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第39話 たまには、撫でてほしい
吉田のところを出た久米は、逃げるようにして自分の車へと戻った。
エンジンをかけると、全身の力が抜けたようにシートに沈み込む。
本当に、もう死ぬほど疲れた。今もまだ、脚が震えている気がする。
さっきまでのあの強がりな態度、相手に見抜かれてなければいいんだけど。
長く息を吐き、ネクタイを少し緩める。カーナビに映った時間をぼんやりと眺めると、もう二時間も経っていた。
スマホを取り出すと、一番上に山本からのLINEが届いていた。
「牛肉買ったよ。今夜はすき焼き。」
久米はすぐさま指を動かす。
「やった!!!」
返信を送って数秒と経たないうちに、伊藤から電話がかかってきた。
開口一番、会議のことでも、ミスがあったかどうかでもなく――
「……彼に会ったか?」
彼、とは。誰のことかなんて、聞かなくてもわかる。
久米はエアコンの風量を少し上げて、淡々と答えた。
「会いましたよ」
「怒ってたろ?」
伊藤の笑い声が、少しだけ長く尾を引いた。
「めちゃくちゃ怒ってましたよ。八つ当たりも全部僕に来ましたし。これ、どう補償してくれるんです?」
「……家帰って、晴にでも慰めてもらえ」
「……まだ工場にいるんですか?」
「ああ。しばらくは帰れそうにないな」
電話の向こうから、ライターの火をつける音が微かに聞こえた。
「じゃあな、切るぞ」
通話が切れた画面を見つめながら、久米はなんともいえない気持ちになる。
伊藤さん、俺が取引先でどうだったかなんて、気にもしないのか。
結果だって、何一つ聞いてこない――それほど、信頼されてるってことなのかな。
胸の奥が、じわっと熱くなった。
久米はシートベルトを締め、サイドブレーキを下ろす。
さあ、会議内容をまとめてさっさと帰ろう。今夜は、すき焼きなんだから!
マンションのエレベーターに乗りながら、久米は鼻歌まじりに浮かれ気分だった。
表示される階数を見つめつつ、どうやって山本に自分の今日の頑張りを自慢しようかと想像をめぐらせる。
――だけど、エレベーターが「チン」と鳴って扉が開き、自分の部屋へと向かう足取りは、徐々に重くなっていった。
自慢、って何を?
正直、清水にボコボコにされかけたじゃないか。
いくつかの質疑応答は、山本が事前に下書きに入れてくれていたものだ。もし、全部自分ひとりだったら――果たしてあそこまでできただろうか。
この世界に、ドラえもんでもいればいいのに。
そしたら一瞬で、自分を山本の隣にふさわしい存在まで引き上げてくれるのに。
鍵を回して玄関を開けると、暖色の照明が部屋をやさしく照らしていた。
――あのとき、電球を選ぶときに暖色を選んでおいてよかった。
ソファでは、山本が膝の上にノートパソコンを乗せてカタカタと作業している。
その光景だけで、もう充分すぎるほど心が和らいだ。
久米の帰宅に気づいた山本は、パソコンをパタンと閉じて「おかえり」と言い、キッチンの方へ向かっていく。
久米は上着を脱ぎ、ネクタイをささっと外して玄関のハンガーにかけた。
山本は、何も言わない久米の様子を見て、これは本当に疲れ切ってるな、と察する。
今はまず、晩ご飯をちゃんと用意してやらなきゃ。
コンロに火を点け、鍋にはすでに下ごしらえした具材が入っている。
手元の蓋をそっとかぶせようとしたとき――
背後から、ふわっと腕が回ってきた。
久米が山本を後ろからぎゅっと抱きしめ、顔を首筋にうずめてすり寄ってくる。
まるで、逃げられるのを恐れているように、その腕に力がこもっていた。
山本の香りが鼻先にふわりと広がる。
それだけで、ひどく安心した。
山本はそっと久米の腕に手を添える。
鍋のふたに水蒸気がぽつぽつと湧き始めるのを見つめながら、静かに言った。
「……シャワー浴びてきて。ご飯できるよ」
「……もうちょっとだけ」
そう答えながら、久米の手が山本のTシャツの裾をたくし上げ、中へと潜り込む。
「……」
山本は何も言わず、ただほんの少し眉をひそめただけだった。
指先が腹の肌をなぞる。くすぐったいような、でも嫌じゃない。
その黙認が、久米を安心させた。
そっと目を開けて、唇を山本の首筋に押しあてる。
ゆっくりと、小さくキスを落としていく。
体温が少しずつ上がっていくのがわかる。
指が胸元に届きかけたそのとき――
山本は、勢いよく久米を突き放した。
「……っ!」
驚いて久米はキッチンの収納に背をぶつける。
拒絶された、と思って身構えるが――
真っ赤な顔で山本は怒ったように言い放つ。
「……さっさとシャワー行けっ!!」
その一言に、久米は思わず小さく吹き出した。
「な、なに笑ってんのよ!」
さらに顔を赤くしながら、山本は久米の背中を押して浴室へと追い立てる。
ようやく久米をお風呂に押し込み、扉を閉めた後、キッチンに戻ると――
山本はそっと手を顔に当てた。
鍋の蓋を打つ泡の音と、お風呂から響くシャワーの水音。
そのどちらもが、今はやけにうるさくて、やけに静かだった。
――まったく、このガキは。ほんとにもう。
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