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第十四章 1 さまざまな追悼

第十四章 1 さまざまな追悼  相変わらず雑然とした部屋の大テーブルにはカセットコンロが据えられていた。そこでぐつぐついっているのは土鍋のおでんである。 「またおーばさんが鍋一杯に作って来てさ」  とのことで可音はビール、礼司はほうじ茶でおでんを食べるのだった。驚いたことに紙コップや紙皿ではなく、グラスや陶器の器が出されている。 「買ったの?」 「あっちの家のを持って来た。処分しきれないって」 「……処分?」  という礼司の問いに答える前に可音が言っていた。 「月光荘に新しい住人入ったよ」 「え、そ……また出たとか?」  自分が退去した後の203号室にはもう幽霊など出ないと思いつつ不安にならずにはいられない。可音はビールを呑み干して頷いた。 「問題ないらしい。よその持ち物だからよく知らんけど」 「よその持ち物?」 「マッツンが引っ越してすぐ、不動産会社に売り払った」 「え、何で?」 「相続税を払い切れないから」 「それで売り払った?」  礼司は以前より物が増えている室内を不穏な気分で見回した。食器類はあの屋敷にあった物だという。それ以外にも和箪笥に鏡台、エレクトーンなど脈絡のない道具が雑然と置かれている。 「おーばさん断捨離してるんだ。あの家も売ったから出てかなきゃならない」 「家って……あのお屋敷も⁉」  可音はプシッと新たな缶ビールのプルタブを引くと吞みながら説明した。  常見家の日本庭園や屋敷そして月光荘、日光荘とも可音の曾祖母の持ち物だったが、亡くなった後は台湾に住む両親が正式な相続人になった。そこで莫大な相続税が発生して払い切れずに売り払うことになった。いずれはあの土地にマンションが建つらしい。当世ありがちな事態である。  ちなみに大家のおばさんは離婚して実家に戻って以来、管理人として住んでいるだけだった。あの家に住めなくなれば出て行くしかない。 「いずれおーばさんも日光荘に住む。別の部屋だけどね。ここだけおーばさんが相続したからさ」 「じゃあ、月光荘もいずれはマンションに?」  尋ねる礼司は不思議に名残惜しい気持ちになっているのだった。 「あそこはあのまま。学生アパートは一定期間で住人が入れ変わって収益も出るから」 「へえ……」 「よかったじゃない。音丸さんとの思い出がある部屋だろう?」  可音にそう言われても礼司は熱々の大根を口に入れて「どうだかね?」と言うつもりで「ほーらかね?」などと声と息を同時に吐いているのだった。大根を塗り箸で崩しながら礼司はどうにも不思議な気分なのだった。  あの部屋が他人の住処になるのがそこはかとなく悲しい。まして借景の常見家の日本庭園も家屋もなくなってしまうとは。窓からの眺めが違ってしまう。  懐かしい思い出よりも困惑する思い出しかないのに……忘れられないのは確かである。  唐突にチビドラゴンのキーホルダーが付いたスペアキーが頭に浮かぶ。おそらく音丸が付けたキーホルダーだろう。あれは引っ越しの際にどこかに入れたはずだが、未だどこかの段ボール箱に入っているのかも知れない。  月光荘203号室。あそこは自分一人ではなく龍平と音丸の部屋でもあったのだ。  礼司が再び坂上焙煎珈琲店を訪れたのは小春日和の日曜日だった。 〝音丸通信〟グループLINEでファン有志でささやかな追悼の会を開くと情報が回って来たのだ。 〈松橋さんのお顔も長らく拝見しておりません。お元気でしょうか? 学生生活はお忙しいことと存じますが、万障お繰り合わせの上ぜひともご参加ください〉  などと、あの赤毛の婆様に誘われれば無碍には断れなかった。  万障繰り合わせて参加したわけである。 〝坂上珈琲落語会〟が音丸の休業を経て復活して、第二回目が開かれたのはつい先日のことである。そこに集った人々がまた同じ会場に顔を揃えていた。テーブルを中央に寄せて飲み物や軽いスナックが用意されている。  