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第36話 彼氏です、と宣言した日

 目を覚ましたとき、久米は床の上に寝ていた。  何度かまばたきをしてから、彼は身を起こす。ベッドの上には、背を向けたまま眠っている山本の姿があった。  どうやら昨夜、自分がベッドから落ちてしまったらしい。  体を支えてベッドに戻ると、その重みでシーツが引かれ、山本の下でわずかに皺がよった。  山本の手がぴくりと動いたが、目は覚まさず、夢の中にいるようだった。横顔にかかる柔らかい髪が、ふわりと揺れている。  それを見つめながら、久米の胸はじんわりと温かくなっていく。  これって、まさに文字通りの「同じベッドで朝を迎えた」ってやつじゃないか。 まあ、俺はベットから落ちたんだけど。  久米はそっと手を伸ばし、山本の頬の輪郭をなぞった。指先がまだ離れる前に、その手首を山本がぱしりと掴んだ。 「……用意しないと、遅刻するよ」  寝ぼけたような声でそう言われ、久米は慌ててスマホを見る。  ……ヤバい、本当にそうだった!  山本の手をそっとほどき、「すません!」と叫んで寝室を飛び出した。  急いで顔を洗い、服を着替えて、夜中まで直していた提案書を手に持ち、玄関で靴を履こうとしていたところへ――山本がふらりと姿を見せた。 「気をつけて」  眠たげな目、はねたままの髪。壁に肩を預け、ぼんやりとした表情でそう言う。 「あっ、はい!」  返事をしたはいいが、久米は玄関で立ち尽くしてしまった。 「……行かないの?」 「その……あのさ……」 「早くして」   「……いってらっしゃいのキス……とか、ないんすか?」  久米はもじもじと指先をつつきながら、上目遣いでそう言った。    山本の眉がぴくりと動き、久米は「しまった」と思ってドアノブに手を伸ばした。 「わ、わかりました、もう行きます!」  その瞬間、背中のリュックがふいに引かれた。  驚いて振り返ると、裸足の山本が玄関に立っていた。そして――  頬に、そっと、暖かい風のようなキスが落ちた。 「……さっさと行け」  山本が目を開けて、低く命じるように言った。 「は、はいっ!!」  久米は思わず背筋を伸ばして敬礼し、頬のゆるんだままドアを閉めた。  ドアの向こうで、山本は自分の頬をぱんと叩く。    ――まったく、俺もずいぶん変わったもんだ。  バカと一緒にいると、ほんとにバカになるんだな。  一晩かけて仕上げた提案書に没頭していた久米は、午前十時半頃ようやく書き上げた。  椅子を後ろへ引いて背もたれにぐったりと寄りかかり、深く息をつく。  ――やっと終わった。山本さんに送らなきゃ。  そう思って目を閉じた瞬間、オフィスの入口が騒がしくなった。目を開けると、伊藤が財務の浅間を外に押し出しているところだった。 「やだなあ、これ以上中に入ってきたら、俺、なにするか保証できませんよぉ~」  入口を塞ぐように立つ伊藤は、いつもの軽い調子で、頭ひとつ分低い浅間にからんでいる。 「まだ社内承認通ってない案件を、クライアントに話すなんて何考えてるんですか!?上に知られたらどうするんです!」  浅間はメガネを押し上げながら真顔で言った。 「いやいや、俺って“やっちゃってから報告”派じゃん?」  伊藤はそのまま浅間のシャツラインをなぞりながら、背中をくすぐるように手を滑らせる。  顔を寄せて―― 「それとも、俺のこともっと知りたいとか?」  その言葉に、まるで触れられたところが焼けたかのように浅間が飛び退き、真っ赤な顔で「覚えてろよっ!」と叫んで非常階段に走り込んだ。  ドタドタと階段を降りていく音が遠ざかる。伊藤は「はっ」と鼻で笑い、 「さすが財務、CO₂削減意識高めだなあ」 と、軽口を叩いた。 「……なにかあったんですか?」  気がつけば久米が入口まで来ていた。伊藤は浅間にぐしゃぐしゃにされたシャツの襟を直しているところだった。 「あー、たいしたことないよ。朝からあいつに絡まれてただけ」  心配そうな久米を見て、伊藤はさらりと言い添える。 「大丈夫、俺がなんとかするから。……それより、提案書はどうだった?」  久米はそれ以上は聞かなかった。伊藤が語らないことを、深く掘っても無意味だと知っていたからだ。 「さっき主任に送って、見てもらうように頼みました」 「それはよかった」  伊藤はくるりと背を向けて自分の席へ戻る。久米もその後に続いた。  バッグを背負いながら伊藤が言った。 「今からシーブイ工場に向かうけどさ、工場よりクライアント対応したかったんだけどね……まあ仕方ないか」  目線を伏せたその一言は、ほんの一瞬の本音のように響いたが、すぐに消える。  鼻先をかきながら、伊藤は目を合わせて言った。 「久米くん、覚えといて。午後、クライアントとうまくいかなかったら、とにかく“時間稼ぎ”が最優先だ」  その言葉に、久米は無意識に背筋を伸ばして答えた。 「はいっ!」 「じゃ、よろしく頼んだよ」  伊藤は久米の肩を力強く叩く。それは、まるで信頼を託すかのような手だった。 「その……」 「ん?」  伊藤が振り返ると、久米は少し戸惑いながらも顔を上げ、言った。 「昨日、主任にお弁当を届けてくださって……ありがとうございました!」  一瞬だけ、伊藤の顔に驚きの色が浮かんだ。しかしすぐに、いつものからかい顔に戻る。 「へえ、もう“彼氏”になったのか?」  久米は唇を噛みしめ、はっきりと答えた。 「……はい、彼氏です」  伊藤は数回笑ったあと、息を整えて言った。 「じゃ、その彼氏さんにちゃんと飯食って、ちゃんと寝ろって伝えておいて」 「はい、伝えます」  久米は深く頭を下げ、伊藤を見送ったあとで、ゆっくりと姿勢を戻す。  そして、早鐘のように跳ねる胸を押さえながら、大きく深呼吸した。  ――勝った。

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