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第9話 既読スルーの代償
久米が電源を消した瞬間も、スマホはまだ震え続けていた。伊藤からの着信だった。
暗転した画面を見下ろしながら、足元がおぼつかないまま自分の部屋へ戻る。まるで最後の支えを失ったかのように、そのままベッドに倒れ込んだ。
終わった終わった終わった、絶対誤解される。
あのメッセージはまるで「俺、昨日帰ってないです」って白状してるようなものだ。それもよりによって、山本と。
枕を手に取り、顔に押し当てる。
これが他の誰かならまだしも、なんで伊藤なんだ。何度か脚をバタつかせたあと、ついに完全に力尽きて動かなくなった。
ふと、脳裏にばあちゃんの口癖がよぎる。
「船頭多くして船、山に登る」……じゃない。「案ずるより産むが易し」でもない……まあいいか。
とにかく。深呼吸一つ。
今は、逃げる。
そう決めると、目を閉じ、眠りの深海に自分を投げ込んだ。
久米がスマホの電源を再び入れたのは、日曜の夕方だった。
土曜日は丸一日眠り倒し、夜は目が冴えて映画を何本も観て夜更かし。そして日曜の朝、まるで光に弱いゾンビみたいにまた眠りに落ち、目が覚めた時にはすでに午後五時。
ベッドの上に座り、スマホを手に取ることなくただ呆然と過ごす。
今回の逃亡劇は、伊藤に対してはある意味成功だったが……山本に対しては、完全に失敗だった。
主任、俺の返信が来ないこと……どう思ってるんだろう。
恐る恐るスマホに手を伸ばす。
白く光る起動画面が、久米の顔を照らした。ごくりと喉を鳴らす。
二日ぶりに電源を入れたスマホは、容赦なく震えた。LINEの未読は百件超え。大半が職場グループと伊藤からのものだった。
ほとんど息を止めたまま、久米は指先で画面をスクロールする。
混沌の中から、心のどこかで求めている名前を探すように。
山本のトークルームは静かだった。
あの一言、「既読スルー?」が、最下段にぽつんと残されている。
……失望というほどじゃない。でも、少しだけ、胸が詰まる。
画面をスリープに戻し、部屋に広がる夕闇に目をやる。暗闇に飲み込まれるのは、こんなにも簡単なんだ。
久米は差していた傘を畳むと、水滴がぽたぽたと床に落ちた。半開きのまぶたの下には、どっしりとしたクマ。
このクソ天気め。
毒づきながら、傘を会社の傘立てに突っ込む。そのままエレベーター前まで歩き、ボタンを押す。
待つ間、盛大にあくびを一つ、二つ。
昨夜も眠れなかった。今日はどうにか日中を乗り切って、夜は早めに寝よう――そんなことを考えていた矢先。
背後で自動ドアが開く音がした。振り返り、小さく「おはようございます」と声をかける。
その瞬間、久米は気づく。
そこに立っていたのは、山本だった。湿った傘をたたみながら、視線を下げたままの山本。
ちょうどそのとき、「ピン」とエレベーターが開いた。慌てて乗り込み、開ボタンを押したまま振り返る。
「主任、おはようございます。」
山本はほんの少しだけ頷いたが、視線は久米を素通りしていた。
「俺、階段で行く。」
そう淡々と言い、脇のドアを指差すと、そのまま何の躊躇いもなく階段室へと消えていった。
……え?
反応する間もなく、久米は手を降ろし、閉まりゆくドアを呆然と見つめる。
「俺……避けられてない……?」
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