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第35話 触れる勇気、触れられる距離

 久米の喉が、ごくりと鳴る。言葉にならず、山本の目を見たまま、ただ首をすくめた。  「し……」  その先の言葉が出る前に、山本の唇がそっと重なった。  ほんの一瞬の、触れるだけのキスだったが、それだけで久米の手から資料が滑り落ちた。 「悠人、今なんて呼んだ?」  山本は久米の唇のすぐそばで囁いた。  吐息がかかるほどの距離で、久米は息をするのも忘れそうになる。  頭の中で歯車が空回りし、煙が上がりそうなほどの混乱。 「……や、山本……さん……」  唇が震えながら、ようやくその名前を搾り出す。山本はやや不満そうだったが、久米の限界はそこまでだった。  山本が手を離すと、久米はようやく正気を取り戻しかけたところで、再び淡々とした声が落ちてくる。 「明日の午前十一時までに完成した提案書をメールして。俺が一時までに直す。そのまま持って行けばいいよ」 「……あ、はい」  まだ呆然としたまま返事をすると、山本は立ち上がろうとする。その腕を、久米があわてて掴んだ。 「……なに?」  山本は嫌そうに眉をひそめて見下ろす。 「山本さん!」 「……は?」 「山本さーーん!!」  急に大声で叫ばれ、山本はその手を振り払うと、しゃがみ込んで久米と目を合わせた。  久米はびくりとして、視線を泳がせる。自分でもやりすぎた自覚がある。  だが山本の手が久米の頬を包み、何の前触れもなく、またもや唇が重なった。下唇を優しく吸われ、舌が歯の間を滑り抜けてくる。  久米は大胆になれず、震える手で山本の腰を支え、恐る恐る応じた。  こんなに近い幸せがあるなんて、想像もしなかった。近すぎて、怖がる暇さえないほどに。  けれど山本は、ふいに首元に伸びた久米を押し返し、つぶやいた。 「……やめ。俺、病人だから」  その言葉に、久米はハッとして慌てて身を引く。  視線が山本の首筋から胸元へと走り、自分の図々しさに顔をしかめた。  すっかり耳を垂らした犬のような久米を見て、山本は自分の襟元を整えながら訊いた。 「――一緒に寝る?」 「い、いいんですか!?」  飛びつくように顔を上げた拍子に、久米の額が山本の鼻先にぶつかりそうになる。  バランスを崩した山本は、尻もちをついて床に座り込んだ。  目の前でしっぽをちぎれそうなほど振っている久米を見て、山本は顔を手で覆いながらぼやいた。 「……その驚き癖、どうにかならない?」 「ほんとに……ほんとにいいんですか?」  久米は山本の両腕を掴み、目を潤ませながら食い下がる。  山本はあきれたように口を尖らせた。 「……寝るだけだよ」  そう答えると、久米は山本をぎゅっと抱きしめた。額を山本の額にこすりつけ、幸せいっぱいの顔を見せる。  しばらくしても山本が動かないことに気づき、久米は不安になって力を緩めた。  だが、視線を下げた先で、山本が静かに笑っているのが見えた。  その笑みは、まるで電気が身体を駆け抜けるように久米を貫いた。  笑った後、山本は顔を上げた。そして久米に問いかけられる。 「……キス、してもいいですか?」  半開きの目で久米を見つめながら、山本は言った。 「したいなら、すれば?」  返事があまりにもあっさりしていて、久米は一瞬きょとんとした。  まさか許されるとは思っていなかったし、こんな軽く受け入れられるとは想像もしていなかった。  久米は喉を鳴らしながら、ゆっくりと手を山本の肩に置く。触れたくないのではない。ただ、怖かったのだ。  強く近づきすぎたら、目の前のやさしさが、泡のように消えてしまう気がして――  まつ毛が山本の頬に触れそうなほど近づいたところで、久米はそっと目を閉じた。  空気すら止まりそうな一秒。  探るように、そっと唇を寄せる。  唇と唇が触れた。羽が舞い落ちるような、音も立てないキス。  久米の身体が一瞬びくりと固まる。意識より先に身体が怯えていた。  しかし、山本は退かない。むしろわずかに顔の角度を変え、久米が触れやすいように応じてくる。  再び唇を重ねた久米は、今度は少しだけ力をこめた。  ほんのわずかな呼吸と、ほんのわずかな熱のやり取り。  まるで「認められた」ような、柔らかくて、甘くて、痺れるようなキスだった。  唇を離した久米は、火照った顔を山本の首元に埋めて、ぽつりと呟いた。 「……明日、ちゃんとやるから。任せてください」 ✨️今後は毎日22時の更新を予定しています。 朝6時更新を楽しみにしてくださった方がいらっしゃったら、ごめんなさい…!

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