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第24話 それでも伊藤さんにはなれない
久米は一束の資料を抱え、慌ただしく会社に戻ってきた。
エレベーターのボタンを押した直後、営業用のスマホを車内に忘れたことに気づき、またもや駐車場へと小走りで戻る羽目になった。
通りがかったおばあさんが、危うく久米にぶつかりそうになり、眉をひそめながら一言。
「最近の若い子は、どうしてみんなそんなにそそっかしいのかねえ」
「大変失礼しました!!」
と絶叫しながら、久米は会社の自動ドアの向こうに消えていった。
時間はまるで秒針に引っかかっているかのように進まない。エレベーターは相変わらず六階で止まったまま。まさに一秒が永遠に感じられる瞬間だ。
腕時計をちらりと見やって――やめた、階段のほうが早い。
踵を返して非常階段の扉を開け、二段飛ばしで駆け上がる。
オフィスにたどり着いた頃には、すでに足が震え始めていた。どうやら、普段からもっと運動しておくべきだったようだ。
力いっぱいドアを押し開けると、ちょうどエレベーター前で伊藤が資料とコーヒーを手に立っていた。
久米を見つけて、口笛まじりに茶化す。
「最近は、CO₂削減がトレンドか?」
「い、伊藤、さん……!」
久米は大きく息を切らしながら、ふらつく足取りで伊藤の前に立つ。
数回深呼吸してようやく顔を上げ、「主任は!!?」と問いかける。
「そんなに焦らなくても、主任室にいるよ……ね」
伊藤の言葉が終わる前に、久米はすでにダッシュでオフィスの奥へと走っていた。
伊藤は手元のエイス製作所予算報告書を一瞥し、「ま、タイミングとしては……悪くなかったな。どうやら、あの修羅場には間に合わなかったみたいだし」と独りごちる。
エレベーターのボタンを押し、ひとまずこの書類を下の財務に渡してこようと決めた。
久米は他の社員への挨拶もそこそこに、主任室へと突き進む。
ドアノブに手をかけたところで、不意に動きを止めた。
ノブに反射する銀色の光をじっと見つめながら、いくつもの疑問が頭の中で爆発する。
――なんで伊藤さんが主任の電話を使ってた?
――どうして二人ともこの部屋にいる?
――いったい何を話して、何をしてた?
――よりによって、どうして俺がいないときに……
「久米くん?」
背後から小金の声が飛んできて、頭の中の問いが一瞬にして四散した。
振り返ると、彼女は心配そうな顔で言った。
「手に持ってた資料、落としてたよ」
見ると、自分が抱えていたはずの資料が、点々とオフィスの床に散乱している。
まるでゲームのマップの進行ルートみたいに、久米の足跡を示しているかのようだった。
絶望的に頭をかきむしりながらも、いつものように大声で謝ることはせず、黙ってしゃがみ込み、一枚一枚、落とした書類を拾い集める。
――俺は、いったい何やってんだ。
資料をすべて回収し終え、久米は自席に戻った。目の前の乱雑な紙の山をぼんやりと見つめ、ページ順に並べる気力すら湧かなかった。
隣の同僚が、仕事上のミスでもしたのかと勘違いして、背中を軽く叩きながら励ましてくる。
「ミスなんて、誰にでもあるさ。次、頑張ればいいんだよ」
久米は顔を上げず、ぼそりと「ありがとうございます」とだけ返した。
名札に目を落としながら、これ以上何を頑張ればいいんだ。どんなに頑張っても、自分は伊藤さんにはなれない。
そもそも、あの二人は元恋人同士なんだから。
パソコンのLINEが通知音を立てた。久米はまぶたを持ち上げる。
画面右下に表示されたのは、山本からの個人メッセージ。
『戻った?』
山本がよく送ってくる、いつもの何気ない文章。
でも今日は、どうしてこんなにも無機質な記号にしか見えないのだろう。
マウスを動かし、キーボードに二文字と句点だけ打つ。
『はい。』
『予算報告書、見たよ。データは問題なし。今日はお疲れさま。』
これって、褒めてるのかな?
いつもの自分なら、きっと椅子から転げ落ちるほど喜んでいたはず。
でも今は――
この感情の正体は、「俺が外で必死に動いてるとき、あんたたちは部屋で二人きりで仲良くしてた。まさか俺がそこまで鈍いと思ってるわけじゃないよね」
――そんな卑屈な想いだけだった。
返信はしなかった。
代わりに、LINE画面右上のバツ印にカーソルを合わせ、クリック。
椅子の背にもたれかかり、頭の中で次の段取りを考える。財務で予算が通れば、エイス製作所の出荷も進むはず。木曜日にはいよいよ、取引先との交渉に行ける。あとは、新しい顧客を探して、在庫を捌くだけ。
……仕事の進捗は、悪くない。むしろ順調なほうだ。
だったら、いっそ――
この案件が終わったら、どこか別の場所に行こうかな。
……でも、それが逃げだってことくらい、自分でもわかってる。
気がつけば、広いオフィスには久米ひとりだけが残されていた。
目の前の、依然として散らかったままのデスクをじっと見つめ、ため息をひとつ吐く。
この両手は、どうしてこうもやる気が出ないのか。
口の端をわずかに歪め、意を決して、目の前の書類を一枚ずつまとめはじめた。
「……まだいたのか」
顔を上げると、伊藤がストローをくわえ、紙パックの野菜ジュースをすすりながら近づいてくるのが見えた。
久米は慌ててまた下を向く。
「……伊藤さんだって、まだ帰ってないじゃないですか」
書類をまとめる手をさらに早める。この場所に一秒でも長くいたくない。
「おう」伊藤は主任室のドアを指差し、「あいつ、まだ中にいる。呼んで――」
山本を迎えに来たのだと知った瞬間、久米の中の何かがぷつんと切れた。
伊藤が最後の「くる」まで言い終える前に、久米はぴしゃりと言い返す。
「へぇ、先輩方はお揃いでご帰宅ですか?」
おっと、晴んとこの子犬がついに牙を剥いたか。
伊藤はストローを口から離し、内心でそう呟きつつも、早くこの面倒な空気から脱したい思いも強い。
伊藤は主任室のドアを親指で示し、「じゃあ、お前が――」と続けようとするが、
その「起こしにいけ」の「こ」すら言い終える前に、久米の怒声が重なる。
勢いよく立ち上がり、まるでずっと溜め込んできた感情がついに出口を見つけたかのように、低く問い詰める。
「人のこと弄んで、そんなに楽しいですか?」
伊藤は野菜ジュースの紙パックを机の端に置き、ただ静かに、怒りで吊り上がった久米の目元を見下ろした。
その視線が妙に居心地悪く、けれど久米は負けじと睨み返す。
一触即発――
そんな空気が漂ったのは、ほんの数秒のこと。
伊藤はふっと笑って、久米の頭に手を伸ばし、ぐしゃりと乱暴に撫でた。
「いいじゃん。少し成長したな」
「……は?」
久米は伊藤の手から身をよじって逃れた。
伊藤がこういうところで上手に立ち回れることは、もうわかっている。
だが、自分にはどうしてもそれができない。
言いたいことはまだ胸に残ったままなのに、背中を思いきり叩かれて、痛みで一言も出てこない。
背中をさすりながら、伊藤がどこか満足げに言う。
「反抗できるようになったじゃん」
「おい――」
久米は胸ぐらをつかむ勢いで、伊藤のネクタイを引っ張った。
せめてこの一発ぐらいは言い返してやる――
そう思った瞬間、視界の隅で主任室のドアがゆっくりと開くのが見えた。
山本が、青い冷却シートを額に貼ったまま、ぐったりとドア枠に寄りかかって立っている。
「……何、騒いでるんだよ」
その声は……かすかに震えていた。
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