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第11話 二人の過去

 リツ達がいたのは辺境のヒトハの村で、両親の死後リツはそこを拠点に身売りしていた。リツの模様は右腿にある。布を巻いて隠せばヒトハだと意識させないようにできた。  子供の足、まして小さな弟がいるのに遠くの町まで出稼ぎには出られなくて、近隣の村や通りすがりの旅人、商人を相手にしてたから隠していてもヒトハなのはバレバレだった。だけど、バレていても金さえ落とさせればそれでいいと相手を喜ばせる術を身につけた。  その時リツは10歳、アサギは5歳。所詮はヒトハで子供。身売り、と言っても荷運びや雑用が主で、実際に性的な事を要求される事は多くなくてそんなに大金を落とす相手はいない。  懸命に稼いでもアサギに満足な食事をあげられない日々が続いた。 「にいちゃん、半分こ」  けれど、一定数幼子を好む人間はいる。何度穢された体を冷たい川の水で洗い流したか。何度泣きながら眠りについたか。何度、死のうと思ったか。  その度に癒してくれたのはアサギだった。 「僕はいいからアサギが食べな」  近くの村で手にいれた乾いて硬いパンを半分にして差し出してくるアサギを撫でる。 「ぼくお腹へってないの。にいちゃんにあげる」  痩せた小さな手に握られたパンを受け取るとアサギは満足そうに笑って、両手で挟んだパンをカリカリかじった。 (柔らかいパン、食べさせてあげたいな……)  一度だけ羽振りのいい客がいて、リツには信じられないご馳走を出された。アサギに食べさせてあげたくてこっそり持って帰ったパンは家につく前に固くなってて、ひどくガッカリした覚えがある。 (……これは明日に取っておこう)  明日も食糧が手に入るとは限らない。食べたフリをしつつ、一生懸命パンをかじってるアサギから見えないように布でくるんでソッと隠した。  そんなリツ達の生活が一変したのはそれから数ヵ月後。その日は雨が降ってて外で客を取るには向かない日だった。リツは寒さに震えるアサギを抱き締めてその体を擦ってやっていた。  外からガチャガチャと音がして、村が俄に騒がしくなったのはそんな時。隙間だらけの小さな小さな家の中でアサギを腕に抱いたまま外を窺う。 (……兵隊だ!)  厳めしい顔をした甲冑の集団が辺りを取り囲んでいる。アサギが怯えてリツにしがみついてくるのを感じて、リツは懸命に震えそうな自分を抑え込んだ。 「アサギ。シー、だよ」  何をしに来たのかはわからない。でも兵隊が来るときは決まってろくなことが起きない。だから黙って過ぎるのを待つだけだ。  静かに見守っていたリツは驚きに目を開いた。兵隊が一斉に整列し、道を開ける。その道を緩やかに進んでくるのは見たこともない絢爛豪華な馬車。  そこに乗っていたのは、センティス皇帝と皇太子。  彼らは純血のヒトハが神の宝物庫への鍵となる、という言い伝えを知ってやって来たと言う。リツの体に緊張が走った事に気がついたのだろう。言いつけを守って自分の口を塞いでいるアサギが不安そうにリツを見上げた。 「大丈夫だよ、アサギ」  こんな小さな小屋に人が住んでいるなんて思わないだろう。  しかしその考えは甘かった。彼らは冷酷で、最初子供のリツ達を庇おうと村人達はこぞって小屋の存在を隠してくれていたけれど、その大人の一人を撃ち殺したのである。  核を入れた銃の試し撃ちだ、と皇帝は言い皇太子は笑っていた。 「本当にもう誰もいないか。兵達に捜させて、もし誰かいたら……」  その者の二の舞だぞ、と言わなくても彼らは理解して同時にリツも理解した。だから小屋から出た。背中に庇ったアサギはまだ状況がよくわかってないながら恐怖だけは感じてるようでリツに縋りついて離れない。 「……ほう?サファイアのようだ。美しい」  皇帝はリツを検分するかのように全身を眺める。 「血を」  兵に告げるとすぐさま一人が小振りのナイフと謎の液体を持って駆け寄り、リツの腕を取った。  驚いたのはアサギだ。