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第51話 覚悟の夜、交差する判断

 久米の家から戻った山本は、自分の家の静けさに慣れるまで、丸一日を費やした。  棚の上には、いくつものガラスオブジェが並んでいる。その光滑な表面は、柔らかくもひんやりとした光を放ち、部屋の空気に静かな緊張感を添えていた。  ダイニングテーブルの上に置かれたスマホに一瞥を送りながら、山本は印刷機の上に積んであった資料の束を手に取り、ホチキスで一枚一枚綴じ始めた。  日曜日は朝からずっとこの資料作成に追われていた。そして今、ようやくすべてが整った。テーブルの上の時計は、ぴったり二十一時を指している。ちょうど、約束の時間だ。  ――ピンポーン。  インターホンが鳴ったちょうどそのとき、最後の二枚を綴じ終えた。  玄関の扉を開けると、嫌味な顔がひょいと現れた。伊藤がドア枠にもたれかかりながら、わざとらしく口を開く。 「この時間に呼び出しって……さては、下心っすか?」  山本は無言で身を引いて、玄関にスペースを空けた。 「最後の一人だな。ずいぶん待たせたぞ」 「……最後?」  伊藤は靴を脱ぎながら眉をひそめた。 「――やっと来たか、真吾!」  廊下の奥から村田の頭が覗き、そのすぐ隣には黒瀬の顔が重なるように出てきた。 「残念だったな、山本が呼んだの、お前だけじゃなかったみたいだぜ?」  黒瀬がにやにやと笑いながら言った。 「ここ、居酒屋じゃないからな……」  大平がソファでお茶を啜りながらぼそっとつぶやく。  伊藤は部屋の奥へと歩きながら、芝居がかった口調で言った。 「てっきり、晴が俺に未練でもあって呼び出したのかと」  そして、部屋をぐるりと見渡し、意地の悪い笑みを浮かべながら言った。 「?彼氏くんは今日、欠席?」 「うるせえよ」  山本は伊藤の後を追ってリビングへ戻り、さきほど完成した資料を四人に配った。ダイニングテーブルの縁に腰を預けながら、置いてあったコーヒーカップを手に取る。 「これは、前回のチームミーティングで想定される質疑に対する答弁案と正式報告書だ。目を通してくれ」  伊藤と黒瀬は床に直接座り込み、村田は資料を手に取ると、目を通す前にぽつりと呟いた。 「……こういうの、相変わらず細かいな。山本くんらしいけどよ」  大平の隣に腰を下ろし、静かに資料を開いた。  部屋に満ちるのは、紙をめくる音と資料が擦れる音だけ。  山本はコーヒーをひと口含んだ。苦味の中に、かすかな甘みが混じっていた。  ページ数はそれほど多くない。だが、全員が読み終えたころには、空気が静まり返っていた。  伊藤が資料を「パサッ」と音を立てて床に置いた。 「……久米を呼ばないのは、これが理由か。晴、書いたのお前か?」 「そうだ」  伊藤が小さく舌打ちした。「……今度こそ、あの子に殴られるぞ、俺」  山本はそれを受け流すようにして、話を続けた。 「本番に入る前に、お前らに共有しておきたいことがある」 「クライアント面談の件だけど。……正直、牛島部長が真吾を外したのは意外だった。でも、まぁお前らも気づいてるだろ。あれは上の流れに乗っただけだ。  あの時、真吾がクライアントと直接やり取りするには、まだ早いって、上はそう見てたんだろう。俺もそう読んでた」  そこに批判の色はなかった。ただ、事実を告げる声だった。 「俺は最初から行くつもりなかったし、真吾が外された時点で、なおさら行けるわけがない」  体調は最悪だったが、行こうと思えば行けた。  それでも行かなかったのは、久米に賭ける価値があると、本気で思ったからだ。  入社2年目にして本社営業部へ――そんな経歴は、誰にでも与えられるものじゃない。  山本は淡々とうなずき、脇にあったノートパソコンを開いて補足資料を表示する。 「……今回の案は久米が出したものだし、現場の交渉もできるようになってきた。  このまま表に出ないままじゃ、いずれ埋められるだけだ。せめて一度、上に顔を売らせておきたい」  それが、いまの自分にできる、唯一の“償い”だった。  伊藤は目を細めたが、すぐには何も返さなかった。  山本は少し間を置き、静かに続けた。 「では、この報告書について、当日はこれ通りに話してくれ。不良率対策の項目は、確実に話題になる」  しばらく沈黙のあと、伊藤が口を開く。 「つまり明日俺が、前に立って、なおかつ矢面に立てってことか」  山本の声は、鏡のように静かだった。 「上と衝突する気はない。背負えるところは、ちゃんと自分で背負う。でも……不良率の件に関しては、もう誰かを“見せしめ”にする流れだった。今の俺は主任の立場で、お前は第二営業部の責任者だから、それを引き受けるなら、悪くはない」  山本はそれだけ言うと、カップの中の冷めたコーヒーを見つめた。  伊藤はまた資料をめくったが、視線は山本のノートパソコンの画面に止まった。そこにびっしりと並んだ文字を、しばし無言で見つめる。何か言いかけたが――やめた。 「じゃあ久米は?」  黒瀬が含み笑いで言った。 「そう言ってる割には、正式な報告書に名前ひとつ出てこないんだな。例の天才くん、今回は身を削って動いてたってのに」 「責任を取れる立場じゃない。それだけだ」  山本は目を伏せたまま、声の抑揚をほとんど持たせずに言った。 「山本くん、はっきり聞こう」  大平が資料を閉じながら山本を見つめる。 「彼は、それで納得するのか?」  納得するかどうか――それは、山本自身が一番わかっている。以前、伊藤に同じことを聞かれたときと、変わっていない。  ただ、今はチャンスだった。名前が出なくても、上層部の目にその能力は映るはず。それでいい。  山本は何も答えず、黙ってカップを口に運んだ。 「……なあ、山本」  黒瀬が不意に口を開く。 「あいつのこと、便利な駒とか思ってねぇよな?」  山本は一瞬だけ息を呑み、カップを持つ指先がわずかに強ばった。 「駒じゃない。……俺なりの、臨機応変の結果だ。」  その声には、覚悟の上に苦さが滲んでいた。  黒瀬はそれ以上何も言わず、すぐに表情を切り替えて伊藤の背をぽんと叩いて笑う。 「ま、おめでとう伊藤様。これで堂々、見事のお手本ってわけだ。……久米くん、今ごろ部屋の壁に拳ぶち込んでるかもな?」  山本はカップの底にできた渦を、じっと見つめていた。  ――それが、この報告書で唯一書けなかった、一番厄介な問題だった。 「……久米くんの話は置いておくとしても――」  大平が資料をテーブルに置く。 「君自身が危ういよ、そのやり方」  村田が頷き、黒瀬が鋭い目つきで山本を見据える。伊藤は視線を落としたまま、何も言わなかった。  山本はカップをテーブルに戻し、ノートパソコンの画面を指先で軽くなぞる。 「自分がどこまでやれるかは分かってる。どう進むかは、俺が決める」 「で、次は俺か?降格にされるの」  黒瀬が笑いながら言った。  すぐに村田も苦く笑って、「いや、次は俺かもな……」 「……これは、相談じゃない」  わずかに眉をひそめた山本が、四人の顔を順に見渡す。 「俺からの――願いだ」   「……協力してくれ。」

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