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第31話 台所と、ごみ箱と、山本の嘘

久米は仕事帰りにスーパーへ立ち寄ったあと、電光石火の勢いで自宅へと駆け戻った。  ドアを開けながら「ただいま」と口にしたが、視線の先にいたのはソファに座っている山本で、彼は慌ててノートパソコンを閉じていた。  どうやら、今日会社で自分があの嫌な眼鏡男に追い詰められたことが、どこかしらのルートで山本の耳にも入ったらしい。  とはいえ、何も言わずに家を出ていかれなかったことに、久米は少しだけ安堵した。 「お疲れ様」山本はそう言いながら、ノートパソコンをソファのクッションの下に隠した。  まさか主任がこんなーーまるで、子どもが親に隠れてテレビを見ているかのような、小さな悪戯をするとは思いもしなかった。  主任が芝居を打っている以上、自分も合わせるしかない。  久米はスーパーの袋から買った物をひとつずつ取り出しながら、やや咎めるような口調で言った。 「昨日どれだけ酷かったか、忘れたんですか。少しくらいは仕事をーーや、やめ――」  だんだんと声が小さくなったのは、顔を上げた拍子に、山本が恐ろしいほど鋭い目でこちらを睨んでいたからだ。  久米は慌てて言葉を継いだ。 「じょ、冗談ですって……えっと、お腹、空いてません?」 「……空いてない」  山本はもう隠す素振りも見せず、ノートパソコンを取り出してローテーブルの上に置いたあと、ダイニングテーブルの席に座り直し、久米に言った。 「明日のクライアント向け資料、もう仕上げてあるんだろう?見せて」 「はいっ……ちょっとお待ちを」久米は手を止め、足元に置いていたリュックからファイルを取り出し、両手で山本に差し出した。  山本はそれを受け取り、テーブルの上で静かに読み始めた。久米は台所に戻り、カウンター越しに資料に目を通している山本の横顔を見つめた。  なんか、こうして見ると、ほんとに一緒に暮らしてるみたいだな……  そんな思いがふと胸をよぎる。 久米は音を立てないように、ゴミ箱の蓋をそっと開けた。すると、中には空の弁当箱が入ったビニール袋が見えた。 「誰か来たんですか?」  自然とそんな疑問が口をついて出た。山本は数秒固まったあと、視線を下げたまま答えた。 「うん、同僚がちょっと仕事の話をしに来た。」 「へえ……」  久米は素っ気なく相槌を打ったが、弁当箱の隣に、白い紙の端が覗いているのを見つけてしまった。どうにも気になって、手を伸ばしてそっとそれを引き抜く。  それは、何の変哲もないレシートだった。けれど、署名欄にはーー伊藤真吾の名前があった。  久米はそのレシートをしばらく凝視していたが、山本が紙をめくる音を聞いて、咄嗟にそれを自分の手に持っていたゴミと一緒に、ごみ箱へと押し込んだ。  手を洗ったあと、山本の背後に回る。襟足から首にかけての美しいラインを見つめるうちに、胸の奥がじんわりと痛んだ。  山本は嘘をついてはいない。けれど、何かを自分に隠したいがために、あえて話を避けたのだろう。  ……知らない方が、いいのかもな。主任、今目の前にいてくれるんだから。  山本がまた紙をめくろうとしたとき、ペンを持つ手がまだ安定しないうちに、背後から久米にぎゅっと抱きしめられた。肩に回された腕に、しっかりと力がこもっているのがわかる。  本来なら、仕事中に邪魔をされるのは嫌いなはずだったが、今日はなぜか、あまり気にならなかった。 何か後ろめたいことでもあるからだろうか。  久米は首筋に頬をすり寄せてきた。まるで甘える大型犬のようで、くすぐったくもあり、愛おしい。  エネルギーを吸い取ったかのように満足した久米は、腕をほどきながら言った。 「資料、ゆっくり見ててください。僕、シャワー浴びてから晩ごはんの続き考えます」  山本は浴室に久米が入る音を聞き終えると、立ち上がってキッチンへ急いだ。  ごみ箱の前で立ち止まり、しばらく迷ったあとーー蓋を開けた。  中をかき分け、あのレシートを探し当てた。  ……こんなこと、どうして忘れてたんだろう。

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