リツに何をするのか、と驚いて兵に噛みついた拍子に兵はリツの腕どころかアサギの肩にも小さな傷をつけた。その血が兵が取り落として地面に染み込んだ液体に滴った時、その場の全員が息を飲む。 「地面が……」  地面は黄金に輝いて、すぐ消えた。 「純血だ!連行しろ!!」  兵がリツの腕を拘束する。突き飛ばされて転がったアサギが泣きながらリツに手を伸ばす。 「!?やだぁ!にいちゃん!にいちゃぁん!!」 「アサギ!!」 「父上、この子も連れて行きましょう」  純血は一人で充分だが、と言う皇帝を無視して皇太子は小さな子供に近寄る。 「お、弟に手は……!!」 「うるさい」  腕を縛られたリツを平手で殴って黙らせた皇太子の手を逃れるように、アサギがリツに縋りついた。 「にいちゃん……!!」  彼は震えて兄に縋りつく幼子の顎を持ち上げ笑う。 「この琥珀のような瞳……飾って愛でたらさぞ美しいでしょう」 「まあよい。好きにしろ。残りは……ふむ。邪魔だな。殺せ」  目の前で村の大人達は殺された。  アサギの耳と目を塞いでやりたかったのに腕は縛られている。アサギはリツに言われるまま自分で塞いでたけど、小さな体はガタガタと震えて閉じた目から涙が零れた。塞ぎきれなくて全部聞こえてしまってるのだろう。  そしてその村を血に染めた後、皇帝はリツ達を城へと連れ帰った。 (これからどうなるんだろう……)  自分はどうなったっていいが、アサギだけは守らないと。リツにしがみついて小さくしゃくりあげているアサギを見つめる。皇太子は何故かとてもアサギを気に入ってしまったようだ。その側で得体の知れない笑みを浮かべたまま離れようとしない。  城について最初に二人がされたのはまだ弱い魔力を封じられ、身体中を綺麗に洗い流す事だった。普段は切れるような冷たい水で体を洗ってた二人にとって風呂なんかは恐怖しか生まない。侍女達が寄ってたかって丸洗いする間アサギはずっと泣き叫んでいたし、正直リツも震えていた。  しかし本当の恐怖はそこからだった。  綺麗に洗われ、肌触りのいい服を着せられ連れて行かれた部屋には数人の男達。それぞれ身なりがよく、貴族であることを窺わせる。  リツは嫌な予感がして隣のアサギを抱き締めた。 「ほう、本当に美しい。まるで古代の彫刻のようだ」 「ヒトハとは言えこれならば愛でてやれん事もない」 (あぁ、やっぱり……)  何が起きるか予測がついてリツは目を閉じる。腕の中のアサギはよくわかってないようで、ただ不安そうにリツにしがみつくだけ。 (いくらなんでも、こんな小さな子供に手は出さない筈……)  金持ちの考えなんてわからないけれど。案の定皇帝はアサギを柱に繋いで、リツだけをベッドへ(いざな)った。 「にいちゃん!にいちゃん!!」  首輪に繋がれた鎖の伸びる限界まで追いかけて来たアサギが、鎖に引っ張られ転んで泣く。 「にいちゃぁんっ!!」 「喧しい子供だ」  煩わしげに皇帝が呟いて、周りの貴族が頷いた。 「なら弟は他の部屋に……」  何をされるのかわかってるこの部屋にアサギを残らせたくない。例え連れて行かれるのが牢屋だとしてもここにいるよりはマシだ。 (全部終わったらアサギと同じとこに連れてってもらおう……)  泣き続けるアサギの鎖を外しかけた貴族を止めたのは部屋に現れたカツキだった。 「父上、彼はこのままに」 「喧しくて敵わん」 「泣いている子供の前で、というのも背徳的で良いではありませんか」 「やめてください!弟に穢らわしいものを……っ」  見せるな、と言いかけたリツの頭を、皇帝は枕に押し付ける事で黙らせる。 「ほう、それも愉しそうではあるが。しかしその泣き声に興を削がれていかん」 「これはこの子への躾の1つですよ、父上」  11歳という年齢に似合わない暗い微笑みを浮かべた皇太子カツキがアサギの首に腕を回しながら言った。恐怖を感じ益々激しく泣き出したアサギの頬を平手で殴ったカツキは、床に倒れ込んだ体を鎖を引いて持ち上げる。 「きゃぅ……っ」 「ア、サギ……っ!!」  押さえ付けてくる手の平の下で何とか顔の向きを変えて視界に収めたアサギは、鎖を持ち上げられて絞まる首輪に小さな手をかけ懸命にもがいていた。  