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第52話 名前がそこにある、それだけで嬉しかった
月曜日の朝、久米は誰よりも早く出社したつもりだった。だが、第二営業部の半分近くはすでに席についていて、思わず一息つく。
自席に向かうと、机の上に紙袋が置かれていた。袋の口を指先で開いて中を覗くと、土曜日に山本が借りていった、あの自分の服が丁寧に畳んで返されている。
主任室に目を向けると、すでに明かりが灯っていた。山本の方が、先に来ていたらしい。
久米はバッグを下ろし、軽く挨拶に行こうと半歩踏み出したところで、小金に呼び止められた。
「久米くん、これ先週金曜のミーティング資料じゃない?文印室を掃除してたら見つけたの。どうやら印刷ミスか予備みたいだけど、処分していい?」
手渡された紙の束を一瞥すると、確かに金曜に自分が最後まで目を通せなかった草案だった。
――捨ててください。
そう言いかけたが、口をついて出たのは別の言葉だった。
「……もらっておきます」
そう返すと、小金は「お願いね」と軽く頭を下げて去っていった。
久米は席に座らず、そのまま机の傍に立ち、親指で紙の端を一枚一枚めくっていった。
冒頭の数ページは、すでに耳にした内容ばかりだ。
だが、最後の一枚に差しかかったところで、彼の指が止まった。
ページ全体を覆う表形式の資料。太字でタイトルが記されている。
――「不良率対策 主導担当 明記一覧」
その下には三つの名前が横並びで記されていた。
久米 悠人
伊藤 真吾
山本 晴
わずかに反っていた用紙の角を、そっと指で押さえる。
何の変哲もない一枚の資料が、まるで熱を帯びているかのように、じんわりと彼の指先を焦がしていた。
久米は静かに腰を下ろし、その一枚をそっと抜き取って机の上に広げた。
顔を伏せるようにして、自分の名前をじっと見つめる。
――入社して以来、いつも些細なことで失敗ばかりしていた自分の名前が、今、初めて“決定案”に載っている。
顔がぽっと赤くなった。
金曜日の会議の終わり、誰もが何かを言いたそうにしながら沈黙していたのは、まさか今日、これを見せるためだったのか。
久米は紙を丁寧に畳み、自分の机の最上段の引き出しに仕舞い込んだ。
……会議が終わったら、山本のところに行って、ちゃんと褒めてもらおう。
でも、あまり嬉しそうな顔をしたら、ちょっと子供っく見えるかも……
いや、それでもいい。今日は、ちゃんと伝えよう。
ご飯に誘うか、それとも――
「……ふふっ。」
机に向かったまま、小さく笑った。
そう思って主任室に目を向けたそのとき、すぐ隣から声がした。
「わんこくん。」
久米はにっこりと顔を上げ、自然と笑顔がこぼれる。
「はいっ!」
伊藤はその顔に一瞬引き気味になりながらも、「……お前、週末けっこう楽しかったんだな」と言って笑った。
目の下のクマがやけに濃く見える。
「……昨夜、眠れなかったんですか?」
「まあな、そんなところ。」
伊藤は後頭部をぽりぽり掻き、久米の机の上にある紙袋に目をやり、少しからかうような口調で言った。
「見るからに、幸せな週末だったみたいで。」
「もちろんですっ。」
胸を張って答える久米に、伊藤は呆れたように苦笑した。
「ほら、これが正式な報告書だ。中身はあまり変わってない。」
「ありがとうございます!」
久米はうれしそうに受け取ったが、伊藤の手がなかなか離れない。
その手には力がこもり、指の節が白くなっている。
「……何か、問題が?」
問いかけると、伊藤は鼻梁をこすりながら、「いや、なんでもない」とだけ呟いて手を離した。
久米は少し首を傾げたが、報告書の数ページをめくり、中身が金曜日の草案と同じであることを確認した。
――つまり、会議で自分の名前が本当に出るということだ。
胸が弾み、自然と笑顔がこぼれる。
「伊藤さん、コーヒーでも飲みませんか?」
「……ああ、それじゃ俺の分も淹れてきてくれ。」
伊藤に頼まれ、久米は給湯室へ向かった。
伊藤はそれを見送ってから、周囲の視線を一度確認し、静かに久米の席へと座った。
引き出しにそっと手をかけ、わずかに開く。覗き込んだ瞬間、書類のタイトルを見て、すぐに閉じた。
……引き出しを閉じたあと、伊藤は一度深く息を吐き、
シャツの襟を引き上げ、首筋を隠すように手を添えた。
「……参ったな。」
……これじゃ防ぎようがないだろ、晴よ。
山本は、オフィスのブラインドを静かに引き上げた。
わずかな隙間から視線を送ると、久米が伊藤と何やら楽しげに言葉を交わしているのが見えた。
目元に、ごく微かな笑みが浮かぶ。
久米は、山本の視線に気づいたのか、ふとこちらに手を振った。伊藤は振り向くことなく、軽く頷くだけで自席へと戻っていった。
指先が滑らかなデスクの表面をなぞる。紙に触れるまで、ゆっくりと動き続けた指が、そこで止まる。
そこに並んでいたのは、熟考の跡が滲む二つの資料。ひとつは、金曜日の草案。もうひとつは、組織としての“決定”の証だった。
山本は椅子に腰を下ろし、資料をまとめた。
PCからメールの通知が届き、その目線は、そこから外すことはない。
from 牛島部長:市政へのルート、ここで決めろよ。
長いあいだ、微動だにせず、まるで何かを噛み締めるように。
目の渇きに気づき、ようやく瞼を閉じる。
そして、ゆっくりと開けたその瞳には、
黒く、冷ややかな光が宿っていた。
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