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第34話 今夜、主任じゃなくなるなら
ソファの端に座った久米は、山本の視線を避けるように小さく身を縮めていた。ちらりと横目でテーブルの上を盗み見る。
伊藤からのメッセージが、まだスマホ画面に残って光っている。
――明日は山本が病欠で、伊藤はスケジュール変更。
となると、クライアント対応は自分ひとりか。
「伊藤さん、ほんと人使い荒いですよね。主任がこんなに弱ってるのに、僕に正式提案書お願いしろって……はは……」
どこか空笑い混じりに呟いた久米の声は、独り言のようでいて、明らかに山本に聞かせようとしていた。
山本は資料を閉じ、背もたれにゆるくもたれたまま、気だるげに言う。
「……なに、ビビってんの?」
「び、ビビってません!!」
久米は拳を握って力強く主張するが、作った笑顔が引きつって自分でも顔が痛くなる。
「どんな状況でも、最後はゴリ押しでなんとかなるもんですから!」
山本はそんな久米を横目で一瞥すると、あからさまに興味なさそうに顔を背けた。
その反応に、久米は一気にしおれてソファに沈み込み、小声で尋ねる。
「……で、正式提案書って、どうやって書くんですか……?」
すると山本は、膝で久米の足を軽く突きながら言った。
「いま目の前にあるじゃん、素材。今日のクライアント向け資料、構成とか論理とか、流用できそうなの、ちゃんと見てみなよ。ただ聞きにくるだけじゃダメ」
「でも……」
久米は膝を抱え、ソファのクッションに顔をうずめる。
「……もしクライアントが、なんか変な質問してきたらどうしよう……」
「それはお前の心配することじゃない」
山本は久米の資料を膝に乗せ、淡々と言った。
「他人に首を縦に振ってもらわないと成立しない案なんて、そもそも成立してない」
その言葉はやけに冷たくて、久米の頭に鈍い衝撃を与えた。
職場でいつもこんなふうに言われてきたから、もう慣れたはずなのに――
まさか、自分の家でも、同じ対応だった。
山本は小さくため息をつき、こめかみを指で押さえたあと、ふいに前のめりになる。
ローテーブルからペンを取り、久米の膝の上に置かれた資料にさらさらと何かを書き込む。
書き終えると、そのペンの先で久米の太ももを軽く突いた。
「風呂入ってくる。そのあいだに、この三つのフレーズ、ちゃんと暗記しといて」
そう言って、ペンをそっとローテーブルに戻し、立ち上がって浴室へと向かった。
久米はペンで突かれた太ももをさすりながら、山本の整った字が並ぶ資料のページをじっと見つめる。一行一行、口の中で繰り返し読み上げる。
山本が風呂から戻ってきたとき、久米はソファではなく、床に正座していた。目を閉じてぶつぶつと何かを唱えている。
その姿に、山本は思わず吹き出した。
「……なにしてんだよ、それ」
久米は情けない顔で目を開け、湯気をまとった山本と目が合った瞬間、ごくりと喉を鳴らした。
山本は咳払いし、久米の正面にあぐらをかいて座る。
「――はい、暗唱タイム」
「えっ、今ですか!?」
久米があわてて資料を見ようとすると、山本はさっとそれを取り上げ、胸元にしまい込んだ。
「朝になったら忘れるだろ」
その一言に、久米の心臓がひとつ跳ねた。
……ずるい。その紙束になりたい、俺も。
「『成果を踏まえて、クライアントの目的を見直す』、
『自社リソースの配分可能な範囲を明確にする』、
『顧客側の習慣的な遅延に影響を受けない』……」
「もう一回」
「『……クライアントの目的を見直す』……」
山本はその声をじっと見つめながら、少し眉をひそめる。
「間違ってないけど、ニュアンスが違う。“こっちの都合で見直すしてる”ように聞こえた」
久米は口を閉じ、背筋を伸ばした。
――はいはい、怒られるやつだ。いつものやつ。
「明日は俺も、真吾もいない。誰もフォローできないからな」
山本は資料を久米の胸に押しつけた。そして、急に声のトーンを和らげる。
「気づいてないかもしれないけどさ、あの財務のメガネ、俺と真吾のこと、前からよく思ってない。たぶん、今回は会社も動いてくれないよ」
そう言って、山本は久米の耳たぶを軽くつまんで引っ張った。
「――だから、明日はお前にかかってる」
久米の耳の先が、みるみる赤くなる。
彼はそっと資料を開き、一字一句、丁寧に確認しはじめた。
その様子を山本は見つめる。どこか受験前の学生のような集中ぶりだ。
「……僕、明日、ちゃんと説明します、主任」
その言葉が口をついて出た瞬間、山本の表情がわずかに曇った。
伸ばしていた手が久米の顎に触れ、そのまま指先で顎をすくうようにして、久米の視線を正面に導いた。
「――今、俺のことなんて呼んだ?」
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