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第15話 好きになる、たった一瞬

 朝方の大雨のせいで、倉庫の弱いエアコンでは湿気を追い払えず、蒸し暑さが息苦しいほどだった。  久米はスーツの上着を脱ぎ、近くのダンボール箱に投げ置いた。  ふと振り返ると、その上着はきちんと畳まれて脇に置かれていて、山本が床にあぐらをかきながら、ガラスコップを手に取り熱心に検品している姿が見えた。  湿気が彼の周囲にまとわりつき、頬にいくつかの髪の毛が張り付いている。  久米でさえ暑さに参っているのに、暑がりの山本ならなおさらだ。  もし今手が空いていたなら、近くにある厚紙の板で彼に風を送っていたかもしれない。  久米の手が止まったことに気づいて、山本は手にしていたコップをざらついた紙で包み、そっと箱に戻しながら言った。 「……何見てんの。手、止まってるよ」 「あっ、すません……」  久米は慌てて振り返り、箱の中からコップを取り出し、慎重に外側の粗紙を剥がし始めた。  ……主任、俺のこと、少しでもは見てくれるのか?    久米は、コップに映る自分の顔を見つめながら考えた。  伊藤の「あいつ今お前しない見てない」っての言葉が、まるで呪いみたいに、頭から離れない。 ……もし主任は少しでも自分に気持ちがあるのなら、なんで週末が明けた途端、あんなに冷たくするんだろう。  朝の出来事を思い返しても、特に何かあったわけじゃない。  ただ、金曜のあの夜があまりにも特別で、あまりにも曖昧すぎて、自分が勝手に勘違いしてるだけなのかもしれない。  でも、優しくされたからって、それがずっと続くなんて思う方が間違ってるんだろう。  コップの底を軽く持ち上げて、丸みを帯びた縁をぼんやりとなぞる。  ふと、こんなことが頭をよぎる。  主任は……伊藤さんと一緒にいるときも、あんなふうに優しかったんだろうか。  背後から、かすかなため息が聞こえた。  久米は視線の端で、山本が立ち上がって目の前の箱を動かそうとしているのを見て、慌ててコップを置き、駆け寄ってその箱を引き受けた。 「こういうの、僕がやりますから」 「いい」  山本はぐいっと箱を自分側に引き寄せたが、久米も手を離さず、「本当に、僕でいいんで」と言った。 「いいって言ってんだろう」  山本の声が少しだけ強くなった。  湿気だらけの倉庫に、その音がやけに鋭く響く。久米はまるで海水を一気に飲み込んだみたいに胸が苦しくなり、不意に手を離した。  山本はうつむいたまま、箱を壁際に運び、そっと置いた。その背中を見つめながら、久米は立ち尽くした。  上からの冷風が二人の間を通り過ぎていく。  山本は、自分が少し感情的になってしまったことを自覚しつつも、背中を向けたまま低く言った。 「……あの夜のこと、本当にごめん」  少し間を置いて、口元を苦く歪めながら続けた。 「もし迷惑だったなら、忘れてくれていいから」 「……忘れ……?」    久米は一歩踏み出して、山本との距離を縮めようとする。  しかし山本は後退り、別の箱に向かって歩き出した。白熱灯の下、その背中はどこか寂しげに見えた。  「ごめん」の三文字が、軒先に残った雫のようにぽたりと落ち、静かに、しかし冷たく胸に刺さる。  ……なんだよ、それ。忘れるなんて……できるわけないじゃん。 「……主任って、そういうの、やったあとすぐ無かったことにするタイプなんですか?」  久米は駆け寄り、山本の手首をがしっと掴んで振り向かせた。  山本は眉をひそめ、久米の手をはたき落として言った。 「もう謝っただろう。それに、今そういう話する場合じゃない」 「今そういう話する場合じゃない……? そんなの、わかってますよ!」  久米は山本の前に立ちはだかり、はっきりとした声で言った。 「でも、あの夜、俺、ちゃんと言いましたから! 迷惑じゃないって! それに……あんな主任、ほんと、可愛かったですから!!」  言い切った瞬間、久米は固まった。  「可愛い」の一言が、倉庫の中で何度も反響している気がした。  山本の表情が目に見えて変わる。さっきまでの苛立ちが、驚きに、そして最後には顔全体が赤に染まる。  あまりの空気の重さに、久米の膝が震えた。  ……お、俺、今、何言った……?  山本は視線を逸らし、側の窓から白く柔らかな光が差し込む。外はどうやら晴れたらしい。  彼は唇をきゅっと噛み、ぽつりと呟いた。 「……じゃあ、なんで……なんで、LINE返してくれなかったの」 「……それは……その……長くなるんですけど……」  久米はうつむきかけ、慌てて頭を上げた。 「でも、本当に、返事しなかったのは俺の本意じゃなくて! 時間が経つうちに……返すタイミングを逃しちゃって……!」  山本はまつ毛を伏せ、しばらく沈黙した後、かすれるような小さな声で尋ねた。 「……なら、信じてもいい?」 「もちろんです!!」  久米は山本の腕を掴みたい衝動を必死で抑えつつ、全力で答えた。  山本は自分のシャツの胸元に目を落とした。  次の瞬間、ふっと小さく笑い声を漏らした。   あまりに久しぶりの笑顔で、頬の筋肉が痛むほどで、つい涙まで零れそうになった。  白い光が山本の横顔を照らす。久米は、その光景に目を奪われた。  ――自分は、いつも先に体が動いてしまう。でも、まさか、こんな時までも。  気づけば、久米の唇は、山本の口元にそっと触れていた。  山本の瞳孔が大きく開いて、そこに映っているのは、自分自身だけだった。  その瞬間―― 倉庫のドアが開き、のんびりとした声が飛び込んできた。 「おーい、飲み物買ってきたぞ〜」  伊藤だった。  二人は弾かれるように距離を取った。  伊藤が顔を上げ、倉庫内の様子を見る。久米が床にへたり込み、山本が窓辺に立ち尽くしている。  伊藤は口笛を吹き、にやにやしながらドアからそっと後ずさりした。 「……お邪魔したな。続きはどうぞ」 「ま、待ってください!!」  久米は慌てて立ち上がり、伊藤の腕を掴んだ。  誤解される前に何か言おうとしたその時、倉庫の外で車のドアが開く音がした。  三人の作業着姿の男性が車から降りてきた。  久米は伊藤の腕を離し、戸惑いながらもどこか嬉しそうに尋ねた。 「……あの人たちって……?」  伊藤は手に持っていたビニール袋から炭酸飲料を一本取り出し、久米に渡した。 「ほんとにデートだと思ってたのかよ、バカ」 「どうも、シーブイ工場の者です。上から指示を受けて、貴社の製品検査をお手伝いに来ました。本日担当の山上と申します」  がっしりした体格の男性が、久米に向かって頭を下げた。 「……伊藤さん……」  久米は目に涙を浮かべ、改めてこの先輩の頼もしさに胸を打たれた。  山本も倉庫から出てきて、山上に名刺を渡した。  三人の作業員が倉庫に入っていく後ろ姿を見送りながら、山本は伊藤に向かって、相変わらず不機嫌そうに言った。 「……やるじゃん」 「主任にそう言ってもらえるなんて光栄です」  伊藤は持っていた水を山本に渡しながら、二人に向かって言った。 「今夜は、徹夜確定だな」 「ええっ!? また徹夜!?」  久米の悲鳴に、近くの田んぼで休んでいた小さなスズメたちが驚いて飛び立った。  その羽ばたく瞬間――  久米は、一瞬だけ錯覚を見る。目の前の二人の口元が、どこか楽しそうに、微かに笑っていた気がした。  ──その頃、明光プロダクツ株式会社の応接室では、数名の幹部が静かに資料をめくっていた。 「……山本君に任せて、本当に大丈夫なのか? 相手は、そう簡単には折れないぞ」  テーブルの端で腕を組んでいた男が、ふと口を開く。  向かいに座る牛島は、視線を窓の外に向けたまま、微かに笑みを浮かべて答えた。 「──あれが、私の一番優秀な駒です。ご心配なく」  夕陽が差し込む室内に、その言葉だけが、長く静かに残った。 💡番外編ブログはこちら!伊藤&山本の昔話 ⇒ https://fujossy.jp/notes/37185?utm_source=twitter&utm_medium=social&utm_campaign=user_share_tweet たまにこうしてw 妄想いちゃいちゃ番外とかも書けたらいいなって思ってますw 気が向いたらまた覗いてくださいね〜!

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