9 / 59

第9話 既読スルーの代償

 久米が電源を消した瞬間も、スマホはまだ震え続けていた。伊藤からの着信だった。  暗転した画面を見下ろしながら、足元がおぼつかないまま自分の部屋へ戻る。まるで最後の支えを失ったかのように、そのままベッドに倒れ込んだ。  終わった終わった終わった、絶対誤解される。  あのメッセージはまるで「俺、昨日帰ってないです」って白状してるようなものだ。それもよりによって、山本と。  枕を手に取り、顔に押し当てる。  これが他の誰かならまだしも、なんで伊藤なんだ。何度か脚をバタつかせたあと、ついに完全に力尽きて動かなくなった。  ふと、脳裏にばあちゃんの口癖がよぎる。 「船頭多くして船、山に登る」……じゃない。「案ずるより産むが易し」でもない……まあいいか。  とにかく。深呼吸一つ。  今は、逃げる。  そう決めると、目を閉じ、眠りの深海に自分を投げ込んだ。    久米がスマホの電源を再び入れたのは、日曜の夕方だった。  土曜日は丸一日眠り倒し、夜は目が冴えて映画を何本も観て夜更かし。そして日曜の朝、まるで光に弱いゾンビみたいにまた眠りに落ち、目が覚めた時にはすでに午後五時。  ベッドの上に座り、スマホを手に取ることなくただ呆然と過ごす。  今回の逃亡劇は、伊藤に対してはある意味成功だったが……山本に対しては、完全に失敗だった。  主任、俺の返信が来ないこと……どう思ってるんだろう。  恐る恐るスマホに手を伸ばす。  白く光る起動画面が、久米の顔を照らした。ごくりと喉を鳴らす。  二日ぶりに電源を入れたスマホは、容赦なく震えた。LINEの未読は百件超え。大半が職場グループと伊藤からのものだった。  ほとんど息を止めたまま、久米は指先で画面をスクロールする。  混沌の中から、心のどこかで求めている名前を探すように。  山本のトークルームは静かだった。  あの一言、「既読スルー?」が、最下段にぽつんと残されている。  ……失望というほどじゃない。でも、少しだけ、胸が詰まる。  画面をスリープに戻し、部屋に広がる夕闇に目をやる。暗闇に飲み込まれるのは、こんなにも簡単なんだ。    久米は差していた傘を畳むと、水滴がぽたぽたと床に落ちた。半開きのまぶたの下には、どっしりとしたクマ。  このクソ天気め。  毒づきながら、傘を会社の傘立てに突っ込む。そのままエレベーター前まで歩き、ボタンを押す。  待つ間、盛大にあくびを一つ、二つ。  昨夜も眠れなかった。今日はどうにか日中を乗り切って、夜は早めに寝よう――そんなことを考えていた矢先。  背後で自動ドアが開く音がした。振り返り、小さく「おはようございます」と声をかける。  その瞬間、久米は気づく。  そこに立っていたのは、山本だった。湿った傘をたたみながら、視線を下げたままの山本。  ちょうどそのとき、「ピン」とエレベーターが開いた。慌てて乗り込み、開ボタンを押したまま振り返る。  「主任、おはようございます。」  山本はほんの少しだけ頷いたが、視線は久米を素通りしていた。 「俺、階段で行く。」  そう淡々と言い、脇のドアを指差すと、そのまま何の躊躇いもなく階段室へと消えていった。  ……え?  反応する間もなく、久米は手を降ろし、閉まりゆくドアを呆然と見つめる。 「俺……避けられてない……?」  

ともだちにシェアしよう!