽トラを出してもらって引っ越しを終えた。
「その日のうちに御店の若い衆がやってきて、ばたばたっと転宅なさいましたよ」
落語〝転宅〟の台詞が思い浮かぶ。あっという間の引っ越しだった。
全員が同じ街に住む部員達だったから、運転手の部長がレンタカーを返しがてら皆を家に送り届けるようだった。
それでなくとも後期の中間テスト直前なのだ。お礼の呑み会などやっている場合ではない。玄関の靴箱に置いていた酒類は八本もあったのでみんなに配った。
そして礼司は部長に向かって、
「つまらない物だけど、これはみんなで……」
とUSBメモリを一本渡した。怪訝そうな顔をする部長に有田の形見だと告げて、
「皆さん大変お待たせしました」
厳かに言った途端に皆が口を揃えて、
「アダルト指南ツクツクのマル秘映像のお時間です!」
と言ったものだった。
「マッツン! こんなのテスト前にくれたら勉強が出来ないだろう⁉」
「あ、部長がいらないなら俺が……」「いや僕が先にもらう」と車の中で争いながら帰って行った。
遺品のUSBメモリからあのAV映像だけを移動させたのだ。どうせ礼司が見ても面白くも何ともない男女の交合なのだ。
後期の中間テストは事前にあまり勉強も出来なかったが、思いの外良い成績で終わった。新たなアパートを住みやすく整えるのはこれからだった。
そしてアパートから大学まで徒歩十五分の道を覚える必要もあった。テスト期間中は心配した部員達が迎えに来てくれたのだ。細い路地に面したアパートだから、
「マッツン! 学校行こう」
と窓の下から小学生よろしく呼ばわるのだ。
それで無事テストはクリアーしたが、終わった途端に一人で大学に行こうとして三十分ばかり迷った。どうも反対方向に歩いていたらしい。だからスマホのマップなど方向音痴には何の役にも立たないのだ! とむかっ腹を立てながら歩いていた。
何とはなしに頭の中に龍平の気配がなくなったと意識したら方向感覚まで失われたように思えるのだった。月光荘に越した当初の空しい迷子感覚が蘇る。
「どう? また迷ってない?」
更にむかっ腹をあおるような台詞は可音だった。
日曜日に訪問すると連絡があり、急ぎ部屋を整えて待っていたらバイクの音と共にやって来て、このご挨拶である。黒縁メガネはかけておらずコンタクトレンズのようである。手にはヘルメットと保冷バッグとをぶら下げていた。
少々むっとしながら「どうぞ」と部屋に招き入れる礼司である。
月光荘は中部屋で窓が一つだけだったが、今回は角部屋だから窓が二つもある。カーテンが一セットしかないので、道路側の窓には遮光カーテンだけを下げて隣のアパートに面した窓にはレースのカーテンだけ掛けた。
これまた買い揃えなければならない品である。光の入る路地側の窓の下にベッドを、横の窓の前には机やシェルフを据え付けた。
同じワンルームアパートだから間取りにそう変わりはない。けれど全般的にこちらの方が手狭なのだった。
やはり月光荘・日光荘はかなり広く造られていたらしい。
そしてこちらはバストイレも独立しておらずまるでビジネスホテルのバスルームだった。
「ふうん」と部屋を眺めながら入って来た可音は保冷バッグを台所の台に置いた。
「おーばさんの料理。引っ越し祝いだってさ」
「ありがとう」半ば儀礼的に言う礼司に、
「アルコールを使わない料理にチャレンジしてた。ちらし寿司も稲荷ずしも料理酒なしで作ったらしいよ」
「本当にありがとう」と言葉を重ねる。
「それと、郵便局にまだ移転届け出してないだろう? 月光荘に郵便が届いてた」
白い封筒を差し出すのだった。
「そういう届けもいるんだ?」
区役所に出かけて住民票は移したが、郵便局にも届けが必要とは思わなかった。
礼司は上京してから郵便など受けったことがない。せいぜいダイレクトメールか、ごく稀に母親がハガキを寄越すぐらいである。
和風の縦長封筒はおそらくまた母親かと思って乱暴に指先で封を破きながら裏返せば〝神谷到〟と達筆で書かれていた。
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