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第20話 ヤキモチはバレるもの
久米は風呂上がりの濡れた髪を軽くタオルで拭きながら、そっと一本指で寝室のドアを押し開けた。
中から物音がしないのを確かめてから、隙間からするりと部屋に滑り込む。
山本はすでに疲れに負け、ベッドでぐっすり眠っているようだった。
深く浅く、規則正しい寝息。
落胆していないと言ったら、嘘になるだろう。久米はそっとベッドの脇にしゃがみ込んだ。
外から差し込む淡い光に照らされ、山本の長い睫毛が頬にかすかな影を落としている。
主任、普段からもうちょい愛想よかったら、きっともっとモテるんだろうな……
そんなことを、久米は黙って思う。
けれど、そのぶんますます自分の出番がなくなるんだろうな、とも思う。
あくびをかみ殺しながらスマホを見ると、LINEの通知がひとつだけ、ぽんっと届いてた。
「……え?」
久米は首をかしげながらトーク画面を開く。
どうやら自分が風呂に入ってるあいだに、山本が送ってきたものらしい。
振り返ると、本人はまだぐっすり寝たまま。意味がわからず数秒迷った末、メッセージをタップした。
『ほんとバカ。おやすみ』
瞬間、久米はスマホを胸にぎゅっと抱きしめ、ベッドの縁に体を伏せた。顔に浮かんだ嬉しさを抑えきれない。
そのとき、ふと気づく。
――山本は壁に背を向けて寝ていて、隣にはぽっかりと空間が残されている。
……たぶん、大丈夫だよな。
久米はベッドのシーツの上をそろりと指でなぞりながら、
――どうせ、ちょっと仮眠するだけだし。
と、自分に言い訳してから、息を殺すように背筋を伸ばして隣にもぐり込んだ。
別に眠くなかったはずなのに、横になると途端に睡魔が襲ってきた。
耳元に聞こえるのは山本の寝息と、天井のエアコンが吐き出す微かな風の音。
――ああ、これがきっと「安心感」ってやつなんだろうな。
そんなことをぼんやり考えながら、久米はゆっくりとまぶたを閉じた。
山本はほんの少しだけ目を開け、
「……バカ」
と心の中で呟いて、また眠りに落ちた。
インターホンが何度も押される音に、久米は寝返りを打つ勢いでベッドから転げ落ちた。
床に頭をぶつけ、痛そうに頭を押さえながら唸っている。
山本も、眠たげな顔で上体を起こす。
鎖骨までずり落ちたパーカーの襟元を引き寄せ、頭を押さえる久米を一瞥して、のそりと立ち上がる。
「……俺が見てくるよ」
「っ、あ、いえ!大丈夫です!僕が行きますから!」
慌てて久米は山本のズボンの裾を掴んだせいで、山本は危うくバランスを崩しそうになる。
山本は机の上に置いたスマホを手に取り、着信履歴もなく、表示された時間がまだ正午ちょうどだ。
「……まだ早いし、お前はもうちょい寝てて」
とだけ言って、久米の手を引き剥がす。
後頭部を掻きながら、大きなあくびをして、ゆっくり部屋を出ていく。
その姿を久米は呆然と見送った。
――主任、寝起きだと普通の人間と同じことするんだな……
けれど、この家の主は自分のはずだ。
玄関の鍵を開ける音がして、久米は慌てて追いかけた。
寝室を出たところで、伊藤の声が玄関に響く。
「よっ、なにそれ。彼氏のパーカー?」
本当にこの人は、人をからかうときは容赦がない。
「……黙れ」
山本は低い声で吐き捨てた。
「えー、寝起きも相変わらず機嫌悪いなあ」
伊藤が言った瞬間、リビングで立ち尽くす久米の姿が目に入る。
山本は何も言わず、まっすぐ洗面所へ向かい、乾燥機の中身を確認し始めた。
伊藤は持ってきたビニール袋をダイニングテーブルに置く。
「どうせ昼飯も食わずに会社来ると思ってさー。
ありがたく感謝しろよ、優しくて気のきく伊藤さんに」
「……主任って、そんなに……寝起き悪いんですか?」
久米はテーブルにつき、ビニール袋の中には手を出さないまま聞いた。
「ん?」
伊藤は笑いながら、お弁当をひとつ久米の前に置く。
「伊藤さん、僕、聞こえてましたよ」
久米はじっと弁当を見つめたまま、逃げ道を与えない口調で言う。
伊藤は椅子を引いて座り、久米の顔を見てふっと笑う。
「なに、これ、ヤキモチ?」
久米は顔を上げて、しっかりと頷いた。
「……参ったなぁ」
伊藤は肩をすくめながら言い、身を乗り出し、久米の耳元にそっと囁く。
「あいつの他のこと、もっと知りたいなら……いつでも聞いてきなよ?」
「……真吾」
背後から鋭い声が飛ぶ。
振り返れば、山本が乾燥を終えたスーツを手に、氷のような目で立っていた。
伊藤は肩をすくめて立ち上がり、苦笑しつつ久米の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「冗談、冗談。んじゃ、二人ともごゆっくり~。午後は会社でな!」
伊藤は風のように現れ、風のように去っていく。
その場には、顔を真っ赤にしたままの久米と、乾燥機から出したばかりのスーツを手に、今にも人を殺しそうな顔の山本が残された。
しばしの沈黙のあと、山本が口を開く。
「……先に着替えてくる。お前は、先に食べといて」
ぼんやりしている久米に向け、
「聞きたいことがあるなら、あいつにじゃなく、直接俺に聞け」
とだけ付け足して、洗面所に引っ込んでいった。
「は、はい……」
久米は反射的に返事をしながら弁当の蓋を開けた。
――でも、ど、どんな顔してそんなの聞けばいいんだよ主任!!
心の中で全力で叫びつつ、閉じた洗面所のドアをじっと見つめる。
そして冷静になったとき、ふと頭をよぎった。
――主任は、本当に……伊藤さんのこと、まったく気にしてないんだろうか?
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