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第47話 夏の夜に揺れる想い
伊藤が車を社の駐車場に戻すと、黒瀬はドアを開けて車から降りると同時にジャケットを脱いだ。
この蒸し暑い夏の夜は、まったくもって不快なものだった。
先に歩き出した彼は、後ろからついてくる伊藤に声をかけた。
「まさか、エイス製作所のあの頑固爺さんがあそこまで意地張るとはな」
「それ、黒瀬さんが嫌われてるだけで、俺には関係ありませんけど。」
伊藤もジャケットを脱ぎ、スマホを確認した。
もうすぐ21時だった。
「今日はやけに突っかかってくるな、お前」黒瀬は振り返って言い、伊藤を不思議そうに見た後、はっとしたように言った。
「あー分かった。俺が他の工場回ってこっちに迷惑かけたから怒ってんだろ?」
「気づいてくれるなら、それでいいです」伊藤は肩をすくめ、「もう皆飲み始めてますよ。今行かないと遅れます」
「駅前のあそこだろ。お前と山本、昔からよく行ってたよな」
「……それは昔ですよ」伊藤は小さく笑った。
黒瀬は、何かを確かめるように伊藤の肩に腕を回し、声を低めて言う。
「でもさ、山本ならもっと上手くやれただろ。なんで久米くんの案を通したんだろな?」
「……さあな」
「お前さ、責任者だろ?今回山本は部長指名だとして、止める時は止めるべきでは?」
「……俺が止められるなら、とっくに前から止めますよ」
それは、ずっと山本を止められなかった男の、答えだった。
「山本があの子をあんなに庇うなんて、お前の時よりも、ずっと本気なんじゃないか?」
その一言に、伊藤は腕を払うこともせず、ただ黙って歩き続けた。昨夜ろくに眠れなかった身体は、妙に重く、熱っぽい。
「それ以上言うと、マジで傷ついて泣きますよ」
黒瀬は一瞬驚いたような顔をした後、笑いながら手を離した。
金曜のこの時間帯、街は人であふれ返っていた。誰もが一週間の疲れを今夜に置き去りにしようとしているかのようだった。
二人は駅へと歩き出し、その間を夜風がすり抜けていった。
黒瀬がふと足を止めると、伊藤は不思議そうに振り返った。その耳に、黒瀬の珍しく真剣な声が落ちた。
「山本はさ、もしかして最初から、全部の責任を自分一人で背負おうとしてたんじゃないのか?」
伊藤は肩からずれ落ちかけたジャケットを引き上げながら、ため息まじりに言った。
「……さあ、どうでしょうね」
「――あの子、そこまでして守る価値があるのか?」
黒瀬が一歩前に出ると、伊藤は大きなあくびをしながら歩を進めた。
「恋ってのは、そもそも盲目的なもんですよ。特に晴は」
そんな冗談めいた言葉を口にしても、伊藤は笑わなかった。なぜならその言葉には、どこか本気が混ざっていたからだ。
「あんまり無理させたら、取り戻せないことになるからな。いっそ山本を主任室から追い出して、責任者室に塗り替えたら、どう?」
黒瀬は冗談っぽく言ったが、その声にはわずかな憂いが含まれていた。
「勘弁してくださいよ。俺はみんなの近くにいる方が好きですし。あの部屋、晴のままでいいです。」
口に出した言葉は軽かったが、その胸には言葉にできない重みがしっかりと根を張っていた。足取りは重く、それでも前へと進むしかなかった。
「やっと来たか!」
居酒屋に入ると、真っ先に村田が二人を見つけて手を振った。
黒瀬は軽く会釈し、伊藤と並んで席に着く。久米がすぐに身を乗り出して聞いてきた。
「柴田所長はなんて言ってました?」
「お前の伊藤先輩が出馬したんだ、問題なんかあるわけないだろ?」
黒瀬は久米の額を指で軽く押した。久米は伊藤の方に顔を向け、期待に満ちた目で見つめた。
「わんちゃん、飼い主のとこ行ってな。大人の酒の邪魔しない」
伊藤は久米を軽く抱えてくるっと回し、そのまま山本の席へと押しやった。
居酒屋の店内は明るく、テレビでは野球中継が流れていた。店主は厨房で忙しく、店員はドリンクを慎重に運びながら細い通路を行き来していた。
