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第33話 職場じゃないのに、“主任”?
ラーメンの湯気が顔にかかるほど、久米は器に顔を近づけて麺をすすっていた。
向かいに座る山本はというと、久米が渡した資料をめくりながら、ときおり箸でスープをかき混ぜている。
久米は眉をひそめて箸を置き、何か言おうとしたその瞬間――
「今回の案、まあまあ行ける。ただ――」
山本が手に持っていた資料が、まるで自ら意思を持ったかのように宙を舞い、久米の手元に落ちた。
ページをめくっていた山本の手が宙で固まる。
久米は少しおびえたような顔だが、それでも眉をひそめ、言葉を続けた。
「主任、ここは会社じゃなくて、自宅です。ごはん中は、ごはんに集中してください。仕事は仕事の時間にやりましょう」
……おいおい、いつからお前が俺を教育する立場になったんだ?
山本は手を下ろし、何も言わなかった。
久米はちらりとその横顔を見て、思い切ってもう一言添えた。
「……だから胃腸炎になるんですよ、主任は、いつもこんなふうだから」
山本は器を目の前に置き、ふうっと熱気を吹きながら一口すすると、伏せたままの声でぽつりとつぶやいた。
「――病院のとき、“山本さん”って呼んでたよな。今は自宅なのに、“主任”に戻るんだ?」
「!!」
久米はその言葉にびくっと肩を震わせ、椅子をガタンと後ろにずらした。床が擦れて不自然な音を立てる。
……え、それって、どういう意味?
手が震えながらも箸を取り直し、久米は無言でラーメンをすすり始めた。まるで逃げるかのように。
山本は、碗に顔を埋めてひたすら食べている久米を見て、小さく笑った。
……ほんと、わかりやすいやつだな。
食後、二人で片づけを始める。山本はキッチンで食器を洗い、久米はテーブルを拭いていた。
ちらちらと視線がキッチンに向かうたび、山本はだんだん落ち着かなくなる。
「……皿洗ってるだけですよ。そんなに面白いですか?」
「あ、いや、違う……」
久米は顔を赤らめながら、またテーブルを拭き始めた。すでに拭いたはずの場所を何度も繰り返し。
山本が洗い終わった皿を水切りラックに並べる頃、久米はようやく「今だ」と思い、布巾を洗いにキッチンへと向かった。
狭い通路をすれ違おうとしたそのとき、ちょうど山本がこちらへ歩いてきた。
久米は布巾を握りしめたまま、その場に直立する。
山本は彼を一瞥して、「どいて」とつぶやいた。
「っ、はいっ」
久米は慌てて壁に体を寄せ、道を譲る。
山本は舌打ちを一つして、ダイニングテーブルに置いていた資料を拾い、ソファに腰を沈めた。
資料をめくりながら、再び集中し始める。
――そんなに、仕事が気になるのか。
久米は、伏し目がちに紙の端をなぞる山本を見つめる。
そうだ、それが「主任」だった。記憶の中の山本は、いつもこうだった。
でも、山本の内心は違っていた。
夕食中、あの一言を発してからというもの、久米の様子がどこかおかしい。
言いたそうで言えない、迷っているようで踏み込めない――その姿が、なんとももどかしい。
そんなに難しいことなのか。
部屋の中に沈黙が広がる。久米は布巾を洗いながら、水の音さえ気を使っているようだった。
そのとき、二人のスマホがほぼ同時に鳴った。
久米はLINEの通知を確認し、自然と山本の方に目線を送った。山本も、同じメッセージを受け取ったはずだ。
伊藤からのグループLINE。
山本は一瞬眉をひそめ、スマホをローテーブルに放り投げた。少し考えてから、隣のクッションを軽く叩く。
「ここ、座って」
「……あ、はい」
久米はスマホをダイニングテーブルに置く。画面には、まだ伊藤のメッセージが光っていた。
《悪い、ちょっと外されちゃったみたい。
さっき部長から電話があって、「シーブイ工場のサンプル検品に立ち会え」との指示。
そのせいで、午後の得意先同行は行けなくなった。
申し訳ないけど、病み上がりの主任に正式提案書を今夜中にまとめてもらえないか?
明日の昼までに提出できる状態にしておきたい。
頼りにしてる、久米くん。》
── Special Thanks ──
※設定:本編22話終了後、撮影現場裏の楽屋にて。山本と久米は控室モニターから“問題のシーン”を鑑賞中。
本内容はフィクションです。本編とは無関係です。たぶん。
幕間小劇場シリーズ Vol.3「この野良猫、誰のもの?」
出演:伊藤・清水・(モニター越しに)久米・山本
(【楽屋・喫煙室】伊藤が煙草に火をつけ、ソファにだらしなく座っている。向かいに清水が脚を組んで座る)
清水(腕を組んで、にやり)
で、今日の演出、“持病がぶり返したヒナのために中断された逢瀬”って、監督案?それともアドリブ?
伊藤(ふうっと煙を吐きながら)
いやー……半分アドリブ。だってあの電話、ほんとに山本から来たんだもん。
清水(皮肉な笑み)
なるほどね。まさかベッドの上で“ヒナ”に奪われるとは思わなかったけど。
伊藤(肩をすくめ)
……俺もさすがに、勃ちかけで着替えたの、今回が初めてっス。
清水(無言でミネラルウォーターを飲み干し、コップを置く音がやたら冷たい)
(別室・控室のモニター前。久米がスウェット姿で正座している。横に山本が腕を組んで座っている)
久米(画面を指差しながら)
あの……主任、あのキス、やけにリアルじゃなかったですか?
山本(目を細めて)
……演技とは思えなかったね。あのタイミングで服のボタンを一つ残して開けるあたり、経験値の塊。
久米(震え声)
ていうか、ほんとにやってません……?現場音声、後で消されたけど……
山本(一言)
やってるね。
久米(白目)
やっぱりいいいいッ!?!?
(喫煙室)
清水(ふと真面目な顔で)
……でも、“理由を聞かない相手に会いたくなる”って台詞、ほんとにそう思ってたの?
伊藤(一瞬間を置いて)
まあ……どっちかっていうと、“理由を聞く余裕のない人間を、放っとける相手”が欲しいのかも。
清水(静かに笑って)
ふうん。じゃあ、私はその枠から外れたんだ。
伊藤(苦笑い)
……いや、それは違う。清水さんは、“全部見抜いた上で黙ってくれる人”だと思ってた。
清水
……過信しないで。
(控室)
山本(モニターのボリュームを落としながら)
……ったく。俺が熱出して電話かけたタイミング、よりによってそれかよ。
久米(タオルを握りしめて)
俺もう、あの電話の裏で何が起きてたか想像して、胃が痛いです……
山本(冷たく)
想像すんな。
久米
すいませんッ!!
(喫煙室。清水が立ち上がり、出口のほうに歩きながら)
清水(振り返らずに)
……“次はもっと貪欲に”って顔してたけど、忘れたフリしてたらどうする?
伊藤(小さく笑って)
そのときは、また呼びますよ。──ヒナが落ち着いた頃にでも。
清水(一拍置いて)
……冗談じゃなければ、待っててあげる。
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