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第38話 主任がいない会議室で

久米は会議室に入り、プロジェクターとPCの接続設定を始めた。  視線の端で、吉田と談笑している清水の姿が見える。……清水さん、クライアントどころか、この案件の命運握ってる人じゃんか……!  ふと、先日の居酒屋で見た伊藤と清水の妙に親しげな空気を思い出し、心の中で密かに感嘆した。  ーーさすが伊藤さん……  やっぱり、あの距離感も計算のうちか。  老獪な狐、とはまさにこのことだ。  けれど冷静に考えれば、一番やりにくいのは清水の方かもしれない。  表面は涼しい顔で礼儀正しいが、その内側ではどれだけ荒れていることか。  あの時、伊藤が「工場よりクライアント対応したかったんだけどね」なんて言っていた理由が、ようやく分かった気がする。  ……来なくて正解だ。  来てたら、まさに修羅場だった。  久米は接続確認を終え、深呼吸して席に着く。  ーーいまは目の前のことに集中しよう。  ーー帰ったら伊藤に文句を言おう。 「お待たせしました」  スクリーンの前に立ち、吉田と清水に向かって頭を下げる。 「どうぞ」  清水は久米の名刺を机に置きながら、静かに答えた。  長い説明が続く中で、久米は口の中がカラカラになるのを感じた。  入社以来はそこそこ優秀だったはず。この程度のプレゼンなら本来、苦もなく進められる。  緊張するのは当然だが、何よりーーこの提案書は、山本さんが手直ししてくれたものだ。  勝算はある。  説明を終え、椅子に腰を下ろして言う。 「清水さん、今回の提案について、何かご不明点やご要望があれば、遠慮なくお申し付けください」  清水はうつむいたまま、資料に目を通す。前髪がその表情を隠す。  久米は無意識に指先を握りしめた。 「……まず、失礼ながら――」  ようやく清水が顔を上げ、久米を真っ直ぐに見据える。 「今回の責任者ですが、久米さんでしょうか?」  ――来たか。  久米は一瞬、息が詰まった。すぐに湯呑みに手を伸ばし、落ち着くふりで一口含む。 「……本来、この案の責任者を担当させて頂いた伊藤は出席予定でしたが、シーブイ工場にてサンプル検品の確認で不具合が出まして、  急遽、現場対応に向かっております」 ……やはり、そういうことか。 久米が出てきた時点で、大方の察しはついた。真吾を表には出せない分に、こちらも正面からは攻められない。 相手に、計算された。……いや。 ーーたぶん、この子の……上層部の策だな。 清水はふと視線を落とし、カバンから細身のボールペンを取り出す。ノートの端に何かを走り書きしながら、顔を上げずに小さく息を吐く。  ……余計な詮索をすれば、こちらの火種にもなりかねない。  伊藤との関係を、万一上に嗅ぎ取られでもしたら。  あくまで“確認”という体で揺さぶるに留める。今は、それ以上は踏み込まない。  清水は頷きつつも、声色は探るようなものになる。 「では……今回はお一人でのご対応ということで、少々ご負担が大きいかもしれませんね」  柔らかく笑いながら、確実にプレッシャーをかけてくる。  久米は咳払いして答える。 「山本が急な体調不良で、本日は私が代理を務めさせていただくことになりました。至らぬ点があるかと思いますが、何卒よろしくお願いいたします」 「ああ、それは大変でしたね。でも、若手にここまで任せるなんて、なかなかの信頼度ですよ」  吉田が茶をすする音が聞こえた。  久米は視線を吉田に向けるも、すぐに逸らす。  ーー山本さんが言っていた通りだ。  会社は今回は本当に、俺たち三人だけに丸投げしている。  ……だって会社を出る時、誰もこっちを見ようとしなかったわけだ。 「……君か」  清水は笑っているが、その声色は感情の読めないものだった。 ……探るなら、今だ。 どこまでがこの子の言葉で、どこからが“上の意志”なのか。 「そうですか……では、今後は御社の体制についても、少しずつ理解を深めていかないといけませんね」  久米の指先が一瞬止まる。  ――成果を踏まえて、クライアントの目的を見直す。  頭の中で、反復する。 「……私もまだ異動して間もない身でして、大したことは言えませんが…… ただ、この件に関しては、単なる社内調整の問題ではなく、しっかりと成果を出すことを最優先に考えております」  資料をめくりながら、言葉を続ける。 「特に第一ロットの生産戦略については、いくつかのシミュレーションを経て、最もリスクの少ない処理案を選択しました」  清水は微かに眉を上げる。 「そうですか。……ですが、我々から見れば、 “成果を出す”のは御社の当然の責務であって、交渉材料ではありません」 「もちろんです」  久米は一拍置いて、まっすぐ清水を見つめる。 「だからこそ、あえてお伺いしたいのですが―― 清水さんが今回、重視されている“成果”とは、在庫をすべて処理することなのか、それとも次フェーズの定量維持なのか…… どちらでしょうか?」  清水は無言のまま、数ページ先のプランシートをめくる。 「……ところで」  指先で資料を軽く叩きながら、言う。 「こちらに記載されている、第一ロットの在庫500個―― 別販路での販売をご検討とのことですが、この商品に使用されている設計図、御社の社内デザイナーによるものですよね?」 「はい」 「つまり、このグラスの形状や厚み、底部のカーブ、  いずれも御社設計で、変更はされていない?」  久米の胸の奥がざわつく。 「……はい、その通りです」  清水の声は柔らかい。けれど、その言葉の隙間には鋭さがある。 「では、外販されるご予定とのことですが、仮に同一仕様ですと、当方としては若干の混乱が生じる可能性も考えられますが… 我々としては、将来的に当プロジェクトとの誤認が発生しないか、懸念せざるを得ません」  ――まずい。  ――商品そのものを突けば、実績ごと値を下げられる。  そういう手できたか。  久米は唾を飲み込み、できるだけ平静を装う。 「……この件については、山本が社内のデザインチームと協議済みです。 現段階では、商標回避の範囲で、 構造面に微調整を加える方向で進めています」  そう言って、資料から一枚の書類を取り出し、清水の前に置く。 「二次確認プロセスも進行中で、 必要に応じて法律代理からのリスク回避文書も添付予定です」 「それは御社内でご判断ください」  清水は茶を一口飲み、伏し目がちに続ける。 「私が求めているのは、最終的な結果だけです。 我々のブランドイメージに影響が及ぶ可能性も否定できませんので…… ただ一つの要望として―― 販売先が我々のブランドイメージに抵触しないよう、サンプルと流通チャネルの概要を事前にご提示いただけますか?」 「……承知しました」  久米はぐっと歯を食いしばり、心の中で  ――伊藤さん、時間稼ぎはこれでいいですか――  と叫ぶ。 「他にご質問は……?」  清水は椅子に背を預け、静かに久米を見つめる。 「……まあ、言うことは言えるようになったじゃないか」  久米は無言で、小さく笑ってみせた。  ――ここで余計なことは言わない。それが一番。 「なるほど。 ……理解はしました。ただし、それが“容認”を意味するわけではありませんが」  資料を閉じ、こう付け加える。 「では、こちらの立場も貴方から山本さんと伊藤さんにお伝えください。 来週木曜までに、正式なリスク回避補足案を提出していただきたい。 その説明は、責任者本人の口から聞かせてもらえればと」  ようやく、終わった。  久米は深々と頭を下げ、 「……ご理解、ありがとうございます」と呟いた。 「次は、ちゃんと責任者が来るといいですね、久米君」  吉田が冗談めかして笑う。  久米は微妙な顔で吉田に頭を下げ、資料を手早くまとめる。  ――疲れた……でも、とにかく……  ――無事に乗り切った。 ……今すぐ山本さんに会いたい。 ちゃんと褒めてって、言ってしまいそうで怖い。  久米の胸の奥に、ほんの少しだけざわつきが走った。吉田と一緒に清水を送り出したあと、黙って自分の荷物をまとめはじめる。  今日の会議で、心も体もすっかり疲弊してしまった。まさか清水という人間が、初対面の印象とあれほど違うとは――  あんなに柔らかい雰囲気をまとっていたのに、言葉はまるで刃のように鋭い。久米はノートパソコンを閉じ、それをバックパックに丁寧にしまい込んだ。  そこへ吉田が歩み寄ってきて、ぽんと久米の背中を軽く叩いた。 「いやあ、さすがだな。ますます久米くんをうちに引き抜きたくなるよ」  久米はさりげなく半歩身を引いて距離をとり、軽く頭を下げながら言った。 「とんでもありません。私など、まだまだです」  そして身体を起こし、柔らかく笑みを浮かべて続ける。 「優秀な上司に導いていただいているおかげで、ようやく少しずつ成長できているんです」  吉田の内心に、ふとした驚きが浮かぶ。たった一週間前とは、まるで別人のようだ――  久米という男が、どこか、山本という男に通じるものがある気がした。 (休日は……多めに……✨️)

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