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第十三章 4 遅い訃報

4 遅い訃報  仕事帰りの他の客と同様に礼司も苦いコーヒーを一口飲んで人心地つく。大学の講義と予備校のバイトとでひどく疲れている。  仕事と関係のない人間と会うのは気分転換になる、などと思って来たのだが対面を見れば、百合絵も何がなし疲れた表情である。こちらはフルタイム正社員だと聞いている。 「松橋さんが最近落語を聞きにいらっしゃらないのは何故ですの?」 「勉強やバイトが忙しくて……特に予備校のバイトは講師代理を頼まれて正直大変なんです。今は授業のやり方とか習ってて。それこそ前座修行みたいです」  力一杯言い訳するのは、音丸とのみっともない別れの騒ぎを知られたくないからである。 「まあ。松橋さんは卒業後は予備校講師になられますの?」  問われて思わず頷いた。  今の礼司は司法方面に進むより、予備校に就職して講師になるのが最も現実的だと思い始めていた。まだ法曹家庭の家族には言えない進路ではあったが。 「落語がお嫌いになったのでなければよろしいんですけど……いろいろありましたものね」 「……はあ」  Lillyこと菅谷百合絵は果たして何をどこまで知っているのか?  「たっぱさんもリハビリを続けてらっしゃいますのよ。必ずまた高座に立つとおっしゃって」 「そうなんですか」 「私も近いうちに〝音丸通信〟は閉めるつもりなんですけど……」 「はい?」  問い返す礼司に百合絵は疑わし気な眼差しを向けた。 「……この落語会の主催を最後にするつもりです」  とバッグから分厚いクリアホルダーを取り出すと、礼司に向けてチラシを一枚テーブルに置いた。   A4サイズの白黒印刷だが決して安っぽいデザインではない。 〝柏家音丸追悼落語会〟  と黒い寄席文字で記されている。礼司は指先でそれを摘んでまじまじと眺めた。なかなか悪趣味な趣向である。 「年末の開催ですね。あれですか。不祝儀を装って年を越して、新年にめでたく復活落語祭。なんて御趣向ですか?」  笑顔で言えば、チラシ越しの百合絵の顔がにわかに強張った。  そして震える声で囁くように言っていた。 「やっぱり、ご存知なかったのね!?」 「何を?」  問い返した時点で礼司は充分に予想していた。  返って来る答えが、 「音丸さんは亡くなっています!」  であることを。  なのに礼司は平然と笑っている。 「十月二十八日にご自宅で自……ご自分で首を吊って……亡くなられました」 「自分で……」  十月二十八日とは中園龍平の命日である。  そして礼司は今更気がついて愕然とするのだが、(あやかし)の龍平に〝森伊蔵〟を流し込まれて救急病院に運び込まれたのが十月二十七日だった。  命日がその次の日なのだ。  あの朝、音丸は「また来る」と言って病院を後にした。その日の夜中には、あのボロアパートで首を吊ったらしい。  実際に発見されたのは翌日十月二十九日だった。中国人の陳さんが発見者だった。  音丸が仕事に現れないのを不審に思った立前座が何度もしつこく電話をかけたのだ。前日はきちんと仕事に出て来たのに。何しろ以前の休業騒ぎもあるから皆が心配していたのだ。  隣の部屋の陳さんも、音丸がいつまでたっても電話に出ないのを不審に思って部屋の扉を開けたのだ。  部屋に鍵がかかっていないのは別に発見を望んでではなく、あのアパートの住人の常態ではあった(用心深い住人以外は施錠は適当だった)。  そうして陳さんが見たのは箪笥のカンに黒いネクタイを結び付けて首を吊っている音丸の姿だった。  人間は身長より低い位置からでも首を吊れる。音丸は両脚を前に投げ出して尻が畳に付かない宙に浮いた格好で事切れていたという。  見ようによっては落語〝粗忽の釘〟で箪笥を背負って引っ越しをする亭主のような恰好だった。  そう吹聴したのは弦蔵師匠らしい。現場を見たわけでもないのに。  そして百合絵の説明を聞いて礼司はようやく理解した。  地下駐車場でタクシーから降りた弦蔵師匠が言った言葉がずっと謎だった。 「せっかく霊を祓ったのに……まあ、松橋さんも結果を教えてください。何なら今度こそ呑みましょう。ケンパイというか。じゃあ、急ぐので失礼!」  あの〝ケンパイ〟とは〝献杯〟だったのだ。  てっきり落語家の符丁か何かと思っていたが、〝献杯〟という言葉なら有田津久志の葬儀や四十九日で何度も聞いていた。  ちなみに龍平に憑りつかれていた礼司がコップに半分の水を飲んだ時に、 「水杯か⁉」  音丸に言われた言葉も後々調べてわかった。  