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第43話 前だけを見て、進む

※ 今回以降からは、ただの社内恋愛では済まされない―― 彼らの“職場人生”を懸けた、本格的な職場戦争が始まる。 過去の因縁、交錯する思惑、そしてそれぞれの選択。 群像劇として動き出すチームのなかで、 伊藤と山本の過去と未来、 久米と山本の関係は、どこへ辿り着くのか――。 支えること、守ること、背負うこと。 それでも、「一緒にいたい」と思えるか? どうか、このふたりの最後を、見届けてください。 【本編】  工場の上部に並んだ小窓から射し込む陽光が、斜めに作業台の上へ落ちていた。  さまざまなガラス製品が並ぶサンプルテーブルでは、滑らかな曲線と透明な光の反射が入り混じり、目を開けていられないほどのまぶしさを放っていた。  久米は緊張した面持ちで、新たにデザインしたグラスの図案を差し出した。  柴田工場長は煙草を咥えたまま、視線をこちらに向けずにそれを受け取る。まだページも開かないうちに、くぐもった声で言った。 「前に決めた図案、変えるって話じゃなかったよな?」  その乾いた声音に、久米の胸がぎゅっと縮まる。 ーー山本さんなら、どう返すだろう。  一瞬そんな考えが頭をよぎるも、すぐに振り払って、久米は自分の言葉で切り出した。 「以前の案では配慮が足りていなくて……すみません、もう一度見直させてください」 「ふん、うちは小さいが、何でも君の言いなりってわけにはいかんぞ」  柴田の眉がぴくりと動いたのを見て、久米はすぐに頭を下げた。 「申し訳ありませんでした……!」  柴田は鼻から息を吐くと、ざっと図案をめくりはじめた。久米はおずおずと顔を上げ、サンプル台に並んだガラスコップの美しさに目を奪われた。この工場の仕上がりには、確かに独自のこだわりと安定感がある。  しばらくして、柴田がしゃがれ声で言った。 「若いの……この図案、デザイン自体は悪くないな。だいぶすっきりしてる。ただ、加工法が変わるから、金型を新たに起こす必要がある。 そうすると一個あたりのコストが君の言ってた予算をオーバーする。最低発注数(MOQ)も成立しないぞ」  久米の肩が、まるで空気の抜けた風船のようにしょんぼりと落ちた。 「分かってます……工数を圧縮しても、予算内には収まりませんでした」  柴田は彼をちらと見たが、それ以上は言わず、静まり返った室内には壁の時計の秒針の音だけが響く。  何も言えずにいた久米のポケットで携帯が震えた。伊藤からの電話だった。  柴田は煙草を灰皿で潰し、新たに一本火をつけながら手を振る。 久米は「失礼します」と頭を下げて、部屋の隅へ移動して通話に出た。 「久米くん、シーブイ工場の件でちょっとした進展があるんだけどーー」 そう言いかけた伊藤の声が急に途切れた。 次の瞬間、電話の向こうから、低くて太い声がぐっと割り込んでくる。 「おい、ガキ。聞こえてんだろ。これから言うこと、ちゃんと頭に叩き込め」 久米の背中に、冷たい汗がじわっと滲んだ。 黒瀬ーーシーブイ工場の現場責任者。陽気で雑談好きに見えて、ひとたび現場が絡めば容赦のない現実を突きつけてくる、いわば“現場の壁”のような男。 「……久米ですけど」と、久米はつい、小声で返していた。 「はいはい、久米くん。第三ロットの検品が終わったぞ。第二ロットと合わせて不良数は320個だ」  その数字に、久米はぞっとした。第一ロットの120個もまだ処理しきれていないのに、今度はそれ以上?  黒瀬は落ち着いた口調で続けた。 「山本主任が提示した新しい検品フローに基づいて、第二・第三ロットについては300個までの補填をうちで対応、それ以上はシーブイ工場負担になってるからな」  久米は、一瞬、言葉を失った。 山本さんの提案が、いつの間にかもう実行段階に入っていたのだ。 ……やっぱり、この人は早い。もう、動いていたんだ。 その事実に、少しだけ胸が痛んだ。 けれど同時に、不思議と気持ちが軽くなるのを感じた。 まるで、「もう迷うな」と背中を押されたような気がして―― 「ーーその件、俺が責任を持って処理する。悠人には、前だけを見て動いてもらわないと困る」  一瞬、電話の向こうから聞こえたその声に、久米の心が揺れた。  山本だ。  不意に胸が熱くなって、視界がかすんだ。  「おい山本、勝手に電話取んなよ」「晴、今の絶対言いたかっただけやろう」「ていうか二人はいいから!俺が品質担当だろう、俺に代われよ、久米ー!」  わちゃわちゃとした声が受話器越しに響く。  ーー三人で一緒に、電話の前にいるのか。  思わず笑ってしまいそうになりながら、久米はそっと目元を拭った。 でも、それで問題がすべて解決したわけじゃないーー やっとスマホを手にした黒瀬が、半ば投げやりな調子で言った。 