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第10話 既読の向こうに

 山本は階段の手すりに片手をつきながら、息を切らしていた。  ……これ、マジで9階まで登るの?死ぬんだけど。  何であんな見栄張ったんだ。俺は久米じゃないってのに。自分でも呆れる。  久米が異動して以来、あんな冷たい挨拶されたのは初めてだった。  階段の踊り場で、山本は深く溜息をついた。  ――そもそも、最初はこんなつもりじゃなかった。  あの日、帰宅してからというもの、山本は無意識に久米の帰宅時間を計っていた。  今ごろ家に着いた頃か、とか。今ごろシャワー終わったかな、とか。  「家、着いた?」と、そんな単純な一文を送ったときも、深く考えたわけじゃなかった。  すぐに既読がついて、「さすが俺、タイミング完璧」なんて内心ほくそ笑んでた。  ただ、そこから返信が来なかった。  ……まあ、来ないなら来ないで。別に強制じゃないし。特別な関係でもないし。  山本はデスクに座り、ノートパソコンの電源を入れようとして、ふと昨夜のことが脳裏をかすめた。  キス寸前の、ぎゅっと目をつぶって顔を赤くしていた久米の顔。  慌てて咳払いをし、キッチンへ向かってコーヒーを淹れる。カップを手に戻り、スマホ画面を見つめる。  少し悩んで、数文字だけ打つ。 「既読スルーか?」  すぐにまた既読。  頬杖をつき、空虚な目で画面を睨む。  ……これで、さすがに返事来るだろ。  10分待っても、返ってこなかった。  打った文面を見返す。  ……ストレートすぎたか?責めてるみたいに見えた?また久米をビビらせた?  頭痛を覚え、こめかみを押さえる。深く息を吐いて、ノートパソコンの電源を入れる。  来週の月曜、部長が来社予定。その資料、まだ仕上がってない。  ……仕事に集中しろう。  スマホを伏せ、キーボードを叩き始める。カチカチと打鍵音が、秒針のリズムと重なっていく。    最後の一文にピリオドを打つころには、すでに午後一時半。伸びをしながら画面隅の時計を眺め、ふと気づく。  ……腹減った。  スマホをひっくり返す。LINE通知は増えていたが、久米からは一通も来ていない。  自分のメッセージが、大海に投げ捨てた砂みたいに沈んでいく感覚。  ……バカみたいだ。  山本は前髪をかきあげ、レンジでチンしてる冷食を見つめながら、自嘲気味にそう思った。  上司と飲んで、ラブホ行って、まあ何もなかったけど……普通、距離置きたくなるよな。  それに、あんな酔っ払いムーブまでしたし。嫌われて、避けられて、当然だろ。  レンジの低い唸り声が、山本の頭の中まで真っ白にしていく。    ようやくフロアまでたどり着き、扉を開けたその瞬間――  エレベーターからちょうど出てきた伊藤と鉢合わせた。  早朝からこの有様の山本を見て、伊藤は思わず吹き出しそうになっていた。 「おや、主任もCO₂削減中ですか?」 「……うるさい。」  疲労困憊の体を引きずりながら、自席へと向かう。  その背後から伊藤の声が追いかけてきた。 「そうそう。部長、もう会社の下まで来てるってさ。やばくね?」 「……はあああ!?」  山本が振り返る。  ――約束の時間より、二時間も早いじゃないか。

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