今生の別れに際して盃の水を酌み交わす儀式である。音丸は龍平に死を示唆されたと感じたのかも知れない。  音丸はあの霊媒師に龍平の幽霊を祓ってもらっていた。だからこそ、最後の夜にあれ程きっぱりと龍平を退けることが出来たのだ。 「おまえはもう死んでいる」  古い少年漫画の台詞らしい。それを思い出してうっすら笑いながら皮肉めいて言ったのだろう。  訃報を聞いても礼司は涙のひとつもこぼさなかった。  涙腺はまるで乾き切っていた。  追悼落語会のチラシを眺めては百合絵が語る言葉を淡々と聞いていた。何なら店主に勧められるままにコーヒーのお代わりまでしていた。  百合絵も同じく何杯目かのコーヒーを飲みながら語るのだった。実は礼司に音丸の死を伝えるべきかどうか迷ったとのことだった。  礼司はとっくに音丸の訃報を耳にして落語から遠ざかったとも考えられる。 「かつて私は中園龍平さんが落語を聞きに来なくなった時、何もしませんでしたの。放っておきましたのよ。若い方の移り気だろうと勝手に思い込んでしまって……」  実は死んでいたと知った時の衝撃は音丸に優るとも劣らなかったという。 「もしも松橋さんが音丸さんが亡くなったとご存知なくて、後で知ったらどれほど悲しい思いをなさるか、私も身をもって存じてますから、それで……」  礼司が真実を知っているのかどうか確かめたくて呼び出したのだと言う。 「お気遣いありがとうございます」  堅苦しいまでに礼儀正しく頭を下げる礼司だった。  何なら既に音丸の葬儀に出ているような沈痛な面持ちだった。そのくせ心はまるで乾いた風が吹きすさぶ夜の砂漠のようだった。空に月すら出ていない。  坂の上にある珈琲店から駅に向かう道は二通りある。険しい男坂と緩やかな女坂である。  その日礼司が歩いたのは女坂だった。その坂下の脇道にはラブホテルがある。  何故だか礼司はその道の前で立ち止まってから、ふいに背後を振り向いた。特に誰かが駆け下りて来ることもなかった。  やることがあるのは有難いことである。  百合絵と別れて部屋に戻った礼司がやったことと言えば、今日予備校で習った授業の進め方を復習して、明日の授業の予習をすることだった。  大学の講義についてはもはやおざなりになっているがザックからノートを取り出した時に〝柏家音丸追悼落語会〟のチラシが出て来て、ずしんと心が沼の底に沈んだような気持になった。沼の底に何があるのかもはや知れない。  音丸の訃報が仁平師匠に伝わるとそこから福岡の実家に連絡が行き、飛んで来た家族で簡単な家族葬を済ませて遺骨と共に帰福したという。家族以外で葬儀に参列できたのは仁平師匠夫妻だけだった。  落語家協会ではその柏家仁平を喪主として寺院で〝柏家音丸を送る会〟を開いた。十一月初旬のことだった。  おそらく礼司と可音が霊媒師の家を訪れた頃に違いない。 「寄席でも追悼落語会をやるそうですけど。年末年始は忙しいから来年の春……覚えていればの話ですわね。何かと適当なのが落語界ですから」 「でも、弦蔵師匠が……」  と礼司は口を挟んだ。  あの時タクシーでヤクザ風味の弦蔵師匠を怖れるあまりよく見なかったが、音丸を賞賛する声が妙に真に迫っていたのは覚えている。  理由がわかればそれが哀悼の響きだったと理解できるのだが。  百合絵は〝弦蔵師匠〟と訊いた途端に吹き出した。 「そうですわね。あの師匠はお席亭を殴ってでも約束は実行させると思いますわ。私はそれまでには〝音丸通信〟をクローズするつもりです。もうとても音丸さんのことなど書けませんわ」  そう言ってそっとレースのハンカチを目に当てるのだった。見事なまでに古い邦画の女主人公のようなふるまいだった。  礼司自身は柏家音丸のいない落語界にはまるで興味がない。正直〝音丸通信〟の終了にもあまり心動かされない。  今後は中園龍平に荒らされた人生を矯正して自分らしい大学生活を送るのだろう。 〝自分らしい〟というのがどういうことかは知れないが。  大学に行きアルバイトに行き、大学に行きアルバイトに行き、時々ヒストリア・グルニエの部室に顔を出し。  何も感情の起伏がない日々が続き西向く侍十一月は余一会もなく過ぎ、やがて十二月になっていた。 「知ってる⁉ 柏家音丸さんが亡くなったの」  可音がにわかに電話を寄越したのは月が改まった頃だった。  寄席のチラシで来年一月に追悼興行があると知っての連絡だった。可音はあれ以来寄席通いをしているようだった。  誘われて久しぶりに日光荘101号室を訪れたのだった。

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