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第10話 救出

 風のない夜の事。見上げた夜空には月もない。それでも微かにヒンヤリした空気が動いて、リツは窓を閉めた。部屋の柱に繋がれた鎖をジャラジャラ鳴らしながらベッドの縁に腰かける。 「アサギ……、今日は少し寒いね」  彼は兄の呼びかけに反応する事なくぼんやりと宙を見つめている。アサギに鎖は繋がれていない。その必要がなくなったからだ。光の加減で瞳と同じ色に変わる髪をサラサラ梳いても何1つ反応は返らない。  魔獣の子を宿したその日。半狂乱になったアサギは自分の腹を刺そうとした。それをカツキに止められ、それならばと窓から身を投げようとしてまた止められた。四肢を拘束しても昼夜問わず泣き叫んで、舌を噛もうとすらして猿轡を嵌められて。 「お前一人の体ではないんだよ、俺のヒトハ」  食事すら摂ろうとしないアサギへ無理矢理食事をさせたのはカツキだ。 「そんなに頑なだと困るな。もう一度お仕置きが必要かな?“彼”は君を伴侶だと認めたようだしね」  くすくすと笑いながら恐怖を煽り、アサギはその恐怖に何とか自我を保っていた。しかしその自我さえ保てなくなったのは昨日。前以上に狂乱したアサギが手に負えなくなったカツキは、リツにアサギの心を封じさせたのだ。  それもまた彼にとっては娯楽の一部なのだろう。弟の心を封じる事になったリツの苦悩さえ面白がるようにカツキは微笑んでいた。  二週間を経てついに昨日、アサギの心を壊して魔獣の子は生まれてしまった。父になる筈のスライム状の魔獣とは違う、まるで爬虫類のような姿の生き物は生み出されてすぐにヨタヨタと歩き、キュイ、と小さく鳴きながら何の反応もないアサギに甘えるように体を擦り付けた後カツキに連れていかれた。  恐らくあの子は今頃アティベンティスへと送り出されているのだろう。 「アサギ……」  頬を流れた滴を拭ってその髪を梳き続ける。 「守れなくてごめんね、アサギ」  アサギの顔へとポタポタ落ちていく涙は、まるでアサギも泣いている錯覚を起こさせてリツはその細い体躯を抱き締めた。心を失い、力の抜けた体はされるがままリツの嗚咽に合わせて揺れている。普段ならば抱き返してくる腕はダラリと下がったまま動かない。 「ごめんね……、ごめん……、アサギ……」  もしも自分が逃がさなければアサギがこんな目に遭うことはなかったかも知れない。 (私は……きっと夢を見てしまった)  自由に、幸せになる夢を。もしかしたらアティベンティスに行けばあの人が助けてくれるのではないか、と。 「ごめんね……っ」 「まぁた泣いてんのか、お前は」 「!?」  閉めた筈の窓が開いている。警戒するようにアサギを抱き締めたリツは、しかしその手を緩めた。  “また”と言った男の声。 「カナさん、アサギは!?てゆーかそこどけよ!落ちるっ!!」  窓の外からもう一人分の声が聞こえて、呆れたような溜め息と共に最初の男がもう一人を引き上げる。 「ったくどんくせぇなぁ」 「いや、入り口塞いだのそっちじゃん!」  あくまでも小声。だけど場違いな言い合いをほんの少しして、彼らはリツに目を向けた。正確には後から来た方はリツに抱かれるアサギへと視線を向け、駆け寄る。 「アサギ!」  駆け寄った彼は、リツが僅かに腕を動かしただけでガクンと仰け反るアサギの異変を直ぐ様理解したようだ。途端に顔が険しくなる。 「一体何が……」 「後回しだ、ソラ。行くぞ」  垂れ下がる鎖を刃で叩き壊した男が手を伸ばした。 「今度こそ迎えに来た。リツ、俺と来い」  ◇   「国境は爆破した。簡単には追って来られないだろう」  この数週間……いや、10年間の総仕上げだ。俺達は最後の仕上げをするべく2週間前センティスに侵入してヒトハ救出に向かった。  準備にかけた時間は10年。でも救出に使えるのはたったの三晩。最初の一晩で一番遠い地方のヒトハ達をトンネルに避難させた。  トンネル内には俺達にはよくわからない機械が待ち構えててそれに乗って移動する。俺達も乗せてもらったけど馬車の方が乗り慣れてていいよ。速すぎてめっちゃ酔ったもん……。  殆んどのヒトハが集められてた事が幸いした、というとちょっと微妙だけどでもそのお陰で随分楽に避難させることができた。  で、彼らが避難する間怪しまれないようにそこへ様子を見に来るヤツだとかなんだとかを協力を申し出たステュクスの正規兵と手分けしてとにかく片っ端から斬った。  非道だとは思う。だけど手段を選んでる暇はないんだ。  流石に結構な人数の敵を手にかけてしまったけど……後悔はしていない。ここで後悔するくらいならハナから助けに来ない。  そんで最後はアサギ達。最初に助けてやりたかった。だけどヒトハ救出が終わるまでカツキにこっちの動きを悟られるわけにいかなかった。  でも、折角助けたのにアサギは……。  国境爆破して――最初から爆破予定だったんだって。何で俺はあそこまでバカにされたんだ?――、ひとまず全員は都市内に入らないから、疲れ果ててるけど命に別状のないヒトハを休ませる為の野営に案内して、命に関わりそうなヒトハを病院に連れていって……、それからアジトに戻った。  俺はその間ずっと背負ってたアサギをソファに降ろす。心音は普通。体も温かい。なのにまるで人形みたいに動かない。アサギにぴったり寄り添うアサギのお兄ちゃんがドアの音に顔を上げる。  カナさんだ。お兄ちゃんが立ち上がってカナさんを見つめて、カナさんは少しの間の後ふっ、と微笑んだ。 「遅くなって悪かった」 「……っ、遅すぎるよ……っ!!もう、……来てくれないのかと……っ」 「こっちでの信頼得るのがなかなか難儀でなぁ……。ごめんな、待たせて」  色違いの両目から涙を溢れさせて飛びつくお兄ちゃん。えーと。状況が全く掴めませんが一体どういうこと?でも聞くに聞けないオーラです。ピンクとゆーか。一瞬のピンクオーラを引っ込めてお兄ちゃんが泣く。 「アサギ……っ、アサギがぁ……」  ドンドンと胸を叩くその腕ごと抱き締めたカナさんがアサギを見た。 「何があった」 「俺達も聞きたい」  って言いながら来たのは外で師匠と事後処理してた筈のケイ達だ。お兄ちゃんはカナさんに促されるまま向かいのソファに座って俯く。当然のように隣に座ったカナさんが固く握られた拳に手を添えると、お兄ちゃんは一瞬ビクリと震えてそれから拳を開きカナさんの手を握った。  俺もアサギの側でその手を握る。アサギが握り返してくれることはないけど。 「アサギは……」  お兄ちゃんの話は酷いもんだった。  アサギに聞いてた話から凌辱されてるんじゃないか、って予想はしてた。だから一瞬でも早く助けたかったんだけど……事実はそれ以上。 「何だよそれ……ッ!!ふざけんな!!」  お兄ちゃんを怒鳴ったって仕方ないのに、怒鳴ってしまってから目を逸らす。握った拳がどうしようもなく震えて衝動のまま叩きつけたいのを耐えてる俺にお兄ちゃんは泣きながら小さく微笑んだ。 「君が……ソラ、だよね?この子は貴方の事を優しい人だと言っていたよ。大切な人だとも。アサギの為に怒ってくれて、ありがとう……」 「……っ」  何を返していいかわからなくなってアサギの腹を撫でる。  だって大切なのは俺だって同じだったのに、肝心な時に助けてやれなかった。  痛かったよな。辛かったよな。すぐに助けてやれなくてごめんな。 「術を解くわけにいかねぇのか?」  黙って聞いてたケイが言う。  そか、ここはもうセンティスじゃない。アサギに無理はさせたくないけど、せめて助かった事はわかって欲しい。  でもお兄ちゃんは首を振った。 「私の術を跳ね返せるだけの自我を取り戻せたら……解けるようになっているんだ」  どれだけのショックを受けたんだろう。  無理矢理封じられた心だけど、封じなかったら完全に手遅れになってたかもしれない。だって自分を取り戻したら術が解けるってゆーなら、こっちに戻って安心したら解ける可能性もあったってことだ。  なのに未だにアサギは綺麗なお人形さんのまま。 「アサギ……」  ごめんね、ごめんね、と泣きながら謝り続けるお兄ちゃんをカナさんが宥めるように抱き締めて、俺は何も言えないままアサギの頭を撫で続けた。  国境爆破から数日。  ステュクス、アクセロス、ウェンリス正規軍の一部が集まり、ヒトハ達はそれぞれ移動を始めた。ステュクスに残るのはすぐさま動かすと命に関わりそうなヒトハ――老人、子供、怪我人、病人、くらいかな――、その関係者。  他はそれぞれ2都市に振り分けられてる。  問題は山積みだけど……。例えば一気に人口が増えたわけだから食糧は足りるか、迫害され続けたヒトハがその魔力でもってアティベンティスで暴れたりしないか、受け入れた都市部はまだしも根付いたヒトハへの偏見でこっちでも迫害されたりしないか、受け入れを渋ってた魔学都市ヘラクルス、学園都市オーニソス、鉱山都市ノームスの反応はどうか……。  俺が思い付くのはこんなけだけど、師匠達はもっと色んな事考えてるみたいで毎日あっちこっちに鳩便だしたり使いだしたり忙しい。まあ俺が思い付いた事なんてあの人達が思い付かない筈もなく、食料だとか土地だとか、そんなもんは問題ないらしいっていうのは後で聞いたんですが。  んで、ケイとセンは師匠を手伝ってて俺とカナさんはアサギ達兄弟の側にいる。  お兄ちゃんだって心労が溜まってるだろうし、カナさんの側がいいだろうっていう師匠の計らいだ。もうちょい込み入った事案が上がったら流石にカナさんもそっち行かなきゃなんないから、今のうちに。  今アサギもお兄ちゃんも寄り添って眠ってる。こうして眠ってる姿だけ見ると何も変わらないのにな。  心を取り戻す切っ掛けにでもなれば、って大好きなプリンを食べさせてみたけどダメだった。ちゃんとそういった機能的な物は働くらしくて吐き出す事はないけど自ら食べることもない。与えられるまま飲み込むだけ。何だか精鋼なお人形遊びしてるみたいで悲しくなる。  一瞬泣きそうになってしまって慌てて目元を擦って。部屋の外にいるカナさんの所へ行った。 「カナさん」  台所で何かしてたカナさんが振り返る。 「どうした?」 「カナさんとお兄ちゃんって知り合いなの?」  あれからバタバタして聞きそびれてたんだけど。 「……アヤ達にヒトハ救出頼んだセンティスからの密入国者って、俺の事なんだよねー」 「……」  言われてる事が理解できなくてキョトン顔。あれ、これは俺が恐竜脳だから理解できなかったのか? 「……へ?」 「反応遅!」 「いや……あまりの事に脳内で恐竜が飛び出した」 「意味わかんないけど!」  師匠達といるとツッコミ係なカナさんにツッコまれてしまいました。でもびっくりしたんだもん……。仕方ない仕方ない。  カナさんは一度部屋を開けて、二人が寝入ってるのを確認してからポツポツと話してくれた。お兄ちゃんに聞いた過去とカナさんがお兄ちゃんと出会った時の事を。

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