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第11話 0%の空気

 オフィス全体に、重く張り詰めた空気が流れていた。誰もが無言で自分のデスクを整えている。  普段ならラフな伊藤でさえ、胸元に「責任者」と書かれた名札をきちんとつけていた。  久米は、さっきエレベーター前で山本にあからさまに無視されたショックから、まだ立ち直れていなかった。  けれど、目の前の異様な緊張感に流されるまま、机の上を片付け始める。  小金は部屋を行ったり来たりしながら、花に水をやったり、久米の隣にある観葉植物の葉を拭いたりと忙しそうに動き回っていた。  目の下にクマを抱えた久米は、力が入らない手首をもてあましながら、小金に尋ねた。 「今日って……何かあるんですか?」 「本社の部長が来るの」  小金は手を止めず、きっぱりと言った。  ……ああ、ずっと関西にいるっていう営業部長か。名前は……牛島慎一、だった気がする。  自分には関係ないだろうし、とりあえず周りに合わせて大人しくしていればいい。    そう思いながら、久米はあくびを飲み込んだ。   そのとき――  山本の主任室のブラインドが、「バサッ」と音を立てて勢いよく開け放たれた。  彼が一束の資料を手に、慌ただしく歩いてくる。  久米は反射的に立ち上がった。てっきり自分に用かと思ったのに、山本は一瞥もせず、その資料を小金に渡して言った。 「十部、十分以内に会議室に配って」  ……あ、違った。  久米は伸ばしかけた手をそっと下ろした。  ……やっぱり、あれは気のせいじゃなかった。主任は明らかに、自分を避けている。  ちらりと資料の表紙に目をやると、先週金曜日の伊吹会社との契約レポートだった。  ……これ、自分も関係あるやつじゃん。  久米は小声で、「手伝います」と言い、小金の隣に並んでコピー機を回し始める。  その横では、山本が伊藤に近づき、小声で何か耳打ちしている。伊藤も、珍しく真剣な顔でそれに応じていた。  その様子が妙に息の合ったコンビに見えて、久米は唇の内側を噛んだ。  じわりと滲む痛みが、気持ちをかき乱す。 「主任、部長がエレベーターに入りました!」  一人の社員が駆け込んでくる。  山本は伊藤の肩を軽く叩き、伊藤はネクタイを整えながら頷くと、二人でオフィスを出ていった。  しばしの静寂。  小金がホチキスを久米に差し出し、小声で言った。 「早くして」 「は、はい……」  久米はおろおろしながら、冷たくてやけに重く感じるホチキスに指をかけた。  会議室でお茶を並べ終えたとき、ドアがそっと開いた。久米と小金は隅で身を潜めるように立つ。  山本が先に入ってきて、微かに頭を下げた。 「牛島部長、こちらです。」  続いて入ってきたのは、背が高く、骨格のしっかりした男性だった。短く整えられた髪、鋭い目元、自然と周囲を圧倒する存在感。  その視線が一瞬だけ久米に向けられると、思わず背筋を正してしまい、目線が泳ぐ。  山本は牛島を中央の席に案内し、小金はそっと「では失礼します」と囁いて会議室を出ていく。  久米の眠気は、完全に吹き飛んでいた。  これが……上層部の会議……  ただの会議のはずなのに、ドラマのワンシーンみたいにカッコよく見える。    ……それとも、今日は何か特別な話があるのか?  久米がそんなことを考えていると、山本が軽く咳払いをした。はっとして前を見ると、見知らぬ偉い人たちが一斉にこちらを見ている。 「す、すみません、すぐ出ます!」  慌てて出ようとしたそのとき―― 「久米君、お前も座って聞いてていいよ。この案件、お前も関わってるから」  伊藤が軽く手を上げ、そう言った。  山本は「余計なことを……」という顔で伊藤を睨んだが、伊藤は気にも留めない。 「こちら、今年異動してきた久米です。今回の案件、顧客対応から提案まで、彼も深く関わってまして。」  牛島は静かに頷き、手元の資料を開き始める。  伊藤が久米のそばに折りたたみ椅子を出し、ポンと叩いて座れと示す。  ……こんなチャンス、二度とない。

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