首に裂傷が刻まれていく。 「やめてください……っ!!」  顔色が赤を通り越して、もがいていた手が落ちる頃カツキがその手を離すと、途端に重力に引かれ小さな体が床に倒れ伏す。 「アサギ!!」 「ひ……っ、……っ」 「?息が吸えないのか?ほら、吸って……吐いて……」  懸命に息を吸おうとする弟へかけるその声だけは優しい。しかし原因を作ったのは紛れもなくその声の主。 「弟には……っ弟には何もしないでください……っ」 「勘違いしてもらっては困る。躾だ、と言っただろう?」  神の宝物庫の鍵。しかしその肝心の宝物庫の場所はわからない。その場所に見当がつくまでは躾て他のことでも役に立ってもらわなければ。 「穀潰しはいらないからね。意味がわかるかい?」  純血のヒトハが少ないとは言え、他にもいる。仮にリツ達が役に立たなくなっても殺して他を捜せば済む話。それに純血に近いヒトハ同士の子供でも純血と同じ効果はあるだろう。  暗にそう滲ませたカツキに唇を噛む。 「さあ、父上。この子にも自分の未来をわからせてあげてください」  カツキは椅子に腰かけると泣き声を上げることも出来ないくらい怯えてるアサギをその膝に抱き上げた。    ◇ 「子供の目の前でって……、どんなけ鬼畜だよ……」  カナさんの入れたお茶をすすりつつ眉をしかめる。 「とにかく恐怖を植え付けて逆らわないようにしたかったんじゃないかなぁ。結果としては失敗したけど」  そうだよな。お兄ちゃんはアサギを逃がそうとしたわけだし、アサギも素直に逃げたわけだし。二人の心を折ることは出来なかったってことだ。最後の最後でアサギは……折られたけど。  いつだったか動かなければお人形みたい、って思った。本当にお人形みたいになってしまったアサギはどうやったら元に戻るんだろう。かけた術はもう本人が跳ね返さない限り解けないって言うし。 (ずっと……このままなのかな)  例えそうなってもお兄ちゃんさえ許してくれるならずっとアサギの側にいたい。だけどあの笑顔が見れないとかそんなの。 (寂しすぎるよ……) 「ソラ」  カナさんにしては珍しい少し躊躇いがちな、それでいて慰めるような声で俺を呼ぶ。 「俺は大丈夫だって。話、続けてよ」  お兄ちゃんとカナさんはいつ出会ったんだろう。  てゆーか、多分お兄ちゃんの心が折れなかったのはカナさんがいたからじゃないかと思う。で、お兄ちゃんが折れなかったからアサギも耐えてたんじゃないかな。 「……俺がリツと初めて出会ったのは――」  ◇ (あれから2年……、か)  あの日から始まった地獄が、今では地獄だと感じられなくなっててそれが苦しい。  リツはぼんやりと天井を見上げる。昨夜も散々嬲り尽くされ魔力を吸われた体は指一本動かすのも辛くて、ただ見上げる事しかできない。最初封じられていた魔力はそれぞれの部屋では開放されている。その部屋にいる限り魔力は人へ向かず機械へと流れるからだ。  ただアサギの魔力は年齢を重ねるごとに増していってるように思う。 (……あの子は本物だ)  リツの父親がアサギと違う事を幼い弟は知らない。リツも近いものではあったが純血はあの子だけ。そしてカツキ達はあの時二人の血が薬品に反応したと信じているが、実際に反応したのは恐らくアサギのものだけだ。 (気付かれてはいけない)  気付けば必ずもっと酷いことが起きる。アサギを守らないと。 (私に残されたのはそれだけだ……)  守ることが生きる目的。ただ、それだけ。 「しけたツラしてんなぁ」  突如聞こえた声に体が跳ねる。 「……誰」  気怠い体を無理矢理起こして、声の方へ目を向けた。  窓辺に立つ誰か。逆光で顔は見えないが、その光で全身ほんのり黄金色に輝いている。 (……太陽みたい……) 「隊のヤツから自分だけ城で贅沢してるってヒトハの噂聞いてきたんだけど、……死んだ魚みてぇな目してんのな」 「これが贅沢だと言うのなら、……いえ、そうなのかも知れませんね」  代われ、と言いかけてやめた。  