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第19話 あと一歩のところで

   久米は自宅のドアを開けながら、小さくぼやいた。 「各自帰宅って話じゃなかったのかよ……」 「何を言ってるの?ちょっと寝るだけだから、場所なんてどこでも同じ」  山本は靴を脱ぎ、久米を追い越して部屋に入っていった。  帰り道での伊藤のふざけた提案を思い出す。 「主任んち遠いし、送るの面倒だから、久米んちに一緒に運ぼう。お前んち近いし」  山本は室内をざっと見回し、ふとゴミ箱に積まれたティッシュの山に視線を落とすと、眉間に皺を寄せた。 「ちちちち違うんです!!」  久米は弾かれたように山本の前に立ちはだかる。説明すればするほど言い訳っぽくなる気がしたが、どうしても誤解だけは解きたかった。 「週末の夜に感動系の映画を何本も見て、泣きながら使ったやつで!」  山本はダイニングテーブルの前でリュックを床に下ろし、慌てふためく久米を無視して尋ねた。 「お風呂はどこ?」 「そ、その角のところ……」  久米は震える指でお風呂の方向を指しつつ、寝室へ行ってクローゼットを漁り始めた。  しばらくして、洗面所でシャツのボタンを外していた山本の前に、久米はおずおずと現れ、両手で服の束を差し出した。 「……よければ、乾燥が終わるまで、これを……」 「……まさか、裸でいろって言ってるんじゃないだろうね?」  山本が服を受け取りつつ吐き捨てたその一言で、久米の顔は一瞬で真っ赤に染まった。  山本は呆れたように固まっている久米に一瞥をくれ、そのまま彼の肩を押して外に追い出し、ドアを閉めた。  中から聞こえる小さな水音に、久米は文字通り逃げ出した。  この展開、さすがに……  頬を両手で叩きながら、落ち着けと自分に言い聞かせる。  ふと寝室が散らかっていることを思い出し、慌てて部屋に戻って片付けを始めた。  大学時代からずっと一人暮らしで使ってきたこのシングルベッド。  ……ダブルに変えた方がいいかもしれない、とか。いや、セミダブルでも……  セミダブルって、恋人同士の距離が縮まるって言うし…… 「って、何考えてんだ俺はあああああ!!」  久米はベッドサイドに膝をつき、顔をシーツに埋めた。  このベッドに、あと少ししたら山本が寝るのかと思うだけで、心臓が制御不能なほど暴れ出す。  絶対、更に寝不足でおかしくなるって。  山本は濡れた髪をタオルで拭きながら、久米の部屋に入ってきた。  そして、ベッドに腰掛けて困惑している久米の姿を一目で捉え、溜息をつく。  タオルを丁寧に畳んで机の上に置くと、前髪をかきあげて、久米の隣に腰を下ろした。  いつもの自分のパーカーなのに、山本が着ていると、どうしてこんなに……色っぽいんだろう。  久米の視線は、ゆるく落ちた肩口をこっそりかすめ、唾を飲み込もうとしてもうまくいかない。 「何考えてる?」  山本の眉間にはいつもの厳しさはなく、朝日が差し込む窓辺の光の中で、どこか柔らかく見えた。 「な、何も!何も考えてません!」  久米は顔をそむける。  山本は疲れた首を軽く伸ばし、手を後ろについて少し体を反らせる。 「バレバレだな」  久米は一瞬ぽかんとし、それからゆっくりと山本に視線を戻した。長年使ってきた自分のボディソープの香りが、鼻先でふわりと立ち上る。  山本は小さく鼻で笑い、視線をわざと逸らすように、久米の肩のあたりを見つめたまま続けた。 「さっさと風呂入ってこい。少しでも休んで。午後にはまた……」  その先の言葉は、久米の唇によって、喉奥に押し戻された。  気がつけば山本は、あっけなくベッドの端に押し倒されていて、久米のキスを受け入れている。  