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第50.5話 合理の余白(番外・牛島視点)

 コーヒーの湯気は、もう消えていた。  残った熱は、手に持つカップの中にわずかに残る程度。  牛島は椅子の背にもたれながら、静かに目を閉じた。  清水との会談は、想定よりも穏やかに終わった。  いや、穏やかに見えただけで――その実、互いに牽制し合う濃密な探り合いだった。  それこそ、組織に生きる者同士の“正しい対話”というものだ。  ……予定通り、か。  そう内心で呟き、机上に残された資料に目を落とす。  どの書類にも、派手な言葉も情熱的な訴えもない。あるのは、事実と数字と、経過報告。  そして、それらの裏に隠された“判断”と“責任の所在”。    本来であれば、木曜日クライアント会談では、山本が清水の前に出ることは可能だった。  前日まで高熱が続いていたのは事実だが、当日は既に快方に向かっていた。  本気で交渉する意思さえあれば――自ら赴くこともできただろう。  だが、彼は行かなかった。  自ら、久米を立たせたのだ。 「後輩に経験を積ませるため」 「自分が出ると、かえって顧客の警戒を招く」  それらしい理屈はいくつでも付けられる。  だが、牛島には分かっていた。  彼は“あえて”前に出なかった。  その判断は、実に彼らしかった。  さらに言えば――伊藤についても同じだ。  本来、清水との接点が強く、顧客側からも「話が通じる」と信頼されている人物。  だが今回は、牛島自身が別案件を口実に、伊藤を工場へ回した。  理由は一つ。  感情を切り離した配置が、最も合理的だから。  伊藤が出れば、清水の態度は軟化するかもしれない。  しかしそれは“伊藤個人”への信頼であり、プロジェクト全体の信用にはつながらない。  対等な関係を築くには、余計な感情を排除する必要がある。  そのためには、久米を立たせるのが最も妥当だった。  彼は若く、まだ粗も多い。だが、発想力がある。  今回の補填案にしても、表に出したのは久米だが――  その背後に山本の判断があることは、牛島も見抜いている。  そのうえで、彼は会社の財務プロセスを一部飛ばして、独自に補填を決行した。  結果としては成功だ。清水もそれを認めた。  だが、社内的には本来、懲戒対象になってもおかしくない逸脱行為だった。  ルールに従うなら、評価と処分、両方を与えるべき案件だ。  成果を出しながら、規則を破った者。  会社は、それをどう扱うべきか。  迷う余地などない。  成果を重視するなら昇格させる。  規律を重視するなら処分する。  だが山本は、そのどちらにも乗らない道を選んだ。  自分の名を出さず、成果を後輩に預け、影に徹する――。  牛島は、それが甘さだとは思わない。  むしろ、冷静な判断だ。  だが――そのやり方は、どこか危うい。  あの男は、必要以上に何かを背負い込む癖がある。  まるで、自分の存在を削ってでも、他人を守ろうとするかのように。  そこに、牛島はわずかな違和感を覚えていた。  ……何かを守ろうとする人間は、時に、自分を見失う。  そしてそれは、組織にとって最も不安定な要素だ。  だからこそ、今は“様子見”が妥当。  山本を、評価もせず、処分もせず。  伊藤も、久米も、誰も守らないように見せかけて、  彼らの出方を、静かに待つ。  明日の総会には、山本は久米をどこまで表に出すか、伊藤をどんな位置に置くか、楽しみにしかない。  グラスの中の氷は、すでに溶けきっていた。  ぬるくなったコーヒーを一口含み、牛島は思う。  この程度の変化で足元が揺らぐようでは、次のプロジェクトは――勝負にならない。  立たせた者がどう動くか。それがすべてだ。  彼は静かに席を立ち、机上の紙資料を一枚一枚、丁寧に重ね直した。  その動きには、一片の感情もない。  牛島が見ているのは、人間の成長ではない。  組織がどう動くか、その一点だけだ。  ……判断を誤ったとは思わない。  だが、正しさだけでは組織は動かない。  “処分ではない再配置”。  その意味を、あの男がどう受け止めるか――。  それすらも、試されていると知るべきだ。  あくまで合理的に、組織のために。  それが、牛島という男の“戦い方”だった。

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