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第23話 子犬に噛まれる前に
久米は、エイス製作所という名の小さな工場から出てきたばかりだった。
車に乗り込むと、急いでノートパソコンを開く。指がキーボードの上を忙しなく走る。
焦るあまり、エンジンをかけることすら頭から抜けていた。
鼻先から落ちた汗がキーボードにぽたりと落ちた頃になって、ようやく自分がどれだけ汗をかいているかに気づく。
エンジンキーを押し、車内に冷房が回り始めると、ポケットからハンカチを取り出して顔中の汗を拭った。
ノートパソコンに映る予算報告書は、あとほんの数行で完成するところだった。
久米はズボンのポケットに入っていた、すっかり熱くなったスマホを取り出す。この嬉しい報告は、やはり主任に一番に伝えたい。
――「よう、片付いたか?」
……え?
久米は耳元から慌ててスマホを離し、画面を確認する。表示されているのは、間違いなく「山本主任」の名前だ。
それなのに、受話口から聞こえてくるのは、伊藤の声。
「また呆けてんのか?」
冷房が小さな車内に勢いよく流れ込む。久米は再びスマホを耳に当て、「……主任は?」と戸惑いながら問いかけた。
「いるよ」伊藤の返事は軽い。
「……じゃあ、なんで伊藤さんが出てるんですか?」
久米の眉が微かに引きつる。胸の奥に、嫌な予感がふつふつと湧き上がってくる。
「それは、帰ってきてからのお楽しみだな」
いつもよりも歯切れが悪い伊藤の言い方に、不安はさらに膨らむ。もっと問い詰めたい気持ちを押し殺しながらも、次の言葉が先に届く。
「それと、戻る前に予算報告書、俺のメールに送ってくれ」
「……はい、了解しました」
短く答えた途端、電話は一方的に切られた。
久米はしばらくスマホの画面に表示された「通話終了」の文字を見つめたまま、冷房の風に目がじんわりと潤んでくるのを感じていた。
伊藤はスマホを山本のデスクに戻すと、そのまま山本の椅子に腰を下ろし、PCに向かってカタカタとキーボードを叩き続けている。
ソファの上では、山本が体を小さく丸めて横たわっていた。
汗ばんだ額に滲む痛みの色を見て、伊藤はため息をつく。
「……これで、満足か?」
「……黙れ」
山本は腹を押さえながら、低く答える。痛みに耐えるように目を閉じ、声もかすれていた。
伊藤は半分まぶたを閉じたまま、もともと山本がやるはずだった作業を続ける。
「また俺が悪役か……嫌われ役って、ホント俺の仕事だな。」
山本は返事もせず、ソファの壁側に体を向け、これ以上話しかけるなという空気を全身で発している。
「このままだと、子犬に噛まれるのは俺だぞ?」
伊藤はソファの方に視線を向け、わざとらしく呟く。
その言葉に、山本は痛みの合間にうっすらと目を開けた。
出発前、あんなに目を輝かせていた久米の顔が、ふいに脳裏に浮かぶ。
――どうしても、あいつには言えない。
そんな思いだけが、山本の胸に残っていた。
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