「聞いてよ」
村田が店員から受け取った酒を二人の前に置きながら言った。
「久米くん、山本に一滴も酒を飲ませないんだってさ」
「自分は結構飲んでるくせにね」
大平が隣から補足した。
「まあ、怖がってんでしょ」
伊藤は黒瀬とグラスを合わせてからビールをひと口。ようやく身体の中が生き返ったような気がした。
「ところでさ」
大平も椅子を引いて座り、そっと黒瀬と乾杯しながら聞いた。
「村田、お前と久米が着替えに行ってたとき、あの子、何か言ってた?」
その場にいた三人の視線が村田に集まった。彼はテレビのホームランを見つめながら言った。
「いや、特に何も。ただ、なんとなく察してるとは思うけどね」
「お前の芝居が下手すぎんのがバレたんじゃね?」
黒瀬が笑った。
「もう、どうでもいいじゃん」
伊藤は酒を掲げて、店の隅の座敷席を指さした。
「だってさ、今の二人、すげぇ楽しそうだろ?」
みんながその方向を見た。
久米は身振り手振りで何かを熱心に語っていて、山本はただウーロン茶を片手に、それを静かに聞いていた。
この世のすべては、あの二人に関係ないかのように見えた。
「……まあいいか。今が幸せなら、それが本当の幸せだよな」
黒瀬は泡の浮いたビールをそっと吹き飛ばし、静かに言った。
飲み会が終わると、一行はそれぞれの行動へと散っていった。村田と黒瀬は先に帰り、伊藤は大平の車に乗って会社へ戻る。
久米はというと、ふにゃふにゃに酔っ払ったせいだから、山本に支えられながら、自分のマンションまで歩いて帰った。
玄関先で、山本が手慣れた様子で鍵を開け、電気をつける。その背中に腕を回し、ぴったりとくっついた久米は、くすりと笑ってこう言った。
「もしかして……もう、ここに住むつもりなんじゃないですか?」
「靴、脱いで」
山本は久米の手をやんわりと外し、鞄を持ったままリビングへと入っていく。
久米は言われた通りに数秒で靴を脱ぎ、そのままフラフラとソファへ倒れ込んだ。
抱き枕を胸に抱いたまま、うっすらと目を開けると、山本が自分の鞄からあのコーヒーで汚れたシャツを取り出し、洗面所に向かっていくのが見えた。
「放っといてくださいよ……シャツ一枚くらい」
久米は身を翻しながら、ぼそりと呟いたが、山本は無言のまま蛇口をひねった。
温かい水が汚れに染み込み、茶色く滲んだ縁がじわじわと広がっていく。
今、洗う必要は――本当はないかもしれない。
ただ、こうして放っておいたら、もう二度ときれいにはならない気がした。
山本は漂白剤を三回吹きかけ、白い泡がじわじわと茶色の中心を溶かしていくのをじっと見つめる。
そのとき、肩に重みがのしかかり、鼻を突くアルコールの匂いがふわりと広がった。
久米が山本の首筋に顎を乗せ、半分酔った目で洗面台の中のシャツを見つめながら言った。
「……ほんとに、いいってば」
返事をせず、山本は静かにシャツを揉み洗いする。汚れは少しずつ落ちていくが、手にはなぜか力が入らない。
鏡越しに見える久米の顔。その視線を感じながら、山本は小さく呟いた。
「……明日の映画、覚えてます?」
「覚えてます」
久米は腕を回して山本の腹を抱き、顔を寄せる。
唇が耳に触れそうな距離で囁かれるその声に、山本の指がシャツを絞る動作を止めた。
水が指の間から滴り落ちる。
背後の久米を引きずるようにして、山本は洗濯機の前まで移動し、シャツを投げ入れた。
「映画観たら、自分の家に戻る」
何かを言おうとした久米だったが、口を開きかけたまま、言葉が続かなかった。
その代わりに、そっと背中に再び体を寄せ、息を耳元に吹きかける。
予想の範囲内だ――そう思っていた。
累計1500PVありがとうございます!
まだまだ未熟な二人ですが、これからも見守ってくださると嬉しいです
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