テーブルの中央に置かれた酒類の中で燦然と輝くのは芋焼酎〝森伊蔵〟である。上戸の客達は、おっ! と言わんばかりにそれに目を留めるのだった。  逆に礼司は素早く目を反らした。自分を殺しかけた酒である。  壁やカウンターにはプロの演芸写真家が撮影した音丸の写真パネルが何枚も飾られていた。高座写真、楽屋写真そして黒い普段着姿の何気ないショット等々。  ふと礼司が目を留めた写真を、青髪の婆様が嬉しそうに指差していた。 「ほら、この舞台袖から撮った写真! 一列目の客席に彼が写ってるわよ」 「ああ、この人……松橋さんがパーマだった時にそっくりなのよね。ええと……何て名前だったかしら?」  応じる赤髪の婆様も名前が出て来ない。  百合絵は穏やかに言うのだった。 「中園龍平さん。音丸さんの親友で……本当によくいらしてましたわ。落語会では率先して受付を手伝ってくださって。〝音丸通信〟の体裁が今のように整ったのも、あの方のお陰ですのよ」  まるで今も遠くで龍平が元気に暮らしているかのような言い方だった。  おそらく龍平の死に関して百合絵は音丸ファンに伏せていたのだろう。そこから音丸の休業の原因が知れてはいけないと配慮したのかも知れない。  と、そこまで考えてから礼司は、ひょっとして百合絵は二人の関係を知っていたのではないかと気がついた。殆ど音丸のマネージャーに近い仕事をしていたのだ。  それでなくとも聡い百合絵である。実は音丸と龍平が恋人同士と察していながら〝親友〟と称していたのではないか?   だが今はもう確かめるつもりもなかった。ただ黙って四人組のジジババが中園龍平について懐かしそうに話すのを聞いていた。 「写真家の先生に直接聞いたけど。この写真はお客席が写ってしまったから公表しなかったそうだよ。ここでしか見られない貴重なショットだぜ」  と禿げ頭の爺様が自慢げに言う。 「舞台からはこんな風に客席が見えるんですね」  応じたのは礼司である。  何故かこの写真から目が離せなかった。高座の音丸はいつもこんな景色を見ていたのだ。   客席には巻き毛の美青年、中園龍平その人が屈託なく笑っている。偶然画角に入ったのだろうチビドラゴンのそれは嬉しそうな表情だった。  礼司はいつまでもその写真を見つめていた。  献杯の後、車座になった客達が順番に音丸の思い出について語って行く。 「私は音丸さんの初高座〝道灌〟を聞いたんですよ。福岡から出て来たばかりの頃でまだ少し訛りが残っていて、まあ初々しい高座だったわよ。でもこの子は伸びると思ったわ」  と赤毛の婆様が言えば、青髪の婆様も負けじと、 「私は音丸さんの二つ目お披露目で〝金明竹〟を聞いて驚いたわ。あの言い立てを関西弁じゃなく博多弁でやったのよ。仁平一門といえば古典派なのに。叱られないかはらはらしたわよ」 「あれで仁平師匠は放任主義だから。前座にも自由に勉強会をさせてるらしい」 「音丸さんも昇進当初はいろいろ挑戦していたよなあ。でもすぐに古典に絞ったよ。自分の仁てものをわかってたんだ」  禿げと白髪の爺様方も負けてはいない。  追悼というよりは、まだどこかに生きている音丸の魅力を語り合う会のようになっていた。礼司もその伝で適当に済ませようと思ったが、 「僕はもともと落語は知らなくて。友達が音丸さんのことを好きで、それで浅草演芸ホールに連れて行かれて……」  話しているうちに、にわかに言葉に詰まってしまった。  あの頃はまだツクツクも生きていて中園龍平に憑りつかれていると気づいてくれた。そして音丸は礼司を(龍平としてだが)愛してくれた。なのに今はもう誰も残っていない。  その現実が嵐のようにどっと胸に押し寄せて、まるで龍平に頭を乗っ取られた時のように意識は天井の隅に吹っ飛んでいた。  気がついたら号泣している礼司を婆様二人が宥めているのだった。 〝滝のような涙〟という比喩はいくら何でも大袈裟と思う礼司の心とは裏腹に瞳からは、それこそ滝のように涙が溢れ出て止まらないのだった。 