「あと、不良品は全部うちで回収ってことで」  ……契約数量は620個。そのうち420個をシーブイ工場に不良補填で回し、残り200を新図案でエイス製作所から出す。  ーーでも、それじゃMOQに届かない。久米の頭の中は混乱していた。もはや交渉の余地があるのかすら自信がなかった。  電話の向こうから、伊藤と黒瀬が言い争うような雑音が聞こえ、少し間を置いて伊藤の声が戻ってきた。 「昨日渡した案、ちゃんと読んだか?……よく考えて、今どう動くか決めろよ」  そう言って電話は切れた。  ーーやっぱり、今回の鍵はMOQか。  山本も言っていたし、伊藤も口酸っぱく言っていた。財務に通らなければ、どんな交渉も水の泡だ。  久米は目を閉じ、伊藤が列挙した案をひとつずつ思い出し、検討しては除外していった。  電話をしまうと、柴田が煙をくゆらせながら声をかけてきた。 「どうした?状況が変わったか?」  久米はぱっと顔を上げ、サンプル台に駆け寄ると、勢いよくまくし立てた。 「ーーこの新しいデザインも、クライアントの既存分に混ぜて、既存の金型をベースに細部を調整すれば……一括製造としてMOQを満たせませんか?」  柴田は一瞬目を見開き、眉を上げた。 「……頭の回転は速いな。つまりーー一方は従来の図案、もう一方は簡略化した新デザイン。同じ大枠の金型で、細部だけ調整して、あくまで“一ロット”として扱うと」  柴田は図案を一枚引き抜き、顎の無精髭をさすりながらぶつぶつと呟いた。 「……旧型は底に微妙な波紋があるけど、新図案は複雑な曲線を削って、簡素なカットだけ残してる。これなら、金型の修正も最小限で済むか……」  久米は食い入るように頷いた。 「製法は素人ですが、論理的には同梱できると思います。柴田さんに損が出ない範囲でやれれば、金型費用も抑えられます」  柴田は図案を閉じ、灰皿の縁でタバコを強く弾いた。火の粉がパチ、と弾ける。空気がすっと重たくなる。   「ーー若いの、商談をそんなに甘く見るなよ。現場の現実は、机上の空論じゃ動かん」  その低く抑えた声に、久米の喉がひくりと鳴った。    柴田はしばらく久米をじっと見つめていたが、ふっと口角を上げて笑い出した。 「伊藤のやつに毒されたな。言い回しまでそっくりだ」 「それは……お褒めとして受け取っておきます」  柴田はサンプルの一つを手に取って眺め、ため息混じりに言った。 「……まあいいか。伊藤さんには過去に世話になったし、今回は貸し一つ返すと思えば。君の案、通してやるよ」  柴田は図面の山を指差しながら続けた。 「使うのは三案目の図だ。余計な変更はするなよ」 「本当に、本当にありがとうございます……!」  久米は深々と頭を下げた。 「で、その新しいサンプル、何個欲しいんだ?」 「……200個でお願いします!」 「了解。契約はいつ取り交わす?」 「いったん持ち帰って報告して、今日の午後に伊藤がこちらへ伺います。そのときに」 「よし、それまでに試作を進めておく。契約が確定したら即着手するが、途中で仕様変えるのは認めないからな」 「……はい、ありがとうございます!」  久米はようやく息をつきながらも、まだ不良品の山を思い出して、表情が曇る。  柴田はその様子に気づき、ぽつりと尋ねた。 「まだ何かあるのか?」 「……あの、実は……」と、久米は言い淀む。不良在庫の話を出すのは気が引けた。 「その……他工場から不良品を回収することになって……」  柴田はため息をつきながら、サンプルのコップを布で拭きはじめた。落ち着いた口調だが、その言葉は久米の心に深く沁みた。 「ガラスの器ってのはな、必ずしも“飲むため”のもんじゃない。棚に飾る“作品”にもなるんだよ」 「……えっ?」  柴田はゆっくりと言った。 「少し前に、大学の教授がうちに来てさ。生徒たちが“創作素材が足りない”って言ってたらしくて、“ちょっと失敗したけど美しい”みたいな品が欲しいって相談されたんだ」  久米の表情が、戸惑いから希望へと変わっていくのを見ながら、柴田は続けた。 「不良品、そっちに回すってのはどうだ?学生は創造を、君はその背景を語ればーーそれも一つの価値になるだろ」 「本当に……感謝してもしきれません!!」  久米は何度も頭を下げ、言葉では言い尽くせない思いを込めて礼を述べた。 久米は込み上げるものを堪えながら、深く深く頭を下げた。  そのあと彼が喜び勇んで車へ戻っていったのを見届けてから、柴田はふと笑みをこぼした。  部屋のドアが開き、社員の一人が心配そうに声をかけた。 「……社長、伊藤さんは別ですが、あの子はまだーー」 「若い連中が本気だと、俺たちも背筋が伸びるんだよ」  柴田はそう呟いて笑みを浮かべた。  ーーでも、次はそう簡単にはいかんけどな。

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