痩せて小さかった弟は子供らしくふっくらしている。食べ物にも着る物にも困らない、夜の寒さに震える事も、魔物からの恐怖に、奴隷として連行されるかもしれない恐怖に怯える事もない。  弟の笑顔は少なくなってしまったけれど。 「……外の奴らのほうがよっぽど生きてるってツラしてっけど」 「……貴方は誰です?何故ここに」  生きるために生きていたあの頃は自分達も、いつ消えるかわからない命の炎の中で“生きている”目をしていたのだろうか。  今となってはわからない。 「だから言ったじゃん。自分だけ贅沢してるヒトハ見に来たんだよ」 「では用件は終わりでしょう?お帰りください」 「……なぁ、その鎖外せねえの?」  リツを繋ぐ鎖が外される事はない。アサギに会いたくてもカツキが気紛れに連れて現れる時以外は会えない。会うたびに泣きそうなのを耐えているアサギに微笑みかける事しか出来なくて。 「外せるものならば外しています」 「そりゃそうだ。見る限りあんたここでの生活に納得いってないみたいだしな」 「知ったような口を利かないで頂けませんか」  納得していようがいまいが、ここ以外に行く場所はないのだから。 「っとやべ、見回りの時間だな。また来るよ」 「来ていただかなくても結構です」 「まったな~」  ヒラ、と手をふった逆光のシルエットは窓から消えた。ここは城の上階、飛び降りるには高すぎる。何となく興味を引かれて覗いた外には誰もいない。そこに誰かがいた痕跡すらない。 (……幽霊みたいな人だな)  本当に幽霊なのかも知れないけど。  それがカナトとリツの出会いだった。  ◇   「カナト」 「サーセン、遅れましたぁ」  出来の悪い17歳の新人兵士。それがカナトに対する周りの評価。ただ出来の悪さに反して何故か本気で憎めないのがカナトである。 「兵士が遅刻なんてもっての外だぞ新人」 「やー、母ちゃんの野菜スープが絶品すぎて~」 「なら野菜スープごと時間通りに来いバカモン」 「はーい」  いい返事に一応しかめつらしい顔をしながら隊長である男は内心苦笑した。 「ほら、見回り行ってこい!」 「うぃーす」  カナトは隊長の様子に気付いて微かに笑った。 (真実を知って、あんたはそれでも笑ってられんのかな)  ◇   「……また来たんですか」 「また来るって言ったじゃん」 「私は断った筈ですが」  数日後また現れた“幽霊”に溜め息をつく。 「貴方などどうなっても構いませんが、貴方の所為で私達に何らかの危害が及ぶのは困ります」 「達?他に誰かいんの?」  部屋を見渡す幽霊……カナトにリツは隣に弟が、と呟く。 (ちゃんと、いるよね)  何をされているのだろう。  酷いことはされてないだろうか。流石のカツキも10歳に満たない子供を嬲る気はないようだから、まだその体は清いまま。 (……それはいつまで?)  リツの嬲られる様を見せた時、『自分の未来をわからせてあげてください』と言っていた。いつかは必ず同じ道を辿る。 「ふーん……」  カナトは曖昧な返事をしながら隣に視線を送る。見えるはずもないが。  リツは窓辺の少年を見た。背が高く、自分よりは年上に見えるがそれでもまだ少年の域は出ていない。耳より上だけを結んだ赤茶色の髪は肩辺りまである。瞳は濃いアッシュ。 「そういやあんた、何でこんなとこ閉じ込められてんの?」 「貴方に答える必要がありますか、幽霊さん」 「何だその幽霊さんて」 「窓から出入りするのは幽霊くらいしか思い浮かびませんでした」 「えー、せめて風の精霊さんとかさぁ」 「生憎そんな夢見がちではありませんので」  現実なんか充分すぎる程見てきた。 「まあそうだろうな。俺、カナト。あんたは?」 「リツ……」 「弟君は?」 「……アサギ」 「へー。……で、何で二人は閉じ込められてんの?」 「答えたら助けてくれるんですか?どこかに連れて逃げてくれるとでも?」  カナトに何の目的があるかなんてわからない。でも興味本意で訊かれるのは不快だ。だから敢えてそう言った。 (絶対権力に逆らえるなら逆らってみればいい) 「自分達だけ助けかりゃいいのか?