挑発したのは自分。  ならば、この結果も――自業自得、か。  エアコンの風が、カーテンの端をそっと揺らす。  久米の頭の中には、爆発しそうな鼓動の音しか響いていない。  山本の喉元に唇を這わせ、指先は慎重にパーカーの裾に触れる。  理性が「まずは許可を取れ」と叫んでいる。  けれどこの状況で、どのタイミングでそれを言えばいいのか、わからない。  山本の、かすかに漏れた吐息。  それだけで、久米の胸の内は痺れるような甘さで満たされた。  山本は、確かに、自分を感じてくれている――  久米は体を起こし、潤んだ色を帯びた山本の瞳を覗き込む。そこに映る欲と、微かな痛ましさ。  再びキスを落とそうとした、その瞬間。  リビングから、スマホの着信音が鳴り響いた。  二人は数秒間見つめ合い、久米は慌てて山本の上から飛び起き、リビングへ駆けていった。  ……まったく、この人は……  山本はベッドに体を起こし、人差し指で目元を押さえた。  すぐに久米がスマホを持って戻ってきて、画面を見せる。 「牛島部長、です」  山本は無言でスマホを受け取り、久米は「風呂入ってきます!」と一目散に寝室へ消えていった。  だが、ドアを閉める直前に、こっそり振り返って一瞥。  山本は深く息を吸い、再び目を開けたときには、もういつもの自分に戻っていた。 ※どうでもいい番外(ただ妄想のつぶやき) ①久米、攻めだったのか……!?  吸い殻の匂いが染みついた喫煙室の隅で、伊藤はにやけ顔を止める気配もなく、久米の肩を小突き続けていた。 「なあ、今朝帰ってから、結局どうなった?晴、ちゃんと寝たか?」  久米は顔を真っ赤にして、缶コーヒーのタブを無意味にいじり続けている。 「……寝ましたよ。僕のベッドで」 「マジで!?マジで!?え、何その意味深な言い方……いやいやいや、落ち着け俺……でもそれ、もしかして、もしかしなくても――」  伊藤が言いかけて言葉を飲み込むと、久米は目を逸らしたまま、ぽつりと答えた。 「……キスしました」 「えっ、晴が?」 「いや、僕が」 「……」  沈黙。  伊藤の手からタバコが落ち、床でカランと音を立てて転がった。 「……………………は???」 「いやだから……僕から、キスしたって」 「……久米、お前、攻めだったの?」  まるで「富士山が火星に移動した」くらいの顔で固まった伊藤は、喫煙室の壁に手をついて震え始める。 「えっ、なに?あのヘタレで、すぐ泣いて、晴の一言でパニックになるお前が?あの晴に?押し倒したってこと?」 「ち、違っ……!押し倒してない、ただ……その……ちょっと、雰囲気があって……」 「雰囲気で晴押し倒せるやつが、ヘタレなわけねえだろぉぉぉぉ!!」  伊藤は両手で顔を覆い、「やばいやばいやばい」と連呼している。 「このままじゃ……受けだと思って書き始めたファンアート、全部設定変えなきゃいけない……!」 「え?なに勝手に書いてますか?」 「いやまあ、趣味……だし……」  伊藤は目を逸らし、慌てて咳払いを一つ。 「っつか晴は!?怒ってなかったの!?久米のこと、殴ったりしなかったの!?」 「……してません。ていうか……受け入れてくれました」 「うそだろ……山本主任、包容力の塊かよ……ていうか、すげぇな……久米、マジで一皮むけたな」  そう呟いた伊藤は、突然肩を掴みながら満面の笑みを浮かべて言う。 「お前さ、もうこれで“主任に嫌われてるかも”とか“怖くて目合わせられない”とか言えないからな?キスした時点で覚悟決めろ!」 「ひぃぃぃ……!」  久米はその場で崩れ落ち、伊藤の笑い声だけが喫煙室に響き渡った。

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