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第50話 手を出さずに、手を引く

 グラスの中で、アイスコーヒーがゆっくりとかき混ぜられている。  氷同士がぶつかり合い、かすかな涼音を立てる。耳を澄まさなければ聞こえないほどの小さな音だ。  清水は耳元にかかった前髪を指先で払い、ふとピアノ演奏に目を向けた。  美しい旋律が空間に広がる中、無意識に小さくため息をつく。  ――こういうの、好きな人もいるんだろうな。  ネクタイの結び目を整え、銀色のタイピンがほのかに冷たい光を放つ。  対面に座る牛島のカップからは、まだ湯気が立ち上っている。  二人の間にあるのは、小さなコーヒーテーブルと、それぞれの飲み物だけ。  どこか殺風景な空気が漂っていた。 「今回の件、御社としてはご満足いただけましたか?」  牛島は前置きなしにそう切り出した。  その声色は、どこまでも穏やかで淡々としている。  清水はソファの背にもたれ、少しだけ肩をすくめる。 「……てっきり、部長からお誘いが来たってことは、デートかと思ってましたよ」 「次の機会にでも」  牛島はカップに目を落とし、ふっと笑う。 「……それはご遠慮しておきます」  清水は眉を上げ、口元に微笑みを浮かべながらそう返した。  視線はグラスの水滴に落ち、指先でゆっくりとなぞる。 「正直に言えば……悪くなかったです」  牛島は頷き、カップの持ち手に指をかけてゆっくり持ち上げた。 「……ただ」  その動作を止め、清水の声が、店内に流れる柔らかなピアノの旋律に溶け込む。 「若い子一人を私の前に出してくるのは……さすがに軽く見られている気がしますね」  牛島はカップを置き直し、わずかに申し訳なさそうに言った。 「……こちらの人的リソースが限られていまして」  ――限られている、ね。  久米からは「山本が病欠で来られない」とは聞いている。まあそれは、仕方ないとしても。  だが、伊藤まで来られないのは、どうにも解せない。  となると──なるほど。わざわざ顔を合わせさせず、それぞれを分断するには……むしろ都合のいい人数構成、というわけか。  この人、やっぱり考えている。  清水は指先でグラスの水滴を拭いながら、視線を落とす。 「部長がどんな手を打とうとしているのか、深くは詮索しません。ただ、一つだけはっきりさせておきたいです」  言葉を区切り、真っ直ぐに牛島を見る。 「こちらとしては、最初から伊藤さんが担当だと認識しています」  牛島はコーヒーの白い湯気を眺めながら、口元に薄く笑みを浮かべる。 「……お噂はかねがね伺っております。  プライベートでも、伊藤さんとはご関係が良好だとか?」  清水は笑いながらグラスを持ち上げる。  滴がテーブルに落ち、そこに小さな水溜まりを作った。 「牛島部長も、ゴシップがお好きなんですね?」  そう言いながらストローをくわえ、コーヒーをひと口含む。 「……以前、何度か酒席でご一緒しただけですよ。  まぁ……話は合いましたけど」 「彼は御社のご要望をよく理解していると聞いています。  今回も、貴社側から特別に指名があったとか?」 「我々クライアントとしては、当然、会話が通じる相手を希望するものです」  清水はさらりと流す。  牛島はコースターにカップを軽く置き、音を立てた。 「満足いただけたなら何よりです。  今回の結果を踏まえ、私からも上に推薦して、彼にもっと大きな案件を任せるよう働きかけます。」 「……」  清水は何も言わず、ただ黙って小さく頷いた。  その頷きに、どれだけの感情を押し込めたかは――誰にも分からない。  推薦されるべき誰かが、この席にはいない。  自分がその事実に、何かを言える立場でないことも、分かっている。  ……それでも。  氷がひとつ、グラスの中で音を立てて崩れた。  牛島は背もたれに寄りかかり、さらに続ける。 「もちろん……もし貴社から、  伊藤に対するさらなるポジティブな評価がいただければ、  社内での人員アサインもよりスムーズになります。」  清水はようやく顔を上げ、あくまで穏やかな声音を保ったまま、言葉の奥に、冷たい刃のような違和感を忍ばせた。 「本当に評価されるべき人物」を口にすることなく、ただ明瞭に示すように。 「……私ども役所が重視するのは、仕事の結果です。  人脈の広さではありません」 「承知しています」  牛島は軽く手を振る。  それでも、口調は崩さない。 「伊藤は今回のプロジェクトで非常に良い働きをしました。  社内でも、さらに関与を深めさせようという声が上がっています。  ……貴社としても、何か特別なご希望は?」 「彼がきちんと後続対応してくれるなら、  我々としても、継続的な協力に異論はありません。」  清水は業務的にそう答えたが、瞳の奥に、  一瞬だけ曖昧な感情が揺れた。 「それと……」  牛島はコーヒーをひと口飲んだ後、  波打つ表面を見つめながら言葉を続ける。 「今回、不良品対応の補填案……あれはプロジェクトチームが独自で動いたものです。  ……財務には、事後報告となりました。  山本が“必要な速度”を優先した結果です。大変失礼いたしました」 「……山本さん、手続きなしで動かれたんですか?」  清水は驚きを隠せない。  どうりで、久米があの時何も言わなかったわけだ。  牛島の無表情な顔を見ながら、彼は心の中で何かを悟った。 「――まぁ、許容範囲です」  グラスを軽く揺らしながら、  清水は言葉を慎重に選んで続ける。 「問題は、その後の500個の処理方法。  そこがきっちりまとまれば、我々から異議を出すつもりはありません」 「その500個を、未熟者の久米君に任せる件については?」  牛島の声には、探るような色が滲んでいた。  ――伊藤は、社交能力も、実行力も高い。  久米は発想力はあるが、まだ足場が弱い。  山本――あの時、久米が出してきたプランの内容を思い出せば、  その裏に彼の存在があったのは明白だった。  ――だが、これは完全にリスクを取った一手。  彼は久米を前に出した。……それが何を意味するかも。  ――面白い人ですね、山本さん。手を出さずに手を引いてる。誰を守るために、そこまでするのか。  ……守ろうとしているのが、伊藤なのか、久米なのか。  それとも、どちらでもあるのか。  清水は軽く息を吐き、グラスの側面を指で軽く叩く。 「……我々が見るのは、あくまで“結果”です。  誰が担当するかは、御社内の問題ですから」  視線を落とし、グラスの縁をゆっくりと指でなぞる。 「どう評価し、どう使うかは、御社のご判断で」  短い沈黙が流れる。  やがて清水はグラスをテーブルに戻し、  少しだけ口元を緩める。 「……次の会議で、良い答えをお待ちしています」  ふわりと笑いながら、 「こちらも、貴方のご協力には感謝していますよ、牛島部長」 「こちらこそ。  本日はご足労いただき、ありがとうございました」  牛島は立ち上がり、  清水の背を見送った。  テーブルの上には、半分残ったアイスコーヒーのグラス。  氷が寄り添い、ゆっくりと溶けていく。  牛島はグラスをそっと持ち上げ、  沈む氷の動きをじっと見つめる。  ――この程度の変化で足元が揺らぐようでは、  次のプロジェクトは……勝負にならない。  山本なら、完璧にやってくれる。  それは間違いない。だが――  あれだけの無理をして、尚、後ろに誰かを立たせようとする彼のやり方は……  いつか、何かを削ってしまうのではないか。  本人すら、それに気づかずに。  牛島は、微かに眉をひそめた。  コーヒーはもう、ぬるくなっていた。

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