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第32話 ダンジョン突破した日
山本はレシートをくしゃくしゃに丸めて、少しだけ躊躇した後、ごみ箱の奥に押し込んだ。
疲れた目元を指で押さえながら、苦笑いが漏れる。
どうして毎回、こううまくいかないんだろう。予想外の展開ばかりだ。
ーーでも、恋なんてそんなものだ。穏やかなわけがない。気になるかならないか、それが分かれ目。
ふと目の端に、キッチンカウンターに置かれたままの未開封の食材が映り、眉間の緊張がすっと解けた。
嵐の日だって、生活は続いていく。
山本はごみ箱の蓋を静かに閉じた。
もっと、素直に生きてもいいんじゃないか。
そして、視線を浴室の方へと向ける。
水音と混ざった橙色の暖かな光が、床の隙間から静かに漏れ出している。
山本は、何かを……しなければならないと強く思った。
「……悠人」
浴槽に身を沈めたばかりの久米は、肩がまだ湯に浸りきっていないうちに、その呼び声を聞いた。
ドキリと胸が鳴る。
まさか、主任……帰っちゃうの?
一瞬の不安がよぎっただけで、喉が詰まって言葉が出なくなる。
「ドア、ちょっと開いてもいい?」
山本の声は、いつもと変わらないように聞こえた。
久米は少し戸惑い、頬を赤らめながら、おそるおそる尋ねた。
「……一緒に、入ります?」
扉が少しだけ開き、山本の陰った顔がその細い隙間から覗く。
「バカか、お前は」
何だよ、それ……今の、ちょっと嬉しかったじゃんか――
久米はさっきまでモジモジしていた足指を広げ、何事もなかったかのような顔をして、考えていたことをなかったことにした。
山本は扉の横の壁にもたれ、床に座り込んだ。しばしの沈黙。
浴室の湿気が扉の隙間からゆっくりと外へ流れ出し、山本の肌をやわらかく包み込む。
来たのはいいが、さて何を話そう。
ーー正直、まだ決めていなかった。
久米は、扉の下から見える山本のかすかな影を見つめる。さっき見てしまったレシートのことが頭をよぎる。少しだけ、胸の奥がざらついた。
でも、こうして落ち込んでいる山本の姿を見たくはない。それが自分のせいなら、なおさらーー
「……晩ごはん、何にします?」
先に口を開いたのは、山本だった。
「……何でもいいです。主任が決めてください」
「じゃあ……ラーメン?」
「……はい!」
「今日、仕事はうまくいった?」
山本は膝を抱え、顎をちょこんと乗せながら小さな声で尋ねる。
久米は体を少し揺らす。
ざぶんと音を立て、水面から湯がこぼれ落ちた。
「財務の方で、ちょっとトラブルがありましたけど……」
「けど?」
「多分、自分でなんとか……できると思います。だから、主任は気にせず、ゆっくり休んでください」
山本は、そっと顔を傾けて浴室の方を見やった。湯船に沈む久米の姿が、視線の端に映る。
ーーちょっと成長したからって、もう羽ばたこうとしてるわけ?
ふう、とため息をつく。
伊藤に「自分で考えろ」と言われたばかりなのに、山本にはまだどうしたらいいか分からなかった。
いや、ちがう。
ーー今ここに来たのは、そのことを話すためじゃない。
山本はそっと肩の力を抜いて、壁の隅を見つめながら口を開いた。
「……隠すつもりは、なかったんだ」
その言葉に、久米は体を固まらせた。
「真吾とは……とっくに終わってる。それにーー」
山本は指先で扉を軽く押した。
浴室の冷気が流れ出し、久米の髪の上に漂っていた湯気をふわりと吹き飛ばす。
逆光の中にあった山本の頬が、浴室の橙色の明かりに照らされてゆく。
「今の俺が見てるのは、お前だけだから」
その笑みは、やさしさに満ちていた。
天井に溜まっていた水滴が、ぽたりと久米の鼻先に落ちる。ひんやりとして気持ちいい。
手の甲で水を拭ったその瞬間、扉の前にはもう誰の姿もなかった。
……悠人、ダンジョン突破したな。
そう呟いた瞬間、肩の力がふっと抜けた。
久米は湯船に沈みながら、鼻から息を吹いて水面に無数の泡を立てた。
ーーさっきのひと言で、溺れそうほど嬉しくなった。
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