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第26話 名前を呼ばれる日

 久米ははっきり覚えている。  先週の金曜日まで、主任室に入ることなんて絶対に嫌だったのに。部屋の内装は何も変わっていないはずなのに、どこもかしこも違って見える。  この数日で色んなことが起こりすぎたせいで、山本はもう、青筋立てて怒鳴り散らす「怖い人」ではなく、ソファで丸くなっている「かわいそうなウサギ」にしか見えなくなっていた。  山本は手で効果の薄れた冷却シートを剥がし、ドア口で立ち尽くす久米に言った。 「机の上に領収書が残ってるから、日付とハンコ押しといて。明日、経理に提出しなきゃならないんだ」  熱で火照った顔をソファの背にもたせ、「ごめん、もうちょっとだけ横になってていい?」  久米は、山本の体調を気遣いたい気持ちは山ほどあった。でも、さっきのことがあるから――  どうしても声をかける勇気が出ない。  タイミングを見て、ちゃんと訊こう。小さな決意を胸に秘め、そっと山本のデスクへ向かう。  ペンを手に取った久米の視線は、無意識に隣の綺麗に分類されたレシートの山に落ちた。  そこにあるのは、見慣れた丸い文字――伊藤の筆跡だ。  胸の中のもやもやが、また喉元まで込み上げてくる。 「……なんで、伊藤さんに続きやらせなかったんですか?」  思わず漏れたその声に、山本は少しだけ目を開けた。  あえて淡々と、というよりは、もはや相手にする気もないという調子で答える。 「あいつ、出かけたまま帰ってこないんだから」  あまりに投げやりなその言い草に、久米は余計にカチンときた。 「さっき戻ってきてたじゃないんですか」  反射的に言い返す。  本当は身体がしんどくて、静かに休みたかった山本は、目を閉じたまま、さらにぞんざいな口調で返す。 「……また出て行った」 「で、それを俺に押し付けるんですか?あの人に頼んだんでしょ」  ……俺、って。なに気取ってんだよ、こんなときに。  まるで止まらない初めてまともに言い返せたのに。普段なら絶対にこんなふうに言えないのに、どうしても口が勝手に動いてしまう。  山本は頭を傾け、目を細めてじっと久米を見た。  その視線には、久米がこれまで見たこともない、疲れと苛立ち、そしてほんの少しがっかりが滲んでいるように見えた。  心臓が跳ね、久米は慌てて視線を逸らす。手元のペンを見つめ、唇をきつく噛んだ。  自分は、なんてバカなんだ。  山本が病気であることなんて、明白なのに。  それなのに、自分は、わざわざ傷口に塩を塗るような真似をして。  本当に最低だ。  ソファがきしむ音がしても、久米は振り返ることができない。本当に、もうあの目にさらされるのは嫌だった。  山本はふらつきながらデスクに近づき、かすれた声で、それでもどこか優しく言う。 「今日も疲れてるのに、ごめん。こんな時間に雑用まで押し付けちゃって」  久米の手からペンを取る瞬間、指先が一瞬触れただけで、久米は驚いて手を引っ込めた。  山本は残ったわずかな力を振り絞るように、続ける。 「今日はもう帰って。あとは、俺がやるから」  久米は思わず慌てた。  机の上を見渡し、必死に何か言い訳を探そうとする。でも、何を言えばいい?自分が本当に伝えたいことって、何? 「……そんなつもりじゃ……」  その言葉は、山本がペンを机に置く音にかき消された。  顔を上げると、山本がこちらを見ていた。その表情に、久米の心臓は数秒止まった気がした。  顔色は悪いのに、口元に浮かぶわずかな笑みが、まるでオフィスに飾られたガラス細工のように、脆くて、でも綺麗だった。 「……悠人。そう呼んでもいい?」  もしこれが戦場なら、久米はとっくに何百回も撃ち抜かれて死んでいただろう。  視線のやり場に困って、慌てて立ち上がり、山本をソファに押し戻す。  彼は山本の膝元にしゃがみ込み、顔をそむけ、さっきの自分の席を見ながら言った。 「……それくらいの作業、僕がやりますから。……主任が、なんて呼ぼうと……好きにすればいい。でも、一つだけお願いがあります」  そう言って、顔を真っ赤に染めたまま、ソファに座る山本を見上げる。 「終わったら……一緒に病院、行ってください」  山本がぽかんとしながらも、こくりと頷くのを見て、久米はほっとしたように立ち上がる。  視線の端に、またソファに寝転ぶ山本の姿が映る。  頭の中は、ぐちゃぐちゃのまま。  「おい、マジで情けないな自分……たった名前呼ばれただけで、こんなに浮かれるとか!」と怒る声と、  「なにが悪い!名前呼ばれたんだぞ!?これでやっと伊藤さんと並んだってことじゃないか!むしろ最高!!」と喜ぶ声が、心の中でせめぎ合っている。  ……まあ、認めるよ。  俺、ほんとに情けないやつだ。  必死で口元の笑みを堪えながら、ペン先が強くなったり弱くなったり、紙の上で跳ねるように踊り出す。  山本が向こうで寝返りを打つのが見えて、久米は慌てて真面目な顔に戻り、手元の作業に集中する。  ――気づけば、三枚ほど判子を逆さに押してしまっていた。

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