「らいじょうぶ」  とまるで大丈夫でない口調で言って、べそをかきながら店の外に出た。泣き過ぎて頭が痛い。  ドアを押す時、扉の上部に付いているカウベルが鳴らないと思ったらタオルで巻いてあるのだった。まるで音丸の落語会が開かれているかのように、音を抑えてあるのだった。  それを見たらやっと治まっていた涙がまた吹き出すのだった。  店の前でぐずぐずと子供のように泣きじゃくっている礼司の背中を撫でて宥めてくれたのは百合絵だった。やはり啜り泣きながら、 「本当に……こんなに早く亡くなるなんて……真打昇進から名人になって……落語界を席巻するのを楽しみにしていたのに、私はこの先何を楽しみに生きていけばいいの?」  レースのハンカチで目元を押さえて言うのだった。  この日、礼司は女坂は通らなかった。  解散した客達がぞろぞろ歩く男坂を共に帰ったのだった。西日差す石段を下りる礼司の両腕には赤髪と青髪の婆様が手を掛けていた。まるで紳士が淑女をエスコートしているようだったが、実はまだしゃくり上げている礼司を婆様方が慰めては歩いていたのだった。  こんな風に泣いたら、音丸と礼司がただならぬ関係だったとばれてしまう……思いながらも涙は留まるところを知らないのだった。 「泣きたい時は堪えないで泣きなさい。それが仏様への供養になるんだから」 「松橋さんはお若いから、人の死に慣れてないのね。私達なんかもう日常茶飯事よ」  婆様方は口々に慰めてくれる。 「私達だっていつ向こうに呼ばれるか知れやしない。その時にも泣いてやってね、松橋さん」  言われて思わず頷いたのは、失礼だったかも知れない。  そう思ったのはずっと後のことだが、別にジジババの死を待ち望んでいるわけではない。  月光荘203号室の玄関で龍平に決別の言葉を投げつけた音丸は、結果礼司が死にかける事態に陥ったことを知る。もう後がないと観念したのだろう。  音丸がこの世に生きている限り龍平は諦めない。また礼司を殺そうとするだろう。  どころか礼司が死んだ後も新たな人間に憑りついて死の淵まで追い詰めるに違いない。音丸が死なない限り。  となれば、防ぐ手立ては一つしかない。  音丸が龍平の元に逝くしかないのだ。  あの真っ白な病院の朝、妙に故郷の訛で話していた音丸は、既にその結論を出していたのかも知れない。もうきれいな江戸弁を使う必要もないのだと。  病院を出た音丸はそのまま仕事に直行した。午前中から開かれた埼玉の地域寄席に出演して、池袋の昼席にも出たという。  そうして夕方自室に戻った。死亡推定時刻は十月二十八日の二十三時頃だという。  それまで何をしたのだろう。掃除や身辺整理などしたのだろうか?   転居した礼司の元に遅れて届いた音丸の手紙。あれはきっとあの日書いたに違いない。スマホを使わなかったのは時間差を期したのだろう。  百合絵の元にもこれまでの尽力を感謝する葉書が届いたと言う。年末年始や会の後先に落語家からはまめに礼状が届いたというが(恋人には筆不精だったくせに)、この時は何とも時期外れで不思議に思ったそうである。  何通か書いた手紙を携えて音丸はボロアパートの外に出たに違いない。既に日は落ちていたことだろう。  共同玄関に放り出してあった擦り減った下駄を突っ掛けて、近所のポストまで遺書を投函しに行く音丸の姿が目に浮かぶ。その時も黒いシャツに黒いデニム姿だったろう。下駄の鼻緒も黒かったに違いない。  小さな貸家やアパートが並ぶ曲がりくねった隘路には街灯が点々と続き、まるで黄泉の国に誘っているように見えたに違いない。  ポストから部屋に戻った音丸は大好きな芋焼酎を少し吞んだらしい。  礼司が想像するに音丸はまるで通常の仕事の支度でもするかのように淡々と黒いネクタイを箪笥のカンに結び付けたに違いない。  ちびちびと焼酎を吞みながら、自分の首と身体が落下した時の角度など調整したのだろう。  そしてとうとう事に及んだ。

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