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第44話 ネクタイと弁当と、ちょっとだけ恋の顔

 久米は会社に戻ると、村田に確定した設計図を送信し、LINEでやり取りをしながら、午前中にエイス製作所で得た報告をパソコンでまとめ始めた。  午後からのチームミーティングと月曜の全体会議では、この資料が鍵になる――そう信じていた。  集中しすぎたせいで、背後に誰かが立っていることにも気づかなかった。  山本が、彼の打ち込む文字列を静かに見つめていたのだ。画面に映る言葉の一つ一つを追いながら、山本の眉間には、かすかな緩みが浮かんでいた。  最後の句点を打ち終えた久米は、大きく背伸びをした。  ――やっと、終わった!  仕事を始めて以来、こんなに達成感に満ちた瞬間は初めてだった。 「久米くん」  小金がそばにやってきて声をかける。 「主任が、久米くんを呼んでるよ」 「えっ?!」  久米は椅子を跳ねるように立ち上がり、慌ててパソコンの時刻を確認した。すでに13時を過ぎていた。  いつの間にか夢中になっていて、昼ご飯も忘れてしまっていたのだ。 「主任、もう戻ってきたんですか?」 「来てからしばらく経ってますよ」  小金は彼の資料を覗きこみながら言った。 「印刷、必要なら手伝いましょうか?」 「あ、ありがとうございます。じゃあ、6部お願いできますか。僕は先に行ってきます」  小金は軽くうなずき、「がんばってくださいね」と声をかけた。  主任室へと向かう途中、久米はその「がんばって」という言葉の意味を考え込んだ。  まだ周りからは、叱られてばかりの使えない久米だと思われているのかもしれない。  だが、心の中では鼻を高く上げ、叫んでいた――  もう、あの頃の俺じゃないんだからな! 主任室にいるのは、俺の彼氏だぞ!!  そうは言っても、いざ主任室の扉を開けて、山本の前に立つと、やはり緊張してしまう。  部屋の片側にあるブラインドはすべて開けられており、差し込む光が山本の手元の書類に落ち、淡く交差していた。  山本は手にしていた書類を置いて、こちらに顔を向けた。 「もう終わったのか?」 「……はい」  久米はつい、唾を飲み込む。  シャツ姿の山本を見るのは久しぶりだ。ただ服が違うだけなのに、どうしてこんなに雰囲気が変わるのだろう。 「まだ昼飯食ってないだろ?」 「……忘れてました」 「来い」  山本は屈みこみ、背負っていたバッグのファスナーを開けると、中から袋を取り出した。中身はコンビニの弁当だった。 「さっき下で買ってきた。さっさと食え。じゃないと――」  気がつけば、久米はすでに山本のそばに立っていた。  顔を上げた山本の視線の先に、うるうるとした久米の瞳があった。思わず一歩引き、顔をしかめる。 「……そんな目で見るな」 「うれしすぎて……」  久米は顔を両手で覆った。 「……ただの弁当だろ。そんなに喜ぶことか?」  山本は呆れたように眉をひそめた。  久米が身をかがめる。  山本はキスされるとでも思ったのか、あわてて身を引き、肘が椅子の背にぶつかりそうになった。 「……ま、待て!ここは会社だぞっ!」  その早口は、タイプライターのようだった。 「主任、これ」  久米はまるで何も聞こえていないかのように、山本のネクタイの先端をつまみ、その光沢のある布地を親指でそっとなでた。 「僕のネクタイですよね」  山本の動きが一瞬止まる。目線がわずかに泳いだ。すぐにネクタイを引き抜き、弁当を久米の手に押し込んだ。 「クローゼットで見かけて、いい感じだったからつけただけだ。大した意味はない。弁当持って、さっさと自分の席で食え。あとでミーティングがあるんだ、遅れるなよ」  そうして久米は主任室を追い出された。小金が振り返ると、何も持たずに入っていった久米が、なぜか弁当を抱えて、にこにこと笑いながら戻ってくる姿が見えた。 幕間小劇場 Vol.4 「小金、気づく。『あの二人、やっぱおかしい』」 ※本編の内容とはたぶん関係ありません。 たぶん。  昼下がりの職場。来週月曜日の総会議に備え、フロアはどことなく緊張感と眠気が入り混じった空気に包まれていた。  コピー機の前で印刷された資料をそろえていた小金は、ふと主任室の扉が開く音に振り向いた。  久米が出てきた。  それ自体は珍しくもない。だけど―― あれ……?  両手に弁当を抱えたその姿が、やけに幸せそうだったのだ。  目元はゆるみ、口元はふにゃりと笑っていて、あのいつもビクビクしていた久米が、まるでデート帰りの雰囲気を纏っていた。 ……え? なに? 今、主任室でなにか……あった?  久米は小金に軽く会釈をし、自分の席に戻っていった。  資料の印刷を頼まれた時の、あの緊張した様子とは別人のように、肩の力が抜けていた。  小金は目をしばたたきながら、疑念を抱えたまま資料をまとめ、久米の席にそっと置いて戻ろうとした――そのときだった。 「小金さん」  後ろから呼び止められ、振り向く。  山本主任だった。  昼休み明けらしく、ジャケットを着ておらず、シャツ姿のままゆっくりと歩いてくる。 「さっき助かった。資料、ありがとう」 「いえ、すぐ終わったので」  そう言いかけて――ふと、山本の首元に視線が止まった。 ………………あれ?  そのネクタイ。見覚えがある。いや、見覚えどころじゃない。 あれ、久米くんの“勝負ネクタイ”じゃない!?  前に休憩中に、「このネクタイ、母が買ってくれたんです。気合い入れたい日に使ってます」って笑って話してたやつだ。  よく見れば、細かいチェックと深いネイビーブルーの織り柄、間違いない。 いやいやいや……主任が、なんで……? もしかして間違えて持ってった? でも、そんな偶然ある?  ていうか、ネクタイってそんな気軽に共有するもん?  脳内に“よからぬ可能性”が次々と浮かんでは消えていく。 朝、一緒に出てきた?  クローゼット、同じとこ使ってる?  むしろもう一緒に住んでる?? ……いやいやいやいや、でも、もしかして――  ぐるぐると思考を巡らせる小金の耳に、主任の声が届く。 「……?どうかしたか?」 「え、あ、いえっ、なんでもっ!」  思わず背筋を伸ばして首を振った。主任は不思議そうに眉をひそめ、軽く会釈してそのまま通り過ぎていった。  小金は一人、心の中で叫んだ。 あのネクタイは、久米くんの“勝負服”。それを、主任が―― 共有してる=信頼関係がある=プライベートでも何かがある=つまりこれは……尊いッ!!!  がさごそとポーチをあさり、手帳を取り出す。  ――“主任×久米、進展フラグ(ネクタイ共有)確認”  メモした瞬間、小金の胸が高鳴った。 まずい……この会社、推せる……

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