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第30話 もう遅い、けど遅すぎなかった

 この目の前で不機嫌そうにしている奴と、最初に出会ったのは、大学の研究室だった。  伊藤自身、細かいことまでは覚えていないが、あの研究室は本当に狭かった。狭すぎて、ただ過ごしているうちに自然と距離が縮まった。    もちろん最初は、ただの友人関係だった。誰も深く考えてなどいなかった。 だがそのうち、伊藤は気づいたのだ――山本という男が、やたらと意固地で、頑固で、誰にも懐かれようともしないことに。  そんな彼をからかうのが、たまらなく楽しかった。この男がどれだけ拗ねて、どれだけ面倒くさい顔を見せるのか、それを見るのが面白かった。  たまに白い目を向けられ、追いかけ回されることもあったが、ふとしたときに、こちらを見て笑うこともあった。  その、ほんの一瞬の微笑みに、かつて心を奪われたことがあったかもしれない。 「なんで俺がここにいるってわかった?」  山本はそう言いながら椅子を引いて腰を下ろし、伊藤はその向かいに回って座った。   「だって、お前んちいなかったし。自分の家じゃないなら、ここしかないだろって思ってさ」 「用があるならさっさと言え。どうでもいい話なら帰れ」    山本の口調は昔と変わらない。伊藤は鞄を床に置き、対面の山本を見ながら言った。 「客に水の一つも出さないのか?」    山本は明らかに呆れた目を向けたが、それでも立ち上がり、キッチンに向かおうとした。 その瞬間、伊藤はにやりと眉を上げ、鞄から取り出したペットボトルの緑茶をひらひらと振って見せた。 「いいよ。準備はしてるし。病人にそこまでさせられないって」    山本は冷ややかな目を向け、「その手には乗らん」と言わんばかりの視線を送るが、伊藤はそれを無視してペットボトルをテーブルに置き、「どうぞ」と手で促した。    早く終わらせたい一心で、山本は無言で再び腰を下ろす。彼の目線は、相手を威圧するほどに鋭かった。 「もー、そんなに怖い顔しないでよ」  伊藤は部屋をぐるりと見回して言う。 「いい部屋じゃん、あったかい雰囲気でさ」   「余計なこと言うな」    伊藤は肩をすくめ、手をひらひらさせながら答えた。 「はいはい、じゃあ本題ね」    テーブルに肘をついて、顎を手で支えながら言う。 「この前さ、エイス製作所の予算案、俺が財務に出したろ?」    山本は小さくうなずいたが、口は開かない。    伊藤はリビング脇の窓の外を見ながら言った。 「俺さ、本当は審査すっ飛ばして、そのまま課長に見せるつもりだったんだけど……」   「……けど?」  山本が目を細めた。どうせまた裏道通ろうとして見つかったんだろ、と言わんばかりの顔だ。    伊藤は肩を竦めて言った。 「やっぱり、あのメガネに見つかっちゃったんだよねー」    山本はその「メガネ」が誰を指しているか、即座に理解した。月曜の会議で自分を詰めてきた、あの財務の浅間だ。 「あいつ、騒ぐんだよほんと」  伊藤はテーブル上のペットボトルの蓋をひねりながら言った。 「『赤字なのにまた金かけて新しいことやるのか』ってさ。耳が潰れるかと思った」  そのままひと口、茶を飲む。    山本が口を開いた。 「それで?」   「予算、通してくれないってさ。会議開かないと無理って。しかもその場で部長に電話までしてた」    山本はほんの少し、視線を落とした。  なるほど、あの日「ちょっと財務に寄る」と言って出かけたまま戻らなかったのは、そのせいだったか。    咳払い一つして、尋ねた。 「……で、部長は?」    伊藤は口の中の茶を飲み下し、答えた。 「何も言わなかった。でも、反対はしてなかったよ」    ――思っていたより、面倒なことになっている。    山本が眉間にしわを寄せたのを見て、伊藤はペットボトルの蓋を閉め、ふっと笑って言った。 「……久米くんさ、こんなプレッシャー耐えられると思う?」    沈黙が落ちた。  長く、静かな時間だった。窓辺から吹く風に揺られ、テーブルの上のビニール袋がかすかに音を立てていた。    唇を親指でなぞり、山本は顔を上げて真っすぐに答えた。 「……俺が、支えるよ」    ――変わったな、晴は。  あの晴が、誰かのために背負うなんて。    伊藤は思わず笑みをこぼした。目の前の山本は、あの頃の山本とは少し違って見えた。 「何がおかしい」  山本は無表情で尋ねる。    伊藤は小さくため息をついて、人差し指で山本の鼻先を指しながら、静かに呟いた。 「……あの子、本当に、お前にそんなふうに背負ってもらいたいと思うか?」    山本は動きを止めた。    伊藤の指先を見つめながら、一瞬、ぼんやりとした。    ――そうだ。久米は、本当に自分にそんなことを望むだろうか。    その答えは、わかりきっていた。  あいつは、そんなこと望まないはずだ。  伊藤は手を下ろし、テーブルを軽く叩いた。 「……晴、やっぱ変わったな」    山本は答えなかった。    視線を外し、リビングの一角を見つめた。  ソファに掛けたままの毛布が、ぐしゃぐしゃになっている。    伊藤の声が、空間にふわりと漂う。まるで何かを惜しむような、遠い声だった。 「……あの頃、お前がもし、正直に言ってくれてたら――俺たち、こんなふうにはならなかったのに」   「全部俺のせいみたいに言うな。」  山本が顔を向けた。  だが目に、怒りはなかった。そこにあったのは、ただの、淡々とした事実だった。  ――ああ、そうか。  伊藤はうっすらと目を伏せた。  自分たちは、愛し合ってなかったわけじゃない。ただ、合わなかった。それだけのことだ。  彼は自分の頬をこすりながら、ぼそっと言った。 「……ま、自分で考えな。俺、行くわ」  そう言って背負っていたリュックを手に取り、立ち上がって玄関に向かう。    一歩一歩は軽いのに、なぜか重たい足取りだった。  ドアを開けた瞬間、背後から小さく、かすれたような声が聞こえた。 「……ごめん」  伊藤は振り返らなかった。  暗いままの玄関の明かりを一瞥し、手に触れたドアノブをそっと握り直す。  ――……まあ、聞かなかったことにしてやるよ。

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