28 / 59
第28話 厳しさの理由、優しさの形
正直なところ、山本は久米への第一印象は、あまり良くなかった。
配属初日の久米は、まるで全身の毛を逆立てたポメラニアンのように緊張していて――
張り切って話そうとするのに、焦って言葉がうまく出てこない。
隣の伊藤がからかうように「いやあ、久米くん、うちの部署の未来は君にかかってるよ」なんて言ったときには、尻尾を振りながらその場でくるくる回って舌まで出しそうだった。
――そんな調子だったからだろうか。
山本はつい、久米に対して他の誰よりも厳しくしてしまった。無関心ではいられなかったというより、意識しすぎてしまったのだ。
それから間もなくして、課長に呼ばれて「ちょっとお話を」と言われた。
「若い子にあんまり厳しくしすぎないで」とか「君ができるのは分かるけど、みんなが君と同じじゃないんだよ」なんていう、ありふれた説教だった。
そんなことは、百も承知だ。
でも、あの時山本が返した言葉はこうだった。
――「上司が部下に媚びてどうするんですか。そんなの、管理できないじゃないですか」
課長が口をつぐんだあの顔を、山本はいまだに忘れられない。
部屋を出る間際、課長が肩に手を置いてこう言った。
「君さ、いつからそんなふうになったんだろうね。君の部署は、君一人でやってるわけじゃないんだよ」
課長の背中がドアを閉めるとき、涼しい風が吹き抜けて、山本の鼻先をかすめた。
――酸っぱくもなく、苦くもない。ただ、何かが詰まったように感じた。
いつから、こんなふうになったのだろうか。
会議室の時計の針の音を聞きながら、シャープペンの芯をカチカチと出していた指が、30回目のときにやっと秒針の音とぴったり重なった。
――きっと、伊藤と別れてからだ。
鍋や食器のぶつかる音が響く中、山本は目を覚ました。
無意識に額に手を当てる。
――もう熱は下がっていた。
見慣れないワンルームの寝室。
そうだ、昨夜は点滴が終わるのが遅くて、そのまま久米の家に泊まったのだった。
この歳になると、熱が下がってもすぐに楽になるわけじゃない。まるで3キロ走った後のように筋肉が痛む。
ベッドを出てドアの前まで歩くのも一苦労だった。
ドアノブの丸みが手にぴったりと馴染む。けれど、指先が触れたその瞬間、山本は少し躊躇した。
外で何をしているのかは分からない。でも、普通ならばこんなこと、しないはずだ。
山本は自分の手を見つめる。青い血管が浮き上がっていた。
ーーきっと、昨夜久米に言われたあの一言が、耳から離れなかったからだ。
舌打ちしながらひとつ息を吐いて、無意識に髪をかき上げた。
そんなことをしても、気が晴れるわけじゃないのに。
ドアノブをぐっと押して、開いたドアの向こうにはーー
口にパンをくわえたまま、ネクタイを急いで結んでいた久米の姿が目に入った。彼は慌ててネクタイの手を放し、パンを口から外して言った。
「おはようございます……」
「おはよう」
山本は久米を横目に見ながら、リビングのソファにかけられた毛布に気づいた。
それに気づいた久米が慌てて説明する。
「ご迷惑かと思って……その、起こさないように……」
山本は何も言わず、洗面所へと向かった。
ーー朝っぱらから、ずいぶんと尻尾を振ってるな。
鏡に映る顔は、まだ具合がよくなさそうだった。
後ろからは「朝ご飯、少し作ったんですけど……」と、久米の声が続く。
「昨日、歯ブラシとコップを新しく買ってきました。コンビニのやつですけど……」
久米は洗面台の上に置かれた歯ブラシとコップを指差して言った。
「ありがと」
山本はそれだけ言って、水を出して顔を洗った。顔を上げたときには、久米がタオルを差し出していた。
ーーまるで、自立できない人間を介護してるみたいだな。
そう思いながらも、山本はタオルを受け取り、顔を拭いた。
世界が少しだけ鮮明になったような気がした。顔を拭き終えて振り返ると、久米はまだそばに立っていた。
つい、口が滑った。
「なにしてんの?」
久米は首を振りながら、不安そうに尋ねた。
「もしかして……今日は、出社するつもりじゃないですよね?」
「医者から今週いっぱい休めって言われたんだ。だから……」
そう言いかけて、山本はふと言葉を切った。
久米が小さく首をかしげ、顔に薄い疑問符が浮かぶ。
山本の視線は、久米のシャツの襟元に落ちる。まつ毛が微かに揺れた。
数秒の間のあと、山本は両手を伸ばして、久米の首元に垂れた結ばれていないネクタイを取った。
「明日の午後、クライアントとの打ち合わせには……ついて行けそうにない。頑張ってな」
久米の目が少し大きく開かれる。
山本の唇が、わずかに血色を帯び、それが頬まで赤く染めていた。手早くネクタイを結ぶ山本。
それは、久米が人生で見た中で一番完璧なネクタイの結び方だった。
「っっっっしゃあ!!!」
久米の口から、興奮と一緒にパンのかけらが山本の顔に飛び散った。
山本の殺気立った目にびびった久米は、慌ててバッグをつかみ、「すみません!」と言いながら部屋を飛び出して行った。
玄関のドアが閉まる直前まで、久米の顔は笑っていた。
ーー主任が、ネクタイを結んでくれた。重たい役割も任された。裏切っちゃダメだ。
絶対に、主任に恥をかかせちゃダメだ。
再び顔を洗った山本は、ベランダの隙間から、跳ねるように出勤していく久米の背中を見送った。
ーー課長の言葉も、案外間違ってなかったな。
ともだちにシェアしよう!

