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第22話 もう一匹の猫

 伊藤はフロアまで届く大きな窓の前に立ち、午後三時の喧騒に包まれる街並みを黙って見下ろしながら、煙草をくゆらせていた。  背後で浴室のドアが開く音がして、濡れた髪のまま、だらしなくバスローブを羽織った清水が近づいてくる。  ベッドの端に腰を下ろし、伊藤の背中を見つめながらふっと笑った。 「この時間に呼び出されて、煙草吸ってる姿を見せられるだけってわけ?」  伊藤は肩越しに振り返り、煙を吐き出してから答えた。 「ご存じないかもしれませんけど、日本全国、もうすぐ禁煙地獄ですよ。愛煙家にはますます肩身が狭い時代なんです」 「それは私には関係ないわ。吸わないし」  清水は水滴のついた髪先を指で払う。  伊藤は煙草を揉み消し、傍らの椅子を清水の正面に引き寄せて腰掛けた。  その視線は清水の耳元、ピアスのない小さな穴にとまった。 「最近、忙しいんですか?」 「私は暇よ。でも真吾は違うでしょ?前に会ってから一度も連絡してこないし」  清水は身を乗り出し、伊藤に顔を近づける。わずかに開いた瞳は挑発的な色を帯びていた。 「てっきり、捨てられたのかと思ったよ」 「清水さんが暇でも、俺は地獄のように忙しいんですよ」  伊藤の指先が清水のバスローブの合わせに触れ、布地のラインに沿って上下にたどる。 「大人同士なのに、仕事を言い訳にするつもり?」  清水はその指を捕まえ、動きを封じた。 「勘弁してくださいよ。そんな度胸ないですから」  伊藤は反対の手で清水をぐっと引き寄せ、濡れた髪を撫でながら低く呟く。 「こんな時間に呼び出して、本当に申し訳ないです」  清水が顔を上げると、伊藤の口元にかすかな笑みが浮かんでいた。  逆光の中、彼の表情は影に沈み、低く言った。 「気づいたんですよ、人って本当に疲れてるとき、理由を聞かない相手に会いたくなるんだなって」 「……ほんと、口が達者ね」    清水は伊藤の腰に腕を回し、ひんやりとした指先で彼のうなじの髪を撫でる。そしてそのまま身を屈め、深く唇を重ねた。  ベッドに押し倒され、伊藤はうっすらと目を開けたまま、清水が胸の上で満足そうに息を整えるのを感じていた。  彼は清水のなめらかな肩にそっと手を伸ばし、肌を指先でなぞりながら、心の中で呟く。  ――この人は、頭の先から足の先まで、本当にどうしようもなく綺麗だ。 「ねえ、」  胸元から聞こえるのは、気怠げな清水の声。 「発情期の野良猫って、あちこちに媚び売って歩くでしょう?もしある日、急に一匹だけのそばにいたくなったら……もう一匹の猫は、どうするのかしら」  伊藤は手を止め、清水の顎をすくい上げる。その精巧な瞳孔は、まるで猫のように深く、湿った空気に濡れていた。  伊藤が黙ったままのあいだ、ベッドサイドのスマートフォンが不穏な振動を立てた。  画面を見て、伊藤はため息まじりに電話を取る。そして清水に向かって、どこか珍しく複雑な表情で言った。 「それは……もう一匹の猫が、自分のヒナをそばに置いとくことを許すかどうか次第ですね」  伊藤は唇に指を当てて清水に「シーッ」という仕草を見せ、ベッドから体を起こして電話に出た。  電話の向こうから、かすかに震える声が聞こえる。山本だった。 『……おまえ、すぐ戻ってこい。』  一言でわかる。この男、また持病がぶり返したな。  喉の奥で絡むような呼吸音が、間を置かずに耳に届く。  どこかで鳴っている換気扇の音が、会話の隙間に割り込むように混ざってきて、息苦しそうな沈黙が続く。  微かな水音もした。洗面所だろうか。  伊藤は「お代官様、俺、めっちゃ忙しいんですけど」とふざけた口調で返しながらも、すでに床に脱ぎ捨てた衣服の中から、慌ただしく下着を探している。 『……ごちゃごちゃ言うな。』  山本の吐息には、微かな震えと、焦りの熱が混じっていた。 「はいはい、今すぐ戻りますよ」  伊藤は通話を切ると、シャツを着ながらベッドに目をやる。清水は枕に肘をつき、面白そうにこちらを見ていた。 「まったく……山本主任、時間を選ばないんだから。」  賢い猫は、わずかな会話だけで電話の主が誰かを察する。  伊藤は一瞬だけ虚を突かれたように動きを止め、パンツのゴムを腰に引き上げながら答えた。 「ま、何年の付き合いかって話ですよ」 「羨ましい」  清水は上体を起こし、伸びた腕の肌が光を受けてより白く滑らかに見える。  彼は伊藤のシャツの襟を引き寄せ、上から順に一つずつ、ボタンを丁寧に留めていく。  それでも頭の中では、さっきの電話の声──あのヒナの、必死な鳴き声がまだ響いていた。  伊藤はその指先が胸元でやわらかく動くのを感じながら、苦笑した。 「今日の俺、どうかしてますよね……酢壺でも背負ってきたのかってレベルで、全員にクンクンされて舐めまわされてる感じで」  清水はふと視線を落とし、指先でボタンの縁をなぞる。 「……ただのヒナなら、きっともう一匹の猫だって、拒まないよ」  窓の外から、遠ざかる救急車のサイレンが聞こえてくる。  伊藤は伏せた清水の頭を見つめ、長く濃い睫毛が微かに震えるのを見た。  抑えきれない衝動が、胸の奥底から這い上がってくる。  彼は清水の手を握り、そのまま身をかがめ、強く唇を奪った。  もし呼び出されていなければ、もう一度この人をベッドに押し倒していただろう。  ――次は、もっと貪欲に。この野良猫の全部を手に入れてやる。  伊藤は唇を離し、清水に囁く。 「明後日の夜、いつもの場所で」  返事を待たず、伊藤はドアを開けて出ていく。  廊下には金属音だけが響き、後には静寂が残った。  彼は知らない。  自分が今、清水に「待ってろ」と言ったのか、それとも「ごめん」と言ったのか。

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