他のヒトハはどうなってもいいって?」 「全てを救えるつもりですか?貴方は随分夢見がちなのですね」  カナトは少し考えて首を振った。 「今の俺には全てを救うなんて無理だな」 「ならもう私達に関わらないでください」  本当は少しだけ、助けを求めた手を掴んでくれるのではないかと期待してしまった。 (私もまだ夢を見れる心があったんですね)  カナトは、前回と同じようにまた来ると言い残し窓から消えた。  半年間通って窓からの侵入にも慣れたけど未だにリツの警戒は解けない。 (今日こそ名前呼んでくんねーかな)  目的の為に利用できるかも、という思いはいつの間にか薄れ変わりに“特別”へと変化していた。  その日カナトがそこへ着いたとき、リツは一人で泣いていた。カナトが来たことにも気付かず静かに。  何度かその光景は見た。見ては悪いかと今まではその場で回れ右して帰っていたけど。暫くその震える肩を見つめる。懸命に自分を保ち、弟を守ろうとする彼の細い肩を。リツの震えが伝わる鎖が小さく音を立て、 「……どうした、リツ?」  その鎖の音を聞いていたくなくて声をかけた。驚いたように振り返ったリツの頬はやはり涙で濡れている。 「……何でもありません」 「何もないのに泣くのかあんたは」 「貴方に関係ありません」  言いながら涙は流れ続けて、その言葉に腹を立てるより先にリツを抱き締めた。 「!」 「……今は助けてやれなくても、ハンカチ代わりくらいにはなれるよ」  カナトの腕の中は温かい。抱かれたくもない男の腕の中で目覚める事も多かったけれど、こんなに温かくて安心する腕は初めてだ。 「貴方は、何故……」 「ん?」 「何故、私に関わるのですか。私はヒトハですよ」  ヒトハは家畜以下。人間の為にその身が果てるまで尽くすだけの存在。ただの道具だ。 「ヒトハだから何だってんだ」 「え……」 「人間とヒトハに何の違いがあるんだよ」  押し出すように言われた言葉が理解出来ずにカナトを見上げる。少しだけ腕を緩めたカナトもリツを見下ろした。 「ヒトハだって、人間と同じだ」  それは誰かに言って欲しかった言葉。一生かかったって聞けないと思っていた言葉。 「……カナト……」 「あ、名前呼んでくれたの初めてだな」  なんて嬉しそうに笑ったカナトの顔が近付いてくる。一瞬ビクリと身を引きかけたリツは動きを止めたカナトと目が合い……、ソッと閉じた。  リツにとってもいつの間にかカナトは不審者からちょっと特別、に変わっていたから。  躊躇いがちに押し付けられた唇が温かい。優しい、フニフニ啄むだけの子供みたいな口付けだ。焦れたのはリツの方。誘うように開いた唇に熱い舌が入り込む。 「ん……」  絡めた舌を吸い上げて、離して、また絡める。  リツの足から力が抜ける頃、二人はようやく口付けを解いた。崩れ落ちるまま座り込んだカナトはリツを胸に抱き締め、上気した頬を撫でる。 「……わり、止まんなかった」 「私も……」  互いの本音はこのまま繋がりたい、だけど。いつここへ王家の人間が来るかわからない状況では無理だと承知している。それにそろそろ隊に戻る時間でもあった。 「また来るよ、リツ」 「……はい」  リツからの初めての了承に、カナトはもう一度だけ触れるだけの口付けを落とした。  救いたい。けれどどうやって。  最近のカナトの脳内はそればかり。出会ってから1年経っていた。リツから敬語が取れて、警戒も薄れてきた。それがカナトには嬉しい。  そんなある日いつもは来ない皇太子が部屋にいて、こっそり窺った窓からリツの弟を見た。  大きな琥珀の瞳を不安に揺らしてリツの服の裾を掴む弟の首にも鎖は繋がっていて、その先はカツキが握っていた。窓は閉まっていて会話は聞こえない。でも何かを必死に訴える様子に良くない事が起きるのは予測がついた。  数日後に訪れたら案の定リツは泣いていて、弟の純潔が奪われた事を知る。 「せめて10歳を過ぎるまでは、と思っていたんだけどね。子供を嬲りたい、という変態は多いみたいだよ」  カツキはそう言って笑っていた。