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第42話 僕らの輪の中に
早朝から久米は会社に顔を出していた。今日はやることが多く、家を出る時には山本はまだ眠っていた。
外はあいにくの雨模様で、どこもかしこも湿気だらけだ。不快極まりない。
傘を畳んでいると、伊藤も会社の玄関をくぐってきた。
「おはようございます」
久米が振り向いて声をかける。
「うわ、お前もこんな早いのか」
伊藤は傘を傘立てに入れながら、力ない声で言った。
伊藤のほうが早く来るなんて珍しい、と久米は内心思う。ふとその目元を見ると、うっすらとクマができていた。
「……何かやましいことでもして、眠れなかったんですか?」
「……誰にそんな口の利き方教わったんだよ」
伊藤は久米の頭をくしゃりと撫で、先にエレベーターへと歩を進めた。
二人はエレベーターの対角線に立ち、沈黙の中で上昇していく数字を見つめていた。数十秒の時間が、久米には何分にも感じられた。
扉が開いた瞬間、彼は逃げるように先に出た。
伊藤は欠伸をしながら言った。
「財務のメガネがまた何か言ってくるから、覚悟しとけよ」
「……は、はい……」
久米は小さく返事をし、思わず手に力が入った。
ーー仕事って、まったく気が抜けないな。
それより、家で山本と甘い時間を過ごしてる方がずっと楽しみだった。
彼はPC画面に表示された企画書を睨みつける。まだ九時前だというのに、早く今日の業務を終わらせて帰りたい気持ちでいっぱいだった。
「ピン――」
「ピン――ピン――ピン――」
PCの通知音が鳴った。目を上げると、新しいグループチャットに招待されていた。
メンバーは自分、山本、伊藤、そして昨日話題に上がった他部署の三名と、見覚えのない数名。
戸惑っていると、最初の発言が流れた。
「来週月曜午前十時より、『市政連携配布品第一期対応・生産修正会議』の進捗確認会議を実施します。該当メンバーは各自の進捗を報告できるようご準備ください。」
発言者の名の横には「財務・浅間」の表記。
ーーああ、あのメガネか。
久米はその文面を二秒見つめ、さらにスクロールした。
「会議前までに以下の対応をお願いします:①現行代替案の実現可能性評価、②予算見積および特許帰属の明示、③生産進捗および人員体制の報告。会議当日の比較・次期移行の判断材料とします。」
「特許」という文字を見て、久米の眉がひそめられた。やはり避けては通れない難題だ。
「また、第一期配布品に関するフィードバックの処理状況も会議内で説明予定。山本主任および伊藤責任者より初期対応についてご報告いただきます。」
ーーなんだか、名指し批判の気配があるような……いや、考えすぎか?
「質問等がある場合は、本日正午までに当チャットで共有ください。午後二時よりチームMTGにて会議資料を整理いたします。」
久米はスタンプをひとつ送り、デスクのコーヒーをひと口すすった。
ーー月曜会議って、要するに晒し上げじゃん……
カップの中の真っ黒な液体を見つめながら、眉を寄せた。
その時、LINEがまた鳴った。画面には「山本」の名前。
「了解。午後から出社します。」
ーーええっ、ダメだって!昨日は体調回復したって言ってたけど、いきなり高圧案件は……!
久米が唇を噛んでいると、浅間の返信が表示された。
「ご体調がすぐれないようでしたら、月曜からの出社でも問題ございません。」
ーーこいつ……っ!
