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第17話 キスして、寝落ちして
欠伸を噛み殺しながら、久米は凝り固まった肩を揉む。
精神的にも肉体的にも、今日一日はまさに「疲労困憊」という言葉がぴったりだった。
夜の闇に沈む車体の中で、白い光がゆらりと揺れている。近づいてみれば、それは山本の膝上に置かれたノートパソコンの光だった。
後部ドアを開け、久米は山本の隣の空席にぐったりと座り込む。
山本は画面に目を落としたまま、キーボードを叩きながら小さく呟く。
「お疲れさま」
……この主任には、ほんとうに感心する。
朝の会議であれだけ詰められ、午後は体力仕事、この時間になってもまだ目を開けて残業している。
正真正銘のスーパー社畜への進化形態だ。
つい視線が山本の唇に滑り、胸の奥が熱くなる。慌てて顔を背け、倉庫の方を見る。
「……主任も、お疲れさまです。」
目蓋が重く、ついには閉じたまま、ぼんやりと呟く。
「主任……休まなくていいんですか?」
「部長に進捗を聞かれるから、報告書急がないと。」
山本の指は休むことなくキーボードを打ち続ける。
その打鍵音を聞きながら、久米の意識はどんどん遠のいていった。
夢とも現実ともつかない意識のなかで、ぽつりと呟く。
「……今日の伊藤さん、ほんとに……かっこよかった……会議中の主任も……最高に……」
まぶたの裏で景色が揺れる。
「……僕、何の役にも立てなかったな……」
その瞬間、隣のキーボードの音がぴたりと止まった。
ひんやりとした指先が、頬に触れる。
もう、避ける力なんて残っていない。ただ眠りたい。ただ、少しでも長く、この瞬間のままでいたい。
山本はじっと久米の寝顔を見つめ、わずかに唇を歪める。
「……こいつ、ほんとに……」
息を吐くように呟きながら、ぼそりと続けた。
「まあ、今日だけは……頑張ったし。少しくらい、褒めてやるか……」
身体がそっと内側に引き寄せられる。夢と現実のあわいで、唇に柔らかな感触が触れる。
湿った舌先が、ひんやりとした息と共に、ゆっくりと自分の唇を割って、深く侵入してくる。
全身に、じんわりと熱が広がった。
これが夢なら、どうか醒めないで――
無力に持ち上がった腕は、山本の襟足にぽとりと落ちる。シャツの生地の下、指先に触れるのは、温かく滑らかな肌だった。
どれほどの時間が経ったのか。
山本は、だらんと肩に乗ってきた久米の腕をそっと外し、目の前で口を半開きにして眠るその顔を見つめる。
くすっと笑いながら、まるで甘やかすような声で吐き捨てる。
「……キスしながら寝落ちとか、役に立つわけないだろう。」
前席にかけていた自分の上着を、そっと久米の体にかけてやると、再びノートパソコンに視線を戻す。
柔らかな光が、彼の瞳に広がった。
右下の時刻表示が、19時59分から、20時ちょうどへと切り替わる。
騒がしい人声に、久米はふと目を覚ました。
隣の席が空いていることに気づき、一瞬、全身が強張る。
ほんの少し前まで、隣にぬくもりがあったような気がしてーーそれが夢だったのか、思い出せない。
外はまだ真夜中。軽く首を振って、ドアに手をかけた。
車を降りると、ちょうど伊藤が段ボール箱をシーブイ工場マークのついたトラックに積み込んでいるところだった。
伊藤は手についた埃をはたきながら、声をかける。
「お、起きたか」
「……何してるんですか?」
眠そうな声で問いかけながら、久米は顔をこする。
「さっき吉田さんから電話があってな。木曜の午後、向こうが面会したいってさ」
伊藤は言いながら、久米の表情を見て補足する。
「だから、さっき工場に連絡して、俺たちが『良品』って判断したロットを、もう一回機械で検査してもらうことにした」
「……いつもそんなに頼れる人でしたっけ、伊藤さん……」
思わず親指を立てたくなる久米。
「じゃ、これ運んで戻るわ」
運転席の工員が窓を開けて声をかけてくる。
「おお、よろしくお願いします」
伊藤は手を振り、車の後ろ姿が夜の田んぼ道に消えていくのを見送った。
夜風が肌にひんやりと心地よい。
倉庫に戻ると、久米は疑問をぶつける。
「……でも、なんで急に向こうが会いたいなんて言い出したんですか?」
山本は手を止め、答える。
「不良が出たのに気づくのが遅かった。……でも、先方が払った金はもう戻ってこない。だから今、焦ってる。」
「そもそも、あれは先方が急いでいたからだ。予算の都合か、他の事情か……契約より納品を優先させたのは、向こうの判断だよ。」
久米は目を瞬かせ、山本の横顔を見つめる。
「じゃあ……あのときの“先行生産”って……」
「ああ。あれは“市の都合”で始まったことだ。伊吹が口頭で確認を取って、それに基づいて俺たちは作った。
――形式的には全部、筋は通ってる」
山本は目の前の、まだ未開封の段ボールの山を指差す。
「……まだ開封されてないロットも残ってるからな」
ーーただ、筋が通ってるからって、誰も責任を取りたがらないのが現実だけどな。」
納品は済んでるけど、検品は全部終わってないってことか……
「つまり……裏をかこうとしてる?」
久米は拳を手のひらに叩きつけ、はっとする。
「お前、市内のニュース、見てるか?」
伊藤はスマホを取り出しながら聞いた。
「……すみません、見てないです……」
久米はうつむき、小さく答える。
「社会人として、仕事に関係なくても時事ニュースくらいチェックしろ。」山本が厳しい声で言い放つ。
「はい、はい」
伊藤が笑いながら助け舟を出し、スマホの画面を久米の目の前に突き出す。
ようやく山本の説教から解放された久米は、ちょっと身を引きながらその画面を読む。
『日南市、来月からシングル家庭への5万円支援を決定』
読みながら、意味は分かるのに、何かが繋がらない感覚に襲われる。文面を何度も反芻した末、思わず口にした。
「これ……僕たちと何の関係が……?」
山本がそっと隣に立ち、久米の手元を一瞥してから、静かに言葉を紡ぐ。
「国の決定による予算措置だ。……急な支出があれば、どこかで金が足りなくなる」
「……その分、別の予算が削られたってことですか?」
「新しい補助が始まると、こういう案件が降ってくる」
さっきまで笑っていた伊藤も、もう何も言わずに段ボールのラベルを剥がしている。
その一言に、久米はぱちぱちと瞬きを繰り返し、伊藤、山本と順に見比べた。
「ウチの納品先……役所だったんですか!?」
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