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第十四章 2 西へ

2 西へ  十二月の中旬、寄席なら中席と呼ぶ時期の土曜日。礼司は京都に向かった。  中園龍平の実家を訪ねたのである。住所は何故か龍平がアドレス帳に残していたのだ。(あやかし)の意志など知ったこっちゃないし、礼司は弔問に行く気などさらさらなかった。  なのに今になって頃合いだと思ったのだ。音丸の追悼会で散々に泣いて、乾き切っていた砂漠のような心が少し潤った気がしたのだ。  ならば龍平についても追悼すべきではないか? などと思ってしまったのだ。  いつもながらこの世で最も謎なのは自分自身の心である。  龍平の昔の落語仲間だと名乗って実家の両親にメールを送ったところが、母親から弔問を喜んで受け入れるとのメールが届いた。  そこで例によって龍平が見立てたブラックスーツにスプリングコートと言う名の秋物を羽織って東海道新幹線に乗ったのだった。ポケットに入れて来たのは地味な色合いのネクタイだった。  実は黒いネクタイを持って来るつもりだった。新たな部屋に喪のネクタイを探して見つからず、月光荘に忘れて来たと慌てたものである。だが考えてみれば、そうではなかった。  あの黒いネクタイが最終的に誰にどう使われたか。思い出せば胸が抉られ、しばし身動きも出来ない程だった。  あれは箪笥のカンに結び付けられて音丸の首に巻きついた。そして命を奪ったのである。  ググれば遅い弔問に黒ネクタイは必要ないとのことだった。それで違うネクタイを持参したのである。  京都駅でレンタカーを借りて、カーナビを頼りに走った。正確に言えば走ったというより渋滞にはまったと言うべきだが。  京都の道路はどこもかしこも渋滞していた。お陰でじっくり道を見定めることが出来たので、あまり迷うことなく礼司は京都大学の近くにあるマンションに辿り着いたのだった。  マンション五階にある中園家には夫婦二人が暮らしていた。大学教員の父親は殆ど連日出勤しているとのことで、この日出迎えてくれたのは母親だけだった。 「お待ちしておりました、松橋さん。どうぞお入りください」  玄関でインターホンを鳴らすなり、耳に入ったのは聞き覚えのある声だった。ロックを解除された玄関を通ってエレベーターに乗ったが、どう思い返してもあの女性の声はかつて聞いたことがあるはずもない。 「まあまあまあ。お寒い中ようこそいらしてくださいました。さあさあさあ、入ってくださいな」  ドアを開けた中年の母親にまっすぐ見つめられて、途端に礼司は涙ぐみそうになった。目を擦りながら玄関を上がる。  中園龍平の母親は、息子にそっくりだった。いや逆だろう。中園龍平が母親にそっくりだったのだ。  艶のある天然パーマ(少し白い物が混じっている)白い肌に赤い唇、整った顔立ちはやがて龍平が年老いたらこんな風情になるだろうと思われた。龍平が年老いることは決してないのだが。  インターホンで聞き覚えがあると思ったのは声ではなく、抑揚や言葉の癖だった。おそらく海外で育った龍平は家庭内だけで日本語を覚えそのまま口にしたのだろう。あの特徴的な「ねえねえねえ」と三度重ねる口癖は母親の真似だったのだ。  仏壇はリビングルームの向かいにある座敷に据えられていた。襖を開け放てばそこからリビングダイニングで家族が寛ぐ姿が見える位置だった。 「ここは私達があの子に遅れて帰国してから住んだ場所です。年末年始や連休に帰省する時だけ泊まって行きました。だから何だか未だにあの子が東京で一人暮らしをしている気がしてならないんです」  しみじみと語る母親だった。さすがに龍平を幽霊として知ったとは言えずに、 「僕は柏家音丸という落語家のファンなんです。龍平さんとはファン仲間として……寄席でよくお見かけして話したり。そう親しいわけでもなかったので、最近まで亡くなったとは知らなくて……今になってすみません」  と虚実ないまぜに語るのだった。 「いいえ、とんでもない。よくいらしてくださいました」  母親も特に疑う様子もなかった。 「あの子が亡くなってしばらくしてから、その落語家さんが女性の方とお二人でお焼香に来てくださいました。やはりずっと亡くなったとご存知なかったそうです」 「はい。実は僕もその人たちに伺って知ったんです」 「私も主人もまさかあの子が帰国して落語のような日本的な趣味を持ったとは知らなくて。ご連絡が行き届かなくて本当に申し訳ございませんでした」  にわかに頭を下げられて、礼司は慌てて「いえ、そんな、とんでもない」とばたばたと手を振った。洗練さのかけらもない仕草である。中園龍平ならあり得ないだろう。  お焼香の作法など詳しく知らないはずなのに、母親に促されるままに礼司は仏壇の前の座布団に座ると両手を合わせた。  そしてどうしたことか(りん)を鳴らして澄んだ音をさせると、 「魔訶般若波羅蜜多心経、観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄、舎利子……」  にわかに口から出て来るのは般若心経なのだった。  まるで脳天から注ぎ込まれた言葉が口から流れ出るように低い声ですらすらと唱えている。 ああ、頭の中のツクツクが助けてくれている……何となくそう思う。  最後にもう一度音高く鈴を叩いて、深く深く(こうべ)を垂れた。  何とはなしに自分はあの(あやかし)にもっと早くこうしてやればよかったと思っているのだった。 「家にある写真はアメリカ時代の古い物ばかりで。新しい写真がろくになかったのを、葬儀屋さんがあの子のスマホから探し出してくれて……いい写真でしょう?」  仏壇に飾ってある写真を母親は自慢するのだった。  なるほどピクニックか何かの写真なのだろうか。おそらく自撮りだろうが、新緑に満ちた風景の中、ラフな格好で満面の笑みを見せている中園龍平である。  風が吹いているのか、巻き毛が少し乱れている。それでも美貌に差し障ることもなく、むしろ風までも嬉しさを体現しているかのようである。 「山にドライブに行ったようです。いろんな風景写真が残ってました」  と写真立てを手に取った母親が「あら?」とそれを目に近づけてまじまじと見た。 「こんなところに人が写っていたのね。まあまあまあ。ずっと木の陰か何かだと思っていたわ」  渡された写真を子細に見れば、なるほど龍平の背後は森のようである。そして森の木陰と思える部分に人がいる。  黒い服を着た痩身の男だった。木の幹に添うように立って龍平の方を見つめている。  柏家音丸その人の写真だった。柔らかな笑顔で目がまるで糸のように細められているのも見える。足元がはっきり見えないのは草藪のせいなのか? 「ああ……」  呟いた途端にばたばたと写真立てのガラスに水滴が落ちた。礼司は泣いていた。  あれ程までに音丸との同性愛関係が顕れるのを怖れていた龍平である。二人で一枚の写真に写るなどあり得なかったはずである。この写真も元は単なる一人の自撮りだったのだろう。  けれどやっと音丸も一枚の写真に納まれる場所に逝ったのだ。  龍平と音丸はついに向こうで一緒になれた。  このために龍平はどれだけ長い時間月光荘で待っていたことだろう。 「僕もうやなんだ。一人でいるのはもう飽きた。ずっと音丸さんと一緒にいたいんだよ。こっちに来てくれるよね?」  龍平の哀切な声が蘇る。  ずっと待っていたのだ。  同性愛者の身体を、我が身のように操れる肉体を待ちわびていたのだ。  そしてついに手に入れて、音丸を取り戻し黄泉の国まで導いてしまったのだ。  礼司にしてみればずっと否定していた特性を無意味ではないと知らされたのだ。存在意義は充分にあると。  仏壇の前に正座して写真を抱いた礼司はいつまでも背中を丸めて嗚咽を洩らしていた。  関西は日が落ちるのが関東より早い気がする。気温も一気に下がるのか中園家を辞してマンションの外に出た礼司は大きなくしゃみを一つしているのだった。  いよいよ渋滞すさまじい京都駅に向かう道は日も傾いて真っ赤な夕焼け空だった。そしてレンタカーを店に返す頃にはあたりはすっかり暗くなっていた。  あのマンションで母親に勧められて洗面所で涙で濡れた顔を洗ったのだが、腫れた瞼は運転席の視界を狭める程だった。  母親は礼司の前でただの一度も「龍平」と名を呼ぶことはなかった。「あの子」としか言わなかったのだ。それはまだ一人息子がいなくなった日常を受け入れていない証左に思えた。深く膿んだ傷はあまにり深く大切な名前を口の端に乗せることなど痛くてまだ出来ないのだろう。  簡単に涙を流して泣ける礼司は所詮赤の他人なのである。たとえ過去にこの身に憑依されていたとしても。  マンションから大して迷わずに駅に戻れたのは奇跡だと思うそばから、守護霊ツクツクのお陰とも感じた。 「もういいよ。俺は一人でちゃんとやれるよ」  心の中で思ってみる。  京都駅から新幹線で新大阪に下り、在来線で宝塚へ向かう。  今回の京都行きを決めたのはちょうど姉からムラ遠征につきあうように言われたせいもある。  単に中園家を訪うにはためらいがあった。正直自分が中園龍平の実家に行って、どんな心理状態に陥るか知れたものではない。うっかりすればせっかく祓った(あやかし)が、親恋しさにまた現れないとも限らない(そんなことあるのか?)。  あれこれ取り越し苦労するよりも、横暴な姉に命じられて仕方なく関西に来たのだと思えば諦めもつくのだった。  そして案ずるより産むが易しとは正にこのことだった。龍平が向こうで音丸と共に幸せになったと確信できた。もう二度と自分はあの妖に憑りつかれることはあるまい。  ほっとして宝塚の定宿に向かう礼司だった。  定宿は昭和あたりに建てられた安価が取り柄のビジネスホテルである。いやヅカヲタ御用達なので清潔さと女性の防犯にも配慮しているようだった。  夕食用にコンビニおにぎりを購入して夜道を歩いて行くと、目の前を男女二人が歩いている。  女性は夜目にも鮮やかなパウダーピンクのロングコートを着ている。男性はその前や横をうろうろしながら話しかけている。どう見てもカップルではない。女性は迷惑そうに男性を無視して足早に歩いている。 「何やってんの? みんなは?」  礼司が女性に声をかけたのは、ホテルの玄関を素通りした後である。  パウダーピンクの腕を取ってみればやはり姉である。こんなぶりっ子な衣装の年増女は姉ぐらいしかいない。 「礼司、遅いよ。みんな夕飯済ませて先にホテルに入ったよ」 「いいよ。飯なら買って来たから」  とコンビニ袋を見せた。  二人はまとわりついていた男が目に入っていないかのように話しながらホテルの玄関に戻るのだった。玄関ドアを入る際に礼司は振り返って、ここぞとばかりに男を睨みつけた。舌打ちをして男は元来た道を戻って行った。  つまるところ礼司が姉に宝塚を奢ってもらう返礼はこの役回りを受け入れることなのだ。

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