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第40話 清水の弱さ、伊藤の賭け

 伊藤は居酒屋の入り口で立ち止まり、一歩踏み出すか、一歩引くかを迷っていた。  実のところ、今日の午後、クライアントとの面会に出席したからといって、清水がこの約束に現れるとは限らないことくらい、彼にも分かっていた。だって、傷つけたのは――自分の方だから。  ガラリと居酒屋の扉が開き、店長が息抜きに外へ出てきた。ちょうど背を向けようとしていた伊藤を見つけて声をかける。 「伊藤さん、せっかく来たのに、一杯飲まずに帰るんですか?」  常連ならではの記憶力だろう。以前はよく山本と一緒に通っていたし、山本が酔っては騒ぐのも日常茶飯事だった。  伊藤は頭を掻きながら答えた。 「いや、ちょっと飲もうかと思ったんだけど……」 「中で、前に連れてきたあの方が待ってますよ」  店長の言葉に、伊藤の目が大きく見開かれた。  ――来ていたのか。  案内されて中へ入ると、カウンター席に清水が座っており、メニューをぼんやりと眺めていた。一日の仕事の疲れが、その横顔にはっきりと現れている。  ……いや、きっと仕事だけの疲れじゃない。  伊藤は清水の隣の椅子を引いて腰を下ろす。清水は視線を逸らさずに、伊藤がジャケットを脱ぐのを横目で見ていた。そして店長に向かってビールを二杯頼んだ後、独り言のように呟いた。 「さっきまで、逃げようとしてたんだ」  そう言いながら小さく笑い、自分もジャケットを脱いで椅子の背にかける。メニューから目を離さず、また呟く。 「まんまと騙されたなって思ってる。――自分がね」  二人の間に沈黙が落ちた。ようやく店長がカウンター越しにビールを渡してくれたとき、ようやく会話が再開される。 「最初から、私が担当だって知ってたんだろう?」  清水はビールを一口飲んでそう言った。 「いや、正確に言うと、確信がなかった」  伊藤はグラスを傾けながら答える。 「いい男に出会ったと思ったんだけどな」 「……結局、そういうのに弱いんですね。 ――悪い男、ってやつに」  清水が笑うと、店主がつまみを持ってきた。伊藤はその小鉢を清水の前に置いて言った。 「これで謝罪になる?」 「店長がくれたんでしょ、真吾のおごりじゃない」 「……でも、清水さんをこんな気分にさせたのは俺だから。店長も気を使ってくれたんだよ」 「……屁理屈」  清水は一気にビールを飲み干し、店長に向かって言った。 「焼酎、一合」  それを遮るように、伊藤が言う。 「いつものやつで、お願いします」  店長は笑って「わかってますよ」と言いながら、奥へと引っ込んだ。  酒で紅く染まった清水の頬を見て、伊藤は自分の袖のボタンを外し、腕を出して冗談を飛ばす。 「あとで酒癖出して暴れないでくださいよ?一応、職務上の自制は必要なんで」 「ふふ、」清水は乾いた笑いを漏らして答える。 「私を誰だと思ってるんだよ」  伊藤の手が清水の耳元をかすめる。やや跳ねた髪が、掌にくすぐったい。 「清水さんは、清水さん。俺は、清水さんを誰かに重ねたことなんて、一度もありませんよ」  清水は一瞬、目を細めた。酒のせいか、その言葉のせいか、自分でもよく分からない。ただ、今は、何もかもが曖昧で。  長く役所に勤めてきた。いろんな人を見てきた。自分が公務員だと知ると、大抵の人間は取り入ろうとしてくる。  でも、目の前のこの人だけは――少し、違う気がした。  清水はため息をつき、店長から焼酎と小さな盃を受け取ると、自分で注ぎながら目を伏せて呟いた。 「この案件が潰れたら――私を騙して遊んでたって、そういうことになるんだよね?」  伊藤はそっと清水の背に手を添え、その耳元に顔を寄せ、低く囁いた。 「俺、公私混同はしない主義なんで」  清水はその吐息に目を細めながら、 「……全然説得力ないね」 と、淡く言い返す。  そして盃を仰ぎ、温い酒が喉から胸へと落ちていく。その感触は、重くて、息苦しい。  伊藤が酒を注ぎ足すと、清水はゆるりと彼の肩に頭をもたせた。 「今日は、本当に手を抜いてないんだ」 「……あいつ、優秀な後輩だもんな」 「見れば分かる」 「清水さん、あいつに惚れたりしないでよ」  清水は顔を上げ、伊藤の瞳をじっと見つめる。 「私が好きなのは、上に乗ってくるような人だけじゃないから」  そう言って、そっと伊藤の唇に触れる。柔らかく、軽く―― 「勘違いしないで、今日はただ……疲れてるだけ」  清水は伊藤に注がれた酒を一口で飲み干し、椅子の背からジャケットを手に取ると、背中の手をそっと振り払って立ち上がる。 「……来週の会議、あんまり待たせないでよね、真吾」  清水はそのまま居酒屋を後にした。  伊藤は、まだ半分残った焼酎の壺を見つめながら、そっと目を細めた。   「……じゃあ、次の会議では、俺が“上”ってことにしましょうか」  ふざけた口調の裏に、本気の決意が少しだけ混じっていた。

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