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第29話 彼氏のTシャツと、元恋人の弁当

 久米が用意してくれた朝ごはんを、山本は小さな口で少しずつ食べていた。卵焼きとトーストという、何の変哲もないメニューなのに、昨日の熱と倦怠感に苦しめられた後では、驚くほど美味しく感じた。  ーーいや、もしかしたら、これはきっと、「家の味」というやつなのだろう。  山本はゆっくりとリビングを見渡す。  半開きの掃き出し窓から風が吹き込み、レースのカーテンを揺らしている。朝の光が床に柔らかな模様を落としていた。  ふと、視線がソファにかかっていた毛布の端に留まる。迷った末に足を運び、そっとその毛布を肩にかけて、体ごと包み込むように丸くなった。  それが錯覚だったとしても――  毛布の中は、ほんのりと温かく、そして久米の香りが鼻いっぱいに広がった。山本は真っ赤になりながら俯く。  ……俺、何やってんだよ。  呼吸するたびに毛布が自分の吐息を跳ね返し、頬に当たる。火照る顔を隠すように、毛布の端をぎゅっと握る手は、どうしても離せなかった。  こんな時間が、ずっと続けばいいのにーー  誰にも邪魔されず、静かに、こうしてここに居られたらいいのに。  ……そう、思ってしまった。  インターホンの音が響いた。山本は目を擦りながら上体を起こし、肩にかかっていた毛布が滑り落ちた。  スマホを手に取り、画面を確認すると、時刻は正午を少し過ぎていた。  思わず伸びをすると、朝よりずっと調子が良くなっていることに気づく。  チャイムはまだ鳴り続けていた。宅配便か何かだろうかと考えながら、玄関へと向かった。  ドアを半分ほど開けた瞬間、耳に飛び込んできたのは、聞き慣れたーー  そして腹立たしいーー  あの声だった。 「おっ、今日のテーマは彼氏のTシャツ?」  山本は壁に寄りかかり、腕を組んで眉をひそめた。 「……またお前か。何しに来た」 「そんな怖い顔しないでよ」  伊藤は、手に提げたビニール袋をひょいと持ち上げた。 「主任の大好物、あの弁当屋のやつ、買ってきたんだけど?」  山本は小さくため息をつき、弁当を受け取った。 「ありがと」  それきり、二人は玄関先で動かなくなった。  沈黙を破ったのは、伊藤だった。 「いやいや、俺、わざわざお見舞いに来たんだけど?弁当まで差し入れたのに、家に上がらせてもくれないの?」 「……じゃあ返す」  山本はそっけなく言った。 「勘弁してよ」  伊藤は首の後ろをかきながら、慌てて続けた。 「たまたま近くまで来てさ、ちょっと仕事のことで相談があってさ、ほんと、仕事の話」 「……嘘じゃない?」  山本はじっとその顔を見て問いかけた。 「ほんとだってば、主任」  肩を落としながら、伊藤は力なく笑った。  山本はくるりと背を向け、短く言った。 「一時間以内に出てけ」 「はいはい、わかってまーす」  そう言いながら伊藤はドアを閉め、山本の背中を追って、久米の家の中へと足を踏み入れた。 ── Special Thanks ── 設定:第26話の本編収録直後。久米が台本を持ったまま楽屋の隅に座り込み、山本はブランケットを羽織ってマグカップを抱えている。さっきの“呼び方”の余韻がまだ残っていて、二人とも若干ぎこちない。 本内容はフィクションです。本編とは無関係です。たぶん。 幕間小劇場シリーズ Vol.2「看病のあとで」 久米(手元の台本を見つめたままぼそり) ……あの、「悠人」って呼ばれるの、ガチで心臓止まるかと思ったんですけど。 山本(無表情でマグカップをすする) は?台本通りだろ。 久米 いや、アドリブでしたよね?だって脚本には「悠人くん」って…… (ページをめくる)……ほら見てください、「悠人くん」って! 山本(目線だけでちらり) 細かいな。こっちだって、熱ある中でセリフ覚えてんだよ。 久米(うつむいてぶつぶつ) ……病人が色気出してくるのおかしくないですか…… 山本 誰がだよ。 久米(爆速で) 主任です!!! 山本(じろりとにらむ) じゃあなんでお前、あのあと一回も目合わせてくれなかったんだよ。 久米(一瞬止まってから耳まで赤くなる) ……合わせたら、たぶん、撮影止めてた。 (間) 山本(マグを置いて、ぽつり) ……お前もさ、よく「一緒に病院行こう」なんて言えたな。 久米 そりゃ、心配したからに決まってるじゃないですか。主任の顔色、マジでやばかったし…… (言いかけて、小声で) あと、たぶん、あのタイミング逃したら……もう聞いてもらえない気がして…… 山本(ふと笑って) ……収録終わっても、まだ引きずってんのかよ。 久米(むすっと) 主任こそ、あれからずっと“悠人モード”抜けてないですよね。 山本(やや意地悪に) ……呼ばれるの、嫌だった? 久米(爆速で) めっっっっっちゃ嬉しかったですありがとうございます。 (沈黙。二人とも目をそらしながら黙る) (そのとき、ドアが勢いよく開く) 伊藤(缶コーヒー片手にひょっこり顔を出す) あれー?またイチャついてんのか~?俺、カメラ回ってるって聞いてないんだけど? 久米&山本(同時に) 黙れ。 伊藤(にやにや) はーい、では以上!「久米、恋に落ちた顔してる選手権」暫定1位のお知らせでしたー。 山本 カメラ止めろ。アイツだけカットで。 久米 あ、いや、ちょっと待ってください、主任、さっきの「悠人」は……そのままにしてもらっても…… 山本(低く) ……それ、リテイクで消してやろうか? 久米(悲鳴) やめてぇぇぇ!!

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