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第28話 厳しさの理由、優しさの形

 正直なところ、山本は久米への第一印象は、あまり良くなかった。  配属初日の久米は、まるで全身の毛を逆立てたポメラニアンのように緊張していて――  張り切って話そうとするのに、焦って言葉がうまく出てこない。    隣の伊藤がからかうように「いやあ、久米くん、うちの部署の未来は君にかかってるよ」なんて言ったときには、尻尾を振りながらその場でくるくる回って舌まで出しそうだった。    ――そんな調子だったからだろうか。    山本はつい、久米に対して他の誰よりも厳しくしてしまった。無関心ではいられなかったというより、意識しすぎてしまったのだ。    それから間もなくして、課長に呼ばれて「ちょっとお話を」と言われた。 「若い子にあんまり厳しくしすぎないで」とか「君ができるのは分かるけど、みんなが君と同じじゃないんだよ」なんていう、ありふれた説教だった。    そんなことは、百も承知だ。    でも、あの時山本が返した言葉はこうだった。  ――「上司が部下に媚びてどうするんですか。そんなの、管理できないじゃないですか」    課長が口をつぐんだあの顔を、山本はいまだに忘れられない。    部屋を出る間際、課長が肩に手を置いてこう言った。 「君さ、いつからそんなふうになったんだろうね。君の部署は、君一人でやってるわけじゃないんだよ」    課長の背中がドアを閉めるとき、涼しい風が吹き抜けて、山本の鼻先をかすめた。    ――酸っぱくもなく、苦くもない。ただ、何かが詰まったように感じた。    いつから、こんなふうになったのだろうか。    会議室の時計の針の音を聞きながら、シャープペンの芯をカチカチと出していた指が、30回目のときにやっと秒針の音とぴったり重なった。    ――きっと、伊藤と別れてからだ。  鍋や食器のぶつかる音が響く中、山本は目を覚ました。  無意識に額に手を当てる。  ――もう熱は下がっていた。    見慣れないワンルームの寝室。  そうだ、昨夜は点滴が終わるのが遅くて、そのまま久米の家に泊まったのだった。    この歳になると、熱が下がってもすぐに楽になるわけじゃない。まるで3キロ走った後のように筋肉が痛む。  ベッドを出てドアの前まで歩くのも一苦労だった。    ドアノブの丸みが手にぴったりと馴染む。けれど、指先が触れたその瞬間、山本は少し躊躇した。    外で何をしているのかは分からない。でも、普通ならばこんなこと、しないはずだ。  山本は自分の手を見つめる。青い血管が浮き上がっていた。    ーーきっと、昨夜久米に言われたあの一言が、耳から離れなかったからだ。    舌打ちしながらひとつ息を吐いて、無意識に髪をかき上げた。  そんなことをしても、気が晴れるわけじゃないのに。    ドアノブをぐっと押して、開いたドアの向こうにはーー    口にパンをくわえたまま、ネクタイを急いで結んでいた久米の姿が目に入った。彼は慌ててネクタイの手を放し、パンを口から外して言った。   「おはようございます……」 「おはよう」    山本は久米を横目に見ながら、リビングのソファにかけられた毛布に気づいた。    それに気づいた久米が慌てて説明する。 「ご迷惑かと思って……その、起こさないように……」    山本は何も言わず、洗面所へと向かった。    ーー朝っぱらから、ずいぶんと尻尾を振ってるな。    鏡に映る顔は、まだ具合がよくなさそうだった。    後ろからは「朝ご飯、少し作ったんですけど……」と、久米の声が続く。 「昨日、歯ブラシとコップを新しく買ってきました。コンビニのやつですけど……」  久米は洗面台の上に置かれた歯ブラシとコップを指差して言った。   「ありがと」    山本はそれだけ言って、水を出して顔を洗った。顔を上げたときには、久米がタオルを差し出していた。    ーーまるで、自立できない人間を介護してるみたいだな。    そう思いながらも、山本はタオルを受け取り、顔を拭いた。    世界が少しだけ鮮明になったような気がした。顔を拭き終えて振り返ると、久米はまだそばに立っていた。    つい、口が滑った。 「なにしてんの?」    久米は首を振りながら、不安そうに尋ねた。 「もしかして……今日は、出社するつもりじゃないですよね?」   「医者から今週いっぱい休めって言われたんだ。だから……」  そう言いかけて、山本はふと言葉を切った。  久米が小さく首をかしげ、顔に薄い疑問符が浮かぶ。  山本の視線は、久米のシャツの襟元に落ちる。まつ毛が微かに揺れた。    数秒の間のあと、山本は両手を伸ばして、久米の首元に垂れた結ばれていないネクタイを取った。 「明日の午後、クライアントとの打ち合わせには……ついて行けそうにない。頑張ってな」    久米の目が少し大きく開かれる。  山本の唇が、わずかに血色を帯び、それが頬まで赤く染めていた。手早くネクタイを結ぶ山本。  それは、久米が人生で見た中で一番完璧なネクタイの結び方だった。   「っっっっしゃあ!!!」    久米の口から、興奮と一緒にパンのかけらが山本の顔に飛び散った。    山本の殺気立った目にびびった久米は、慌ててバッグをつかみ、「すみません!」と言いながら部屋を飛び出して行った。    玄関のドアが閉まる直前まで、久米の顔は笑っていた。  ーー主任が、ネクタイを結んでくれた。重たい役割も任された。裏切っちゃダメだ。  絶対に、主任に恥をかかせちゃダメだ。  再び顔を洗った山本は、ベランダの隙間から、跳ねるように出勤していく久米の背中を見送った。  ーー課長の言葉も、案外間違ってなかったな。

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