久米は怒りに満ちた視線で浅間のアイコンを睨みつけた。
山本の返信もすぐに来た。
「ご配慮ありがとうございます。それでは、午後にお会いしましょう。」
ーーはあ……山本さんってほんとに……
もし今隣にいたら、思いっきり抱きしめてわしゃわしゃしてやりたい。
「……あの」
ふと、隣から遠慮がちな声がした。目を開けると、やや小柄でキリッとした印象の男性が名札を指し示していた。
「久米くん、初めまして。デザイン企画部の村田隼人です。よろしくお願いします」
久米は慌てて立ち上がり、深く一礼した。
「は、はじめまして!第二営業部の久米悠人です。どうぞよろしくお願いします!」
村田はにっと笑い、手に持った資料を久米に差し出した。
「山本主任から頼まれてた設計図、ざっとでいいから見といて。問題なければこれで進めるって話だ」
久米が資料を慌ただしく読み始める横で、村田は愚痴混じりに続けた。
「いやー、山本主任って俺の同期なんだけどさ、ほんと人使い荒くて。おととい急に話されて、昨日になっていきなり図面要求されてさ……夜通しで作ったわけよ。今日はゆっくりする予定だったのになぁ、午後チームミーティングあるし……」
どんどん声が小さくなっていく。ちらりと久米の手元を見ると、資料を持つ手が微かに震えていた。
「もし……合わないところがあったら、言ってくれていいから……」
「これ、最高です!完璧です!!すぐこれ持ってエイス製作所行ってきます!!」
久米は目を輝かせ、村田の手をガシガシと握った。
クライアントのデザインは発注側の原案を簡素化し、装飾も極めてミニマル。これが山本からの条件に応えた設計なんだ――そう納得させられる出来だった。
「ありがとよ」
村田は笑いながら手を引き抜き、久米の背を軽く叩いた。
「何かあったら、俺に言えばいいから。俺は山本主任側の人間だからな」
久米の目頭が熱くなり、深々と頭を下げた。
「本当に、ありがとうございます!」
少し離れたところで、伊藤がその様子を見ていた。欠伸を噛み殺し、目元の涙をぬぐうと、村田がこちらを振り向いて親指を立てた。
村田が去った後、伊藤が手にしていたMOQ協議用の資料を久米に手渡した。
久米は驚きと感動で混乱していた。これって、昨日山本が言ってたあの件では……?
「昨夜ずっと考えてさ、いくつかパターンをまとめてみた。お前のちっちゃい脳じゃきっと“考えてるけど言語化できない”ってなりそうだし、現場入る前に読んで、頭を整理しておけよ」
「……ありがとうございます、先輩」
ーー伊藤さんのクマ、これ作るためだったんだ……
「俺と晴は、ここまでが限界だ。俺は午前中シーブイ工場の納期対応、午後はエイス製作所で所長と詰めの話をしてくる。その前は、お前にかかってるぞ、久米くん」
久米の胸が「ドクン」と鳴った。伊藤の声から、初めて“全面的な信頼”を感じた気がした。
「はい!」
背筋を伸ばして答えると――
「おおっ、なんだなんだ真吾が急にまともになってんじゃん、ビビるわ~」
入り口から陽気な拍手とともに現れたのは、聞き覚えのない声の持ち主。
伊藤と同じくらいの高い背丈だが、より軽妙で人懐っこい雰囲気の男だった。
「黒瀬主任、お帰りなさい」
伊藤が軽く会釈しながら、すかさず皮肉を飛ばした。
「主任がいない間、俺が品質検査の対応で死にそうでしたよ」
「だから急いで戻ってきたんだよ」
黒瀬はにこやかに答え、続けて言う。
「今日のお前の予定は全部俺も同行する。ついでに、山本がまとめた新しい検品プロセスも見せてもらうぞ」
そして久米に視線を向け、ニヤリとした。
「ふーん、これが例の、みんなを嵐の渦に突っ込ませたって噂のガキ?」
久米の背筋に冷たいものが走った。
黒瀬の視線が、自分の過去の全てを覗き見ているような錯覚に襲われる。
「す、すみませんでしたっ!!」
反射的に頭を下げていた。身体が勝手に動いた。
「からかうなよ」
伊藤が久米の肩を軽く叩いた。
「ミスの責任は皆で取るもの。こいつは、今や我が部のエースだよ」
「はーいはーい」
黒瀬はのらりくらりとした口調で続けた。
「じゃ、今夜はエイス製作所の所長を誘い出して、俺と一緒に接待すっか。そうすりゃ話もまとまるだろ?」
ーーえ?そういう流れ!?
久米は目を丸くした。伊藤は苦笑しつつ、黒瀬を自席へと案内する。
その様子を眺めながら、久米はふと気づいた。
ーーあれ……今、なんか……会社の一員って、感じするな……
手には村田からもらった設計図と、伊藤のまとめた交渉資料。
耳には黒瀬の世間話、LINEでは浅間が相変わらず指示を飛ばしている。
どれもこれも、微妙に熱くて、じんわりとあたたかい――久米の胸を満たしていた。
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