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第27話 810号室のキス
深夜の救急外来は人影もまばらで、看護師が通り過ぎる音さえもかすかだった。
久米は山本の歩調に合わせて、小さな歩幅でゆっくりと前へ進む。山本が足元をふらつかせながら歩いているのが分かっていても、手を差し出す勇気はなかった。
だからこそ、同じ速度で歩き、もし彼が倒れそうになったら、すぐに支えられるようにと身構えていた。
待合スペースに着くと、久米は二人分の荷物を空いた椅子の上に置き、財布を取り出して「飲み物買って来ます」と言った。
山本はベンチに腰を下ろし、目を閉じて小さく頷いた。
自販機の前に立ち、久米は色とりどりの飲み物を何度も目で往復する。
こういうとき、甘いものがいいのか、それとも味のないミネラルウォーターがいいのか。
迷っていると、少し離れたナースステーションからひそひそ声が聞こえてきた。
「えっ、山本さん、さっき来たよ」
「ほんとに?しばらく見なかったから、てっきり生活習慣改善したと思ったのに……」
「ねぇ……」
久米は手にしていた小銭を財布に戻す。自販機の照明が赤と青の光を交差させていた。
主任は昔から、こんなふうに身体のことを後回しにしてきたんだな。ここ数日の出来事――
酒に酔い、張り詰めた仕事、徹夜に食事抜き――
すべてが思い返される。
手をだらりと下げ、どうしてもっと早く気にかけてやれなかったのかと後悔が込み上げてきた。
「そういえば、今日山本さんと一緒に来た人、前の人じゃなかったよね」
「ん?伊藤さんのこと?」
「そうそう、あの人、話し方すごく面白かったから、また会いたいなって思ってたのに」
「え?じゃあ、今日一緒に来たのって、誰?」
廊下の角にいた久米は、胸が跳ねるのを感じた。
手に持っていた財布が床に落ち、大きな音を立てた。夜の病院の廊下に響き渡るような音だった。
看護師たちが反応するよりも早く、彼は財布を拾い上げて逃げるように走り出した。
――いや、逃げるって、俺は何してんだ!?
頭の中で警報が鳴る。久米は壁に手をつき、息を整えた。
なにもそんな取り乱すことじゃない。山本と伊藤の関係なんて、今に始まったことじゃないのに。
ネクタイを少し緩め、手の中の財布を見下ろすと、視線が自然と下がった。
ただ、自分でも驚くほど、他人の口からその二人の名前を並べて言われるのが、耐えられなかった。
しばらく迷った末、気づけば小児科の表示板が目に入る。いつの間にか病院の奥深くまで来てしまっていた。
大きな総合病院の深夜の静けさの中で、自分が小さいな迷子のように感じられた。
何度も案内図を見ながら、ようやく救急の待合室に戻る。
ちょうど診察室の扉が開き、山本が看護師に車椅子で押されて出てきた。腕には点滴の針が刺さったままだ。
久米は急いで駆け寄り、その青ざめた顔に驚いて看護師に尋ねた。
「彼……どうしたんですか?」
看護師は久米を一瞥し、冷たい口調で尋ねた。
「あなたはご家族の方ですか?」
……さっきまであんなに伊藤さんの話で盛り上がってたのに、いざこっちには妙に事務的なんだな……
久米の喉は詰まり、言葉が出てこなかった。以前であれば、迷わず「同僚です」や「部下です」と答えていたはず。でも今は――
真っ白な頭の中に、ただ一つの言葉が繰り返されていた。
俺は……誰なんだ?
山本は久米の様子を察してか、淡々と答えた。
「急性胃炎による発熱です」
「それと重度の貧血ですね、山本さん」
看護師の声は責めるようだった。茫然と立ち尽くす久米に向かって、言葉を続けた。
「点滴が終わったら帰れますが、もう少し時間がかかります。お待ちになりますか?」
「は、はい!待ちます!」
そう返事をしたものの、山本の隣に立っているだけで、まるで部外者のように見られる感覚に、久米は胸を痛めた。
山本が何も言わないのを見て、看護師が次の指示を出した。
「ご家族の方であれば、そちらでお薬と支払いを先に済ませてください。お部屋は810号室です」
久米は頷き、二人分の荷物を手に持ち、急いで受付へと向かった。簡単なはずの手続きが、まさかの30分コース。しかも精神的ダメージつき。
「山本さんとのご関係は?」という形式的な質問に、どうしても悪意を感じてしまう。
伊藤ならまだしも、まさか病院の職員にまでそんなことを聞かれるとは。
薬の入ったビニール袋を手に、自動精算機の前でぐったりと立ち尽くす。
全員伊藤化の世界、恐ろしすぎる。
額を押さえながら、スタッフに不審者扱いされそうにならなければ、「同僚」とか「知人」なんて、嘘をつくことは絶対になかった。
だって、どれもしっくり来なかったから。
では、俺たちは一体……何なんだ?
山本の診察券を精算機に挿し込み、表示された金額はそれほど多くなかった。財布からお金を取り出し、スロットに差し込む。
そして、周囲をこっそり見回した。
自分以外に誰もいないのを確認してから、機械に向かって小さな声で呟いた。
「……俺は、恋人です」
精算機はそんな独り言にまったく反応せず、無機質な声で告げた。
「お支払いが完了しました。レシートを発行致します。」
レシートが印刷される音に紛れて、久米はそっと口を押さえた。鼓動が、やけにうるさい。
――今、俺、何を言ったんだ?
810号室の前で立ち止まり、久米は深く息を吸い込んだ。
今の自分に、山本にあんなことを言う資格があるのか。
ビニール袋が手元で小さく揺れた。
でも……あの声、呼吸、視線――
そのすべてが欲しい。
……うわああ、今すぐ抱きしめたいっ。
しゃがみ込み、膝を抱えたまま顔を真っ赤にし、「がんばれ、悠人」と小さく呟く。
そして、そっと立ち上がり、病室のドアを開ける。
静まり返った室内に一歩足を踏み入れた、そのとき――ベッドの上の人影が動いた。
鼻先に漂う消毒液の匂い。
山本は意識の中で、それが夢なのか現実なのか、過去なのか今なのかを判別できなかった。近くの気配に反応して、思わず口にした。
「……真吾?」
久米が伸ばした手が、中途半端に宙に浮いたまま止まる。
返事がないことに気づいた山本は、ようやく目を開き、ぼやけた視界に久米の顔が浮かび上がる。
――くそっ。
……どうして、こんなときに、真吾の名前なんか。
あれは終わったはずだろ。
心の中で悪態をつき、目を閉じて顔を背けた。
「ごめん、気にしないで……」
微かに熱を帯びた指先が、山本の手の甲に触れる。それを包むように、久米の手が重なった。
山本の肩がびくりと震え、その表情に戸惑いが浮かぶ。
久米は身をかがめ、そっと唇を重ねた。
それは、柔らかく、優しいキスだった。
おでことおでこを触れ合わせ、久米のしかめた眉の下に、不器用な瞳が揺れていた。
山本は、はっきりとその声を聞いた。
「気にするななんて……無理ですよ。僕のこと、ちゃんと見てください」
山本は手を返し、久米の指に自分の指を絡めた。熱い吐息が、久米の口元をかすめる。
「悠人……お前は、誤解してる……」
その言葉の途中で、久米の唇が再び彼を塞いだ。前よりも少し強引で、息を奪うようなキスだった。
久米は山本の耳元で、ひとつひとつ噛みしめるように言った。
「山本さんの目に映るのが、僕だけであってほしいんです」
もしこれがいつもの山本なら、即座に久米を突き飛ばして数発くらい蹴りを入れていたかもしれない。
けれど、久米の赤くなった耳を見て、指の間にじんわりと滲む汗を感じて――
なんでこんなに弱くなってんだ、俺。
山本は目を閉じ、静かにぎゅっと、そっと、久米の手を握り返した。
「……なら、せいぜい頑張れよ」
ベッドの端に寄って、自分の隣を少し空けた。
……もう、追い返す気なんてなかった。
久米は、何も言わずに椅子に腰を下ろし、山本の手を握ったまま、
前のめりに身をかがめて、額を彼の腕に預けるようにしてじっと動かない。
そのぬくもりを、うっすらと感じながら、山本はそっと夢に落ちた。
(週末は多めに……)
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