止めてくれ、自分が代わりになるから、と訴えても結局カツキにとっては遊びの1つ。  いつかとは逆にリツの目の前でアサギは犯された。泣き叫ぶ弟の名を呼ぶことしか出来なくて。 「嫌だ……っ、もう嫌……っ」  泣き叫ぶ声が耳から離れない。  助けて、助けて、あにうえ、怖いよ。 (ごめんね、助けたいのに私では無理なんだ)  あの日からカツキは毎日犯されるアサギの前にリツを連れていく。毎日、毎日、少しづつ快楽に染まる弟を見せられる。時にはそんなアサギの横でリツ自信が犯される事もあった。 「お前では……守れないよ」  カツキはそう囁いた。  いっそ狂ってしまえば楽なのか。何もわからない道具に成りきれば苦しみから解放されるのか。 「兄、上ぇ……」  絶望に染まりかけたリツをアサギが呼ぶ。 「ぼく……大丈夫、だから……」 「アサギ……っ」  いつだってリツを引き戻すのはアサギだ。 (私が屈してはダメだ……)  リツが折れたらアサギも挫けてしまう。 (……でも、いつまで?)  限界は近かった。  リツの精神ももうボロボロで、唯一の癒しはカナトとの一時。それがなければ恐らくとうに壊れている。アサギへの想いとカナトへの想い、ただそれだけが今のリツを引き留めていた。  カナトも見ていてそれを薄々察していた。だから自分の選択は間違いなのかも知れない。でも。それでも、救いたい。  泣き崩れてるリツを抱き締めて、一度だけ口付ける。 「リツ……、俺はあんたを救いたい」 「無理だよ……無理なんだよ、カナト…… 」  できるはずがない。  言ってみれば敵はこの国そのものだ。一介の兵士に一体どれだけの事ができると言うのか。  カナトに救いを求めた事も確かにあった。だけどそれが現実に起こり得る訳がない、と誰よりも理解しているのはリツだ。そんな事でカナトという平穏を失うくらいなら今のままがいい。 「聞け、リツ。今の俺には助けてやれない。センティスにいる限りは無理だ。だけど……」 「何者だッ!!」 「!?」  その瞬間部屋に現れたのはカナトの隊の隊長である。隊長はカナトの姿に一瞬驚愕の表情を浮かべ、しかし次の瞬間には銃を向けた。 「絶対助けてやる!絶対迎えに来るから諦めんな!それまで待ってろ、リツ!」 「お前……!?」  その続きは聞けなかった。カナトの投げたナイフは正確に、隊長、と呼んだ男の眉間を貫いていたから。  リツは慌ててカナトの消えた窓から下を見る。隊長が最後の一瞬に鳴らした警報の所為でワラワラ集まる兵をなぎ倒したカナトが城壁の向こうへ消える所だった。 「カナト……」  信じられるはずない約束。でもカナトはいつだって“今は”助けてやれない、と言っていた。助けてやる、と口に出したのならば方法を思い付いたのだろう。 「君は……全てを救うつもりなんだね」  夢物語だ。だけど。  諦めるな。  その言葉を受け止めた。諦めたら終わりだ。 「待ってるから……」  信じてるから。  その日を境に、リツは皇帝の望むままの玩具を演じる様になった。いつになるかもわからないその約束だけを糧に。  ◇  カナさんから過去の話を聞いて数日。  国境は破壊されて追っ手はいない。今日はあんまりにも夕焼けが綺麗で、俺はアサギを車椅子に乗せて外を散歩してた。 「まさか10年もかかっちまうとは思わなかったよ」  あの日カナさんはちょっとだけ自嘲気味に笑ってたけど、やっぱりお兄ちゃんはカナさんがいたから耐えられたんだろう。途方もない約束だったけど、カナさんならきっと守ってくれるのを信じて。  俺もアサギにとってそんな存在になりたい。  何も映さないガラス玉みたいな琥珀を覗き込む。そこにはただ痛そうな顔をした俺が映るだけ。 「ゴタゴタ片付いたら何しようか、アサギ」  桜色の唇が開かれることも、いつもみたいにダンスを誘う王子さまみたいな動きもないけど俺は構わず話続ける。声が届いてるかわからないけど。 「ソラ!」  血相を変えたセンが俺を呼びに来